8.何はともあれ、踊りませんか
夜会の始まりを告げる鐘が鳴る少し前――
すでに社交界では、一つの衝撃的な噂が密やかに広まり始めていた。
今回の騒動の中心人物、ルゼリア・オルディス公爵令嬢は、
王国裁定局による“身柄拘束”という処遇を受けていた。
罪状の詳細は公表されていない。
だが、王家は「オルディス公爵家の名誉に関わる事案」として
徹底した箝口令を敷き、事実関係の外部流出を厳しく禁じている。
ゆえに公式の場では誰も語らない。
語れない。
――しかし。
「……あの方、なにか“良からぬ組織”との噂があったとか」
「使用人まで事情聴取とか……真偽は分かりませんけれど」
「まあ……公爵家が表沙汰にできないというのでしたら、逆に……ね」
「まったく……品位とは、落ちる時は早いものですわ」
扇の端に隠れる唇は、恐れと好奇の熱を帯びて震える。
そして、次に囁かれた名は――シャルム。
「それにしても……マリエール嬢、お一人でお越しになるとか」
「お気持ちは察しますけれど……」
「……わたくしでしたら、とても耐えられませんわ」
くすくすと、抑えた笑い。
――だが、次の瞬間。
入場口から現れたシャルムを見て、令嬢たちの口はぴたりと閉じた。
赤いドレスが揺れ、金の髪が光を宿し、
背筋を伸ばし、堂々と歩く彼女の姿は――誰が見ても、圧倒的に美しかった。
しかし噂など、シャルムには一切届いていない。
彼女の心を満たしているのは、たった一つ。
逸る気持ちが抑えられない。
(――ロイス様。ロイス様、ロイス様……!)
そして――視線がぶつかった。
会場の奥で、ロイスがこちらを見ていた。
その瞬間、シャルムの世界は白く弾けた。
「ロ、ロイス様ぁっ……!」
気づけば駆けだしていた。
「シャルム?」
ロイスが目を見開き、口元に笑みを浮かべる。
「あ、あの、わたくし……っ、わたくし……っ……!」
緊張も、噂も、周囲の視線も。
すべて吹き飛んだ。
「...可愛いお嬢さん、踊りませんか」
「えっ...わっ....えっ...」
半ば強引にロイスの手に導かれるまま、シャルムは舞踏の中央へ進む。
音楽がゆるやかに始まり、周囲の視線が自然と二人に吸い寄せられていく。
「……大丈夫だ。俺がいる」
不安そうな顔をするシャルムにロイスがそっと腰に手を添える。
その距離の近さに、胸の奥がじん、と熱くなる。
「は、はい……っ」
一歩、また一歩。
踏み出すたび、シャルムのスカートが柔らかく揺れ、
ロイスの手の温かさが、触れたところから伝わってくる。
じわりと頬が熱くなるのを感じ、鳶色の瞳から目をそらしたくなる。
「ロイス様……っ……!何か...言ってくださいませ....」
「……お前があんまりにも綺麗で見とれていた」
耳元で低く囁かれ、シャルムの心臓が爆発しそうになる。
「~~~っっ!!」
言葉にならない息を漏らすシャルムに、ロイスはわずかに口角を上げたまま、優しくステップを合わせてくれる。
二人の足取りは自然と息が揃っていき、重なる影がスポットライトで一つに溶けてていく。
音楽が少し高まり、ロイスはシャルムを軽く回した。
赤いドレスの裾が花のように開き、空気がふわりと舞う。
くるり―。
視界がロイスに戻ると、シャルムはわずかに息を呑んだ。
(……ロイス様が、こんな表情……)
胸の奥が甘く痛む。
何度も夢に見た光景なのに、現実は、夢よりずっと美しい。
音楽がゆっくりと終わりに向かう。
スポットライトが二人を照らし、会場は自然と静まっていった。
そして――ロイスが膝をついた。
ざわめきが、また波紋のように広がる。
「――シャルム・マリエール」
「……はい……っ」
彼は小箱を開き、彼女を見つめる。
「もう一度、俺と婚約してくれ」
「……ロ……ロイス様……っ」
ぽたり、と涙が落ちる。
「ロイス様は...ずるいでず...」
声が震え、息が詰まり、言葉が涙に溶けていく。
「シャルム、ちょ、ちょっと来い!」
「ひぐっ……ロイス様のばかぁ...っ」
「分かった、全部あとで聞く! まずは……落ち着け!」
彼は涙と鼻をすすり続けるシャルムを連れて、会場の視線を背に、バルコニー奥の応接室へ退避した。
扉を閉め、椅子に座ったと同時に、また涙がぽろぽろと。
「すみません...っみっともないところを...っ」
「いや、泣かせたのは俺だ……すまん」
ロイスは膝をつき、目線を彼女に合わせて優しく微笑んだ。
「……改めて言わせてくれ。シャルム。
俺はお前が好きだ。もう二度と手放したくない。
――俺と婚約してくれ」
シャルムの涙がまた溢れる。
「だから! そういうのがずるいんですの~~っ!!ひぐっ……っ
わたくