第34話 人間の火
南の道に四人の人影を見つけたのは、村の周囲を飛んでいた時だった。
昨日まで残っていた胸の傷は、翼を大きく動かしてもほとんど気にならなくなっている。成竜になった身体にも少しずつ慣れ、離陸する時に必要な距離や、旋回する時にどこまで翼を傾ければいいのかも感覚で分かるようになってきた。
朝の見回りを終えたら村へ戻るつもりだった。
だが、木々の切れ間に見えた荷馬の周囲を、灰色の影が横切った。
俺は翼を傾け、高度を少し下げる。
狼に似た身体。
頭には小さな黒い角がある。
一頭ではない。
二頭、三頭。木立の向こうから、さらに一頭が現れた。
以前、南から来た男が見たという魔物と特徴が一致する。
あの時は道を横切っただけだったらしいが、今日は違った。
四頭が荷馬を囲んでいる。
人間たちも黙って襲われているわけではない。
荷馬を大きな木へ寄せ、二人が前へ出ていた。一人は剣を持った男で、もう一人は短い杖を握った女だ。
残る二人は荷馬を押さえている。
狼型の魔物が左右へ散った。
剣の男が正面の一頭へ切っ先を向けると、そいつは飛び込まずに横へ回る。その隙に別の一頭が低い姿勢で荷馬へ近づいた。
女が杖を向けた。
その瞬間、俺は翼を動かすのを忘れかけた。
周囲の魔力が動いた。
風が吹いたわけではない。
木々も草も変わっていない。
それでも、森や地面に薄く漂っていたものが女の周囲へ集まり、杖を持つ腕の先へ流れ込んでいく。
成竜になってから、俺自身が身体へ取り込むようになったものと同じだ。
女の口が動いた。
何を言ったのかまでは、上空からでは聞き取れない。
直後、杖の先で赤い光が弾けた。
炎が走る。
俺のブレスほど大きくはない。人間の腕ほどの長さしかない火が一直線に飛び、荷馬へ回り込もうとしていた魔物の脇腹へぶつかった。
「ギャンッ!」
毛を焦がした獣が地面を転がった。
すぐに起き上がったものの、さっきまでの勢いはない。
俺は空中で女の杖を見た。
魔法。
いや、この世界で何と呼ぶのかは知らない。
だが、俺が前世で生きていた日本なら、小説にも漫画にもゲームにもいくらでも出てきたものだ。
何も燃えていない場所から、人間が火を生み出す。
空想の中では珍しくもなかった。
ところが実際に目の前で見ると、知識として知っているのとはまるで違う。
しかも今の俺には、炎が生まれる前に魔力が集まっていくところまで感じ取れた。
仕組みがある。
少なくとも、杖を振ったら理由もなく火が出たわけではない。
もう少し見たい。
そう思ったところで、正面の魔物が剣の男へ飛びかかった。
男が剣で受ける。
同時に残った二頭が左右から距離を詰めた。
見物はここまでだ。
俺は翼を畳み、高度を一気に落とした。
「上だ!」
誰かが叫ぶ。
地面が近づいたところで両翼を大きく開く。
吹き下ろした風が枯れ葉と土を巻き上げ、魔物たちが足を止めた。
その間へ着地する。
四本の脚が地面を捉えた瞬間、《魔獣感応》を通していくつもの感情が流れ込んできた。
空腹。
獲物への執着。
火を受けた痛み。
突然現れた俺への恐怖。
昨日の鎧熊に似た魔物とは違う。
俺を倒そうとしているわけではない。
腹を空かせて荷馬を狙っていたところへ、もっと危険そうな相手が降ってきた。
そんなところか。
俺は人間たちへ背を向け、翼を半分開いた。
「グルルルル……」
低く唸る。
狼型の魔物が揃って身を低くした。
恐怖が強くなる。
それでも、火傷した一頭だけは牙を見せている。
俺の横で剣の男が踏み出した。
「……まって」
「え?」
男の足が止まる。
俺は魔物から目を離さなかった。
すでに逃げるかどうか迷っている。
ここで人間まで前へ出れば、退路を塞がれたと思って襲ってくるかもしれない。
倒す必要はない。
俺が一歩前へ出る。
四頭が下がった。
さらに翼を広げる。
最初に一頭が森へ走った。
それにつられて二頭が続く。
最後まで残った火傷した個体も、俺へ吠えてから身体を翻した。
追わない。
