第23話 山から水が消えた
崩れた山肌を見た瞬間、俺はすぐに村へ戻る気にはなれなかった。
角走りが水を求めて東から来た。
その先を調べると、山の中腹を流れていたはずの水が消えていた。
そして、その上には大きな崩落跡がある。
偶然で片づけるには、出来すぎている。
俺は翼を広げ、もう一度空へ上がった。
崩れた場所へ近づきすぎないよう、高度を取って山肌を見る。
上からなら分かることもある。
崩落は一か所だけではなかった。
最も大きく崩れている場所を中心に、その左右にも細い亀裂が走っている。木が何本も根ごと倒れ、土と岩が谷へ押し出されていた。
問題は、その土砂の先だった。
水がない。
山の上から続いていた細い流れが、崩落した場所で途切れている。
いや。
途切れているというより――。
俺は少し高度を落とした。
崩れた土砂の一部だけ、色が違う。
濡れている。
水は消えたんじゃない。
どこかに流れている。
俺は崩落地から離れた場所へ降りた。
四本の脚で地面を踏み、鼻先を下げる。
湿った土の匂い。
草。
折れた木。
腐葉土。
その中に、水の匂いが混じっている。
崩れた斜面へ向かって歩いた。
足元の土は柔らかい。
途中から、ぬかるみが増えた。
水はある。
だが、表へ出ていない。
崩れた土砂の下へ潜っているらしい。
俺は前脚で地面を掻いた。
少し掘っただけで、泥の中から水が染み出してくる。
やっぱりだ。
水そのものがなくなったわけじゃない。
崩落で流れが塞がれ、地下へ潜っている。
それなら角走りが水場を失った理由にもなる。
だが――。
俺は掘るのをやめた。
これをどうにかするのは、俺一頭では無理だ。
力任せに土砂を崩せば、水が一気に流れ出すかもしれない。
その先に何があるか分からない状態でやることじゃない。
まず村へ知らせる。
俺は翼を広げた。
◇
村へ戻ると、広場に人が集まっていた。
俺が東へ飛んでいったまま戻らなかったからだろう。
「戻ってきた!」
子供の声が飛ぶ。
俺が広場へ降りると、何人かがすぐに近づいてきた。
人の言葉を話せないのが、こういう時は本当に面倒だ。
俺は地面へ前脚を伸ばした。
まず山を描く。
その斜面に一本の線。
水だ。
線を途中まで引き、そこで止める。
「水?」
一人が気づいた。
俺は頷いた。
次に山の途中へ大きく何本も線を引き、崩れた土砂を示す。
「山崩れか?」
頷く。
「それで水が止まった?」
もう一度頷いた。
そこまでは伝わった。
俺は少し考え、止めた水の線の先に前脚を置いた。
線を消す。
代わりに、その下へ線を引く。
「……下?」
頷く。
「水が下へ行ったのか?」
強く頷いた。
ようやく伝わった。
男たちが顔を見合わせる。
「それで角走りがこっちまで来たのか」
「水場を探してたってことか?」
俺は頷いた。
少なくとも、今分かっている範囲ではそう考えるのが自然だ。
別の男が山の方を見る。
「直せるのか?」
俺は首を横に振った。
「無理なのか?」
違う。
もう一度首を振り、今度は前脚で地面を大きく崩すように掻いた。
そのあと、水の線を一気に村の方へ伸ばす。
「……崩したら水が一気に出る?」
頷く。
「ああ、それはまずいな」
分かってもらえて助かった。
俺なら大きな岩を動かせるわけじゃない。
爪で土を掘ることはできても、山一つを安全に直せるほど便利な力は持っていない。
それに、仮に掘れたとしても、塞がっていた水がどこへ流れるか分からない。
山の下へ全部流せば、それで解決という話ではない。
「人を連れて見に行くか」
「いや、今日は遅い」
空を見る。
日が傾き始めている。
「明日の朝だな」
「縄と杭を持っていこう。近づいていい場所だけでも分かるようにした方がいい」
「鍬もいるか?」
「掘るなって話だろ」
「見るだけなら棒の方がいい」
話が進んでいく。
俺が全部決めなくてもいい。
むしろ、人間にしか分からないことも多い。
俺は村人たちのやり取りを聞きながら、地面に描いた山を見た。
岩猿。
鎧熊。
角走り。
ここ最近、村の近くでは普段と違う動きをする魔物が続いている。
全部が同じ原因だと決まったわけじゃない。
だが、少なくとも角走りは水を探していた。
その水場が、山崩れで使えなくなっている。
なら、調べる価値はある。
◇
翌朝。
俺は村の男たち五人と一緒に東へ向かった。
人間の足に合わせるため、今日は飛ばない。
先頭を歩きながら、時々立ち止まって周囲を見る。
昨日の角走りはいない。
森も静かだった。
一刻ほど歩いたところで、最初の異変が見つかった。
「ここだ」
男の一人が立ち止まる。
地面に、細長い窪みがある。
昨日は空から見ていたから気づかなかった。
幅は人間が二人並べるくらい。
草が倒れ、底には湿った泥が残っている。
「川……じゃないな」
「水の通り道だったんじゃないか?」
俺は窪みの底へ降りた。
土は湿っている。
水が流れなくなってから、それほど長くは経っていない。
男の一人が泥を指で触った。
「まだ乾いてない」
別の男が周囲を見る。
「角走りの足跡もあるぞ」
確かにある。
大きな蹄の跡が、水の消えた窪みに沿って続いていた。
俺たちはその跡を追った。
