第2話 飛べない竜の勝ち方
畑へ踏み込んだ時には、巨大な猪が倒れた男まであと十歩ほどに迫っていた。
土を蹴るたび、低い振動が腹の底まで響く。
森の縁から見た時点でも大きいと思ったが、近くでは印象がまるで違った。泥をまとった胴は俺の何倍も重そうで、肩までの高さもこちらより上。口の両側から伸びた牙は、まともに受ければ鱗ごと腹を抉られそうな太さがある。
今の俺が正面から止められる相手じゃない。
だから、止めない。
「ガァッ!」
倒れた男と猪の間へ斜めに走り込み、できるだけ大きく吠えた。
巨大な耳が動く。
猪の小さな目が、男から俺へ向いた。
それで十分だった。
鼻先がわずかに振れ、突進の線がこちらへずれる。俺はそのまま畑の横へ逃げた。
右の後ろ脚が痛むせいで、歩幅が揃わない。柔らかい畑の土も走りにくく、爪が沈むたびに速度を奪われる。
背後から足音が迫った。
速い。
振り返った瞬間には、もう目の前だった。
俺は横へ身体を投げる。
避け切れなかった。
牙の先が脇腹を掠め、身体ごと弾かれる。
「ギャッ!」
土の上を二度転がった。
青灰色の鱗が数枚剥がれ、その下へ焼けるような痛みが走る。
猪は俺のいた場所を突き抜け、十数歩先まで行ってから前脚を踏ん張った。土を深く削り、ようやく止まる。
そこで初めて、こいつの弱点らしいものが見えた。
速いが、小回りが利かない。
あれだけ重い身体で全力疾走すれば当然だ。突進を始めてから急に向きを変えることも、すぐ止まることもできない。
力比べなら負ける。
速さでも、傷のある今は勝てない。
なら、こいつが苦手なことをさせればいい。
俺は立ち上がりながら周囲を見回した。
村の畑は平地ではない。山の斜面を削って何段かに分け、それぞれの境を低い石積みで支えている。畑の端には雨水を逃がすための溝があり、木の柵も斜面に沿って何本も立っていた。
その柵の一部が、猪に壊されている。
倒れた杭。
砕けた石。
泥へ転がった横木。
そして一本だけ、根元を残したまま途中から折れた太い杭があった。
裂けた先端が、斜め上を向いている。
根元は崩れた石積みと土の間へ深く挟まれ、簡単には動きそうにない。
あれなら使える。
問題は、猪が都合よく刺さってくれるかどうかだ。
向こうが鼻息を荒くして振り返った。
俺しか見ていない。
さっきまで村人へ向いていた意識を、完全にこっちへ引きつけられたらしい。
都合がいい。
猪が前脚で土を掻いた。
来る。
今度は直線で逃げず、石積みのすぐ脇を走る。
猪も追ってきた。
背後の足音が大きくなるたび、右脚の痛みを無視して進路を少しずつ曲げた。俺なら身体一つ分の幅で向きを変えられるが、猪はそうはいかない。石積みを避けるたびに大きく外へ膨らみ、そのぶんだけ距離が開く。
俺は一段下の畑との境まで走った。
低い石積みを前脚で越え、翼を開く。
飛ぶためじゃない。
落ちる勢いを少しでも殺すためだ。
腹を石へ擦りながら下の畑へ滑り落ちた直後、背後で石の崩れる音がした。
猪が同じ場所へ突っ込んできた。
前脚が崩れた石へ乗り、巨体が大きく傾く。
転ぶかと思ったが、そこまで甘くない。
猪は首を振って石を弾き飛ばし、斜面を強引に下りてきた。
さっきより怒っている。
村人の姿など、もう見てもいない。
俺だけを追っている。
その状態を保ったまま、折れた杭まで連れていけばいい。
俺は畑を横切った。
猪が追う。
直線では差を詰められる。だから溝と石積みの間を縫うように走り、相手が方向を変える回数を増やした。
それでも余裕はなかった。
息が荒くなる。
罠に挟まれた右脚は感覚が鈍くなり、脇腹からも血が滲んでいる。
長引けば、先に俺が動けなくなる。
折れた杭が近づいた。
俺はその横を通り過ぎ、猪との間に杭が入る位置まで移動した。
振り返る。
駄目だ。
今のまま突っ込ませれば、猪は杭の左側を抜ける。
ほんの少しだけ、進路を右へずらしたい。
俺は逃げるのをやめた。
猪も一瞬、足を緩める。
巨大な頭が低く下がった。
完全に俺を狙っている。
ここから真っ直ぐ来る。
胸の奥へ意識を向ける。
狼に襲われた時と同じ熱が、腹の底から上がってきた。
喉はまだ痛む。
あの炎で、この巨体を焼き殺せるとは思えない。
だが、最初からそのつもりはない。
猪が走り出した。
土が弾ける。
俺は動かない。
巨体が近づくにつれて、身体が勝手に逃げろと訴えてくる。
十歩。
七歩。
五歩。
牙の形まではっきり見えたところで、口を開いた。
「ガァッ!」
狙ったのは胴体ではない。
右目の前だ。
炎が視界を横切った瞬間、猪は反射的に顔を左へ背けた。
ほんのわずか。
それでも、全力で走っている巨体には十分だった。
進路が右へずれる。
俺は前脚で地面を蹴り、翼をいっぱいに広げながら横へ飛び込んだ。
飛行ではない。
勢いをつけて身体を投げ、翼で少しだけ滞空時間を稼いだだけだ。
牙が尾のすぐ後ろを通過する。
次の瞬間、背後で木が砕けるような音と、獣の叫びが重なった。
振り返る。
猪が止まっていた。
斜め上へ突き出していた杭が、首の付け根から肩へ深く食い込んでいる。
突進の勢いそのものが、自分の身体を杭へ押しつけたのだ。
血が流れ落ちる。
それでも死んでいない。
猪は吠えながら巨体を左右へ振り、杭から逃れようともがいた。根元を押さえていた石が軋み、一つが土の中から浮き上がる。
抜ける。
ここで森へ逃げれば、俺は助かるかもしれない。
だが、傷ついたまま暴れられたらどうなる。
視線を村の方へ向ける。
さっき倒された男は、別の村人二人に引きずられて畑の外へ運ばれていた。リナもその近くにいる。何人かが槍や鍬を持っているが、杭に刺さった猪へ近づけずにいた。
俺が途中で放り出せば、あいつはまた村へ向かうかもしれない。
そこまで考えて、俺は猪へ近づいた。
怖くないわけじゃない。
むしろ、さっきより怖い。
追われている時は考える暇がなかったが、目の前で暴れる牙を見れば、自分の身体がどれほど小さいか嫌でも分かる。
それでも正面には回らない。
牙の届かない背中側へ回り込み、杭を抜こうとして体勢を崩した瞬間を待つ。
猪が大きく身体を捻った。
前脚が滑る。
巨体が横倒しになった。
今だ。
俺は首筋へ噛みついた。
硬い毛が口いっぱいに入り、その下で厚い皮膚が牙を押し返す。
さらに顎へ力を込める。
皮が破れ、温かい血が流れ込んできた。
猪が暴れた。
首を振られ、身体ごと持っていかれそうになる。俺は後ろ脚で踏ん張らず、前脚の爪を土へ深く立てた。傷ついた脚へ無理に力をかければ、先にこちらが離れることになる。
押さえ込む力なんてない。
だから、起き上がる邪魔だけをする。
猪が前脚を立てようとすれば首へ体重をかけ、身体を捻れば動きに合わせて位置を変える。
どれくらい続いたのか分からない。
やがて、暴れる力が少しずつ弱くなった。
前脚が地面へ落ちる。
呼吸が浅くなり、それも止まった。
それでも俺はすぐには離さなかった。
獣が死んだふりをするかどうかなど知らないが、確認せず牙の前へ出るほど余裕はない。
しばらく待ってから、ようやく口を離した。
急に脚から力が抜ける。
その場へ座り込みたいのを堪えたところで、腹が鳴った。
我ながら現金な身体だ。
死ぬかもしれない戦いを終えた直後だというのに、目の前の肉を見て食欲が湧いている。
だが、考えてみれば当然だった。
今日まともに食べたのは、リナにもらった黒パンだけ。その前には狼から逃げ、崖から落ち、今はこんな大物と戦った。