《魔獣感応》で感じていた恐怖と空腹が、木々の向こうへ遠ざかっていく。
俺は翼を畳んだ。
「……助かった」
剣の男が長く息を吐いた。
荷馬のそばにいた二人も、すぐに手綱と荷を確認している。馬はかなり怯えているが、怪我はなさそうだ。
それを見届けてから、俺は杖を持った女へ顔を向けた。
正確には、女ではなく杖を見た。
さっきの火。
あれが気になる。
女も俺の視線に気づいたらしい。
「これ?」
杖を持ち上げる。
俺は頷いた。
「……まほう?」
女の目が大きくなった。
「知ってるの?」
少し答えに困る。
知っているといえば知っている。
ただし俺が知っていた魔法は、存在しないものとして作られた話の中のものだ。
「……ことば、だけ」
「言葉だけ?」
「……みるの、はじめて」
「ああ。魔術そのものを見るのが初めてなのね」
俺は頷いた。
「私は魔術って呼んでる。土地によっては魔法って言う人もいるけど」
魔術。
呼び方より、今は中身の方が重要だ。
俺は女の周囲へ意識を向ける。
さっきほど大きな動きはない。
森にも地面にも魔力はある。
俺自身にもある。
飛ぶ時には身体の中の魔力を使っているし、成竜になってからは周囲の魔力を身体へ取り込んでいる。
なら、あの女がやったことと、俺が普段やっていることは完全に別物なのか。
「おい」
剣の男が荷馬の手綱を取った。
「興味があるのは分かったが、ここで話すのはやめよう。また戻ってきたら面倒だ」
もっともだ。
四人はもともとルーエへ向かっていたらしい。
俺は一度空へ上がって周囲を確認した。
狼型の魔物が戻ってくる気配はない。
そのまま四人と荷馬を村まで送った。
◇
村へ着くと、ダリオと村長がすぐに出てきた。
「何かあったのか?」
「狼みたいな魔物に囲まれた」
剣の男が答える。
「四頭だ。灰色で、頭に小さな角がある」
ダリオの顔つきが変わった。
「南で見たってやつか」
「同じ個体かどうかは分からん。ただ、特徴はそうだ」
そこは決めつけない方がいい。
ダリオも同じ考えらしく、どの辺りで襲われたのか、何頭いたのか、どちらへ逃げたのかだけを確認した。
村長も南へ出る予定だった者たちへ声をかける。
「今日は一人で行くな。用があるなら何人かで動け。荷馬を出すなら、護衛もつける」
魔物を探して狩るという話にはならなかった。
俺にも追えとは言わない。
逃げた相手を森まで追い回せば、今度はこっちが危険を増やす。
四人が運んできた荷の確認が始まる。
俺はいつものように柵の外へ戻った。
だが、今日は休む気になれなかった。
地面へ伏せながら、さっき見た光景を頭の中でもう一度なぞる。
魔力が集まった。
女を通った。
火になった。
俺のブレスとは違う。
ブレスは身体の内側にある力を喉の奥へ集め、炎として吐き出す感覚だ。
あの女は、周囲の魔力を使っていた。
「そんなに気になる?」
顔を上げる。
杖の女が立っていた。
少し離れたところにはダリオもいる。
「さっきから杖ばっかり見てたでしょう」
「……きになる」
「正直ね」
女が笑い、俺から数歩離れたところへ腰を下ろした。
「何が知りたいの?」
聞きたいことは多い。
だが今の俺が話せる言葉は、まだ多くない。
考えてから、一番重要なところを聞く。
「……どう、やる?」
「魔術を?」
「……ああ」
女は俺を見上げたまま黙った。
断られるかと思ったが、そうではなかった。
「竜に魔術を教えたことはないなあ」
そりゃそうだろう。
横でダリオが鼻を鳴らす。
「人間だって、そんな経験がある奴はそういないだろ」
「たぶんね」
「……できない?」
「そこまでは言ってない」
女が杖を地面へ置いた。
「ただ、人間と同じやり方でいいかは分からない。身体の作りから違うもの」
まともな答えだ。
俺が竜だから何でもできる、と決めつけられるより信用できる。
「それでもいいなら、私がやっていることは説明できるよ」
「……たのむ」
言葉が出ると、女が少し驚いた顔をした。