途中、角走りの足跡は何度か水辺へ降り、また上がっている。
水を探したんだろう。
やがて、昨日見つけた崩落地が見えてきた。
「……でかいな」
誰かが呟いた。
村から見える山とは印象が違う。
近くで見ると、斜面そのものが削り取られている。
男たちはすぐには近づかなかった。
「ヴァル」
名前を呼ばれた。
俺は振り返る。
男が地面を指す。
「昨日はどこまで行った?」
俺は崩落地の手前まで進み、止まった。
そこから先へ前脚を出し、首を横に振る。
「ここまでか」
頷く。
「なら俺たちもここまでだ」
そうしてくれると助かる。
人間は俺より小さい。
岩が一つ落ちてきただけでも危ない。
男たちは離れた場所から崩落を調べ始めた。
一人が山の上を見る。
「上から水が来てるな」
「見えるのか?」
「あそこ。岩の間が濡れてる」
俺も目を凝らす。
確かに、水が細く流れている。
だが、途中で土砂の中へ消えていた。
「水は止まってない」
男が言った。
「下へ抜けてるだけだ」
昨日俺が見つけたことと同じだ。
それでも、人間の目でも確認できたのは大きい。
別の男が棒を地面へ差し込む。
少し離れた場所。
さらに別の場所。
「こっちは硬い」
「そっちは?」
「柔らかい。水が回ってるかもしれん」
「近づくな」
すぐに棒を抜く。
慎重だ。
俺もそれでいいと思う。
ここで誰かが怪我をしたら、何のために調べに来たのか分からない。
男の一人が崩落地の左側を指した。
「昔の水は、あっちへ流れてたんじゃないか?」
見る。
土の形が少し違う。
草の生え方も違う。
浅い溝のようなものが、山裾へ続いている。
俺たちは崩落地を大きく避け、その先へ回った。
しばらく進む。
そこで、別のものを見つけた。
石だ。
自然に転がったものではない。
人間の膝ほどの高さの石が、何個も並んでいる。
「これ……」
一人が土を払う。
石の端がまっすぐだった。
「誰かが置いたな」
別の男も隣の石を見る。
「水を流してたんじゃないか?」
石の列は、山から村の方向へ続いている。
途中で土に埋もれているが、明らかに自然の並び方ではない。
俺は前脚で一つを軽く掻いた。
土の下から、さらに石が出てきた。
「待て、ヴァル」
止められた。
俺は顔を上げる。
「掘るな。水が来たら困る」
なるほど。
言われてみればそうだ。
俺は前脚を引いた。
男が笑った。
「お前でも止められることあるんだな」
俺は鼻から息を吐いた。
何だと思われてるんだ。
別の男が石の列を見ながら歩く。
「これが昔の水路なら……」
途中で止まる。
「村の方へ行ってるぞ」
全員が黙った。
俺も石の列を見る。
今まで、村の水は近くの川と井戸を使ってきた。
だが、ここには別の水の道がある。
しかも、山の水場から村の方向へ伸びている。
「昔、誰か住んでたのか?」
「分からん」
「村まで続いてるなら、うちの前にいた連中かもしれない」
「途中で切れてるかもしれないぞ」
「それを調べるんだろ」
男たちの声に、さっきまでとは違う熱が混じった。
山崩れそのものを直すのは危険だ。
だが、古い水路が残っているなら話は変わる。
塞がれた場所を無理に掘らず、水を別の場所へ逃がせるかもしれない。
俺は石の列を目で追った。
森の中へ消えている。
ここから先は、地面を見ながら進む必要がある。
今日は崩落を見るために来ただけだ。
道具も人手も足りない。
一人が言った。
「印だけ付けて戻ろう」
別の男も頷く。
「明日はこっちを追えるようにしてくる」
「山を崩すよりは安全そうだ」
俺は頷いた。
決まりだ。
男たちは木の枝へ布を結び、石の列が消える場所に印を残した。
俺はもう一度、崩れた山を見る。
水が消えた。
魔物が動いた。
その原因を追ってきたら、土の下から古い水路が出てきた。
まだ何も解決していない。
だが、山を力任せに掘る以外の道は見つかった。
帰ろうとした時だった。
森の奥から音がした。
枝が折れる。
全員が止まった。
俺はすぐに人間たちの前へ出る。
低く身構え、音のした方を見る。
もう一度。
ガサッ。
茂みが揺れた。
出てきたのは角走りだった。
一頭だけ。
昨日の四頭のうちの一頭かは分からない。
角走りは俺たちを見た。
逃げない。
襲ってもこない。
しばらくこちらを見たあと、顔を横へ向けた。
その先には、水の消えた窪みがある。
角走りはそこまで歩き、鼻先を下げた。
泥しかない。
何度か地面の匂いを嗅ぎ、また顔を上げる。
「まだ水を探してるのか」
男が小さく言った。
俺は動かなかった。
角走りも動かない。
やがて、そいつは俺たちではなく、山の方を見た。
昨日まで水が流れていた場所。
そこをしばらく見てから、森へ戻っていった。
追わない。
追う必要もない。
俺たちが直そうとしているのは、人間のための水だけじゃなかった。
山の水が止まれば、そこを使っていた生き物が動く。
角走りだけとは限らない。
なら、この古い水路を調べる意味はさらに大きい。
村へ水を戻す。
同時に、山から降りてくる魔物を減らせるかもしれない。
俺は木に結ばれた布を見る。
その下には、土に埋もれた石が続いている。
明日は、この先だ。