遠慮して倒れる方が馬鹿らしい。
俺は首元の傷から肉を少し噛み切った。
生肉だった。
日本にいた頃なら、口へ入れるという発想すらなかっただろう。
ところが今の身体には驚くほどうまい。
噛むたびに血と脂の味が広がり、空っぽだった身体へ熱が戻ってくる。
二口、三口と食べる。
もっと欲しい。
そう思ったところで、畑の端から複数の足音が聞こえた。
顔を上げる。
村人たちが集まっていた。
槍。
鍬。
斧。
武器になるものを持った大人が、死んだ猪を挟んでこちらを見ている。
負傷した男はすでに畑の外へ運ばれていた。別の大人が子どもたちを家の方へ下がらせている。
誰も近づいてこない。
無理もない。
青灰色の鱗を血で汚したドラゴンが、巨大な獣の首を食い破った直後なのだ。
助けたつもりでも、向こうから見れば次に村を襲う怪物かもしれない。
森の方から、一人の若い男が駆けてきた。
二十歳を少し過ぎたくらいだろう。肩には獣の毛皮を掛け、背中には矢筒。手に持った弓へ矢をつがえる動きに迷いがない。
こいつは狩人か。
若い男は畑の入口で足を止めた。
倒れた猪。
壊された畑。
負傷した村人。
最後に、血のついた口元を持つ俺。
弓が上がった。
矢尻が、まっすぐこちらを向く。
周囲の村人が何か叫んでいる。
俺にはまだ意味が分からない。
ただ、警戒されていることだけは嫌でも伝わった。
リナが人の間から飛び出した。
「――!」
若い男へ駆け寄り、俺と死んだ猪を何度も指しながら必死に何かを話している。
男はリナへ短く言葉を返したが、弓は下ろさない。
俺も動かなかった。
ここで威嚇すれば話は終わる。
村人へ近づいても同じだ。
なら、選べることは一つしかない。
俺は猪から口を離し、ゆっくり一歩下がった。
若い男の弓が動き、矢尻が俺を追う。
さらに一歩。
死体との距離を広げる。
リナがこちらを見る。
俺は猪へ視線を戻した。
まだ腹は減っている。
できるなら、もっと食べたい。
だが、この村の畑は貧しかった。リナの昼飯は硬い黒パン一つで、それすら半分になった。
これだけの肉があれば、村人にとっては俺よりずっと価値がある。
全部持っていくつもりはなかったが、口で説明できない以上、死体から離れるのが一番分かりやすい。
俺はさらに後ろへ下がった。
若い男の弓が、ほんの少しだけ下がる。
完全には下ろさない。
それでいい。
俺だって、この村の人間を信用したわけじゃない。
黒パンをくれたのはリナ一人だ。
あの狩人が昨日の罠を仕掛けた本人という可能性だって、今の俺には否定できない。
俺は村人たちへ背を向けず、畑の外までゆっくり距離を取った。
森へ入る直前、もう一度だけ振り返る。
村人たちはまだ俺を見ていた。
その中で、リナだけが武器を持っていない。
少女は何かを言いながら、片手を胸の前まで上げた。
意味は分からない。
別れの挨拶なのか、礼なのか、それとも戻ってこいと言っているのか。
今の俺には判断できなかった。
ただ、若い狩人はもう弓を引き絞ってはいなかった。
その後ろでは数人の村人が、恐る恐る猪の死体へ近づき始めている。
あの黒パン半分の借りとしては、ずいぶん大きな返しになった。
けれど、これで帳消しにしたとも思えなかった。
リナがくれたのは食べ物だけじゃない。
この世界で目を覚ましてから初めて、人間に敵意以外のものを向けられた。
その価値を、肉の重さで量る気にはなれない。
俺は鼻を鳴らし、森へ入った。
傷を休める場所を探さなければならない。
そして次にあの少女と会うことがあるなら――せめて、何を話しているのかくらいは分かるようになりたいものだ。
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