ダリオはもう慣れている。
「こいつ、聞きたいことがある時は覚えるのが早いぞ」
「便利ね」
便利というか、必要だから覚えているだけだ。
そこへリナまで走ってきた。
「何するの?」
「ヴァルが魔術に興味あるんだって」
「ヴァルも火を出すの?」
「まだ出せるとは言ってないよ」
女はそう言ってから、地面の上へ杖先を向けた。
「まず、自分の中にある魔力を感じる」
それなら分かる。
俺は体内へ意識を向けた。
胸の奥から腹、脚、翼へ広がっている力。
飛ぶ時に使うものだ。
「分かる?」
「……わかる」
「もうそこはできるんだ」
女が少し考える。
「じゃあ、外にある魔力は?」
「……わかる」
「それも?」
「成竜になってからだ」
ダリオが代わりに説明した。
「周りから何かを身体へ取り込んでるらしい。昨日から飯の量も少し変わってる」
「それ、先に聞きたかったな」
女の表情が変わった。
「だったら本当にできるかもしれない」
俺もそう思っている。
「人間の場合は、自分の魔力を使って周囲の魔力へ働きかける。少なくとも私はそう習った」
女が片手を胸へ置く。
「全部を無理やり引っ張るんじゃない。ほんの少し、自分のところへ寄せる感じ」
俺は周囲へ意識を広げた。
空気の中。
地面。
草。
どこにでも薄く存在している。
普段なら、その一部が自然に身体へ入ってくる。
「集めたら、次は形を決める」
「……かたち?」
「火なら火。水なら水。風なら風。何を起こしたいのかを、できるだけはっきり思い浮かべる」
ずいぶん感覚的だ。
俺の顔に出たのか、女が苦笑した。
「説明しにくいのよ。熱いとか、燃えるとか、揺れるとか。そういうものを頭の中で作るの」
なるほど。
そこはむしろ、俺には有利かもしれない。
炎そのものなら何度も見ている。
前世ではガスコンロも使った。
焚き火も知っている。
蝋燭の小さな火も、燃え広がる火も知っている。
しかも今の身体なら、自分でブレスまで吐ける。
火を知らないわけではない。
「やってみる?」
女が尋ねた。
俺はすぐに始めず、周囲を見る。
柵。
乾いた草。
木造の家。
近くにはリナもいる。
「……ここ、だめ」
「え?」
「……もえる」
俺が家の方を見ると、女は一拍置いて頷いた。
「その判断ができるなら安心した」
ダリオも笑った。
「火を出す練習を村の真ん中でやる馬鹿じゃなくて助かったな」
俺だってそこまで間抜けじゃない。
◇
村から少し離れた、土と石の多い場所へ移った。
周囲に燃えやすい草が少なく、何かあっても村まで火が届かない。
ダリオは念のため水を入れた桶まで持ってきた。
そこまで必要かと思ったが、初めてやることだ。
用心するに越したことはない。
「最初から大きな火を出そうとしないで」
女が言う。
「火花くらいでいい。出なかったら今日はそれで終わり」
「……わかった」
俺は地面へ四本の脚をつけた。
まず、自分の中の魔力を意識する。
次に外。
森の方が濃く感じるが、この場所にもある。
普段なら身体へ取り込む流れを、今日は途中で止める。
前脚の先。
そこへ、ほんの少しだけ寄せる。
すぐ散った。
何も起きない。
リナが黙って見ている。
ダリオも余計な声を出さない。
もう一度。
今度は引っ張ろうとしすぎない。
俺の身体へ入ってくる時の流れを思い出す。
水を手で掴むんじゃない。
流れる先を少し変える。
前脚の爪先に、薄い魔力が集まった。
「……そこ」
女が小さく言った。
俺にも分かる。
ここからだ。
火を思い浮かべる。
大きな炎はいらない。
ブレスも違う。
蝋燭の先。
焚き火から飛ぶ火の粉。
指先へ触れれば熱いが、地面一面を焼くようなものではない。
赤く。
熱を持つ。
燃える。
集めた魔力へ、その形を重ねる。
何も起きない。
集中が切れかけた。
焦る必要はない。
魔力を集めるところまではできた。
なら、そこから何が足りないのかを確かめればいい。
もう一度、火を思い浮かべる。
今度は見た目だけではなく、熱を意識した。
前脚の先で空気がわずかに揺れた。
ぱちっ。
乾いた音が鳴る。
赤い火花が一つだけ弾けた。
ほんの一瞬だった。
地面へ落ちる前に消え、焦げ跡すら残らない。
「出た!」
リナの声が飛んできた。
俺は爪先を見る。
何もない。
だが、感覚は残っている。
「今ので初めて?」
女の声がさっきまでより低い。
「……ああ」
「本当に?」
「……ああ」
女が黙った。
ダリオが俺と女を交互に見る。
「そんなにおかしいのか?」
「普通は、外の魔力を感じるところでかなり時間がかかるの」
「こいつは飛ぶ時から魔力を使ってる」
「それは聞いた。でも、集めたものを別の形に変えるのは別の話よ」
女は俺の前脚を見る。
「火花一つだけど、ちゃんと火になった」
俺も分かっている。
ブレスとは違った。
身体の中にある炎を吐き出したんじゃない。
周囲にあった魔力へ、自分の意思で働きかけた。
結果として、火花が生まれた。
たったそれだけだ。
それでも大きい。
「もう一回!」
リナが言った。
俺は爪先を見たまま、首を横へ振った。
「やらないの?」
「……きょうは、おわり」
「もうできそうなのに」
「……だから」
リナが首を傾げる。
言葉を探す。
「……できそう、あぶない」
今度は女が吹き出した。
「それは正しい」
俺は火を出した。
だからといって、火の魔術を使えるようになったわけではない。
どれくらい魔力を集めれば、どれくらいの火になるのか。
距離は。
持続時間は。
途中で止められるのか。
何一つ分からない。
成功した直後が、一番調子に乗りやすい。
前世でも、機械でも車でも、少し扱えるようになった頃の方が危ないことは珍しくなかった。
火ならなおさらだ。
「次にやるなら、今日と同じ場所で」
女が言った。
「水も用意して、最初は同じ大きさを出せるか確かめる。大きくするのはそのあと」
俺は頷いた。
その順番なら納得できる。
ダリオが水桶を持ち上げた。
「今日は結局、こいつの出番なしだったな」
「使わないで済んだなら、それが一番だよ」
「違いない」
村へ戻り始める二人の後ろで、俺はもう一度爪先を見た。
そこに火はない。
火傷もしていない。
魔力も、さっき使った分ならすぐ戻りそうだ。
それでも、世界の見え方が少し変わった。
空を飛べるようになった時とも、人間の言葉を口にできるようになった時とも違う。
人間が使っている力を見て、その仕組みの一端を自分でも再現できた。
なら、火以外はどうなのか。
水は。
風は。
そもそも魔術でできることに、どこまで限界があるのか。
聞きたいことはいくらでもある。
だが、全部を今日試す必要はない。
「ヴァル、帰るよ!」
少し先でリナが振り返った。
「……ああ」
俺は翼を広げかけて、やめた。
飛ぶほどの距離でもない。
地面を歩いて三人の後を追う。
村へ戻る道の途中、女が振り返った。
「そういえば、ヴァル」
「……なんだ?」
自分でも少し驚いた。
二語が前より滑らかにつながった。
女も一瞬目を見開いたが、聞きたかったことを続ける。
「あなた、火を吐けるんでしょう?」
「……ああ」
「だったら、どうして魔術の火まで覚えたいの?」
俺は歩きながら考えた。
ブレスがある。
戦うだけなら、それで足りるかもしれない。
だが、魔術が火だけとは限らない。
飛ぶために使っていた魔力と、人間が暮らしの中で使う魔力が同じものなら、知っておいて損はない。
今の言葉で全部説明するのは難しい。
だから、一番近いものだけ答えた。
「……できること、ふえる」
女が少し黙った。
「なるほど」
それ以上は聞かなかった。
俺もそれで十分だった。
強い炎が欲しいわけじゃない。
今の俺に必要なのは、できることを一つずつ増やしていくことだ。
その日の夕方、俺は村から少し離れた場所で、もう一度だけ前脚の爪先を眺めた。
試さない。
ただ、感覚だけを思い出す。
集める。
形を決める。
無理に大きくしない。
火花一つ。
今日は、それで十分だ。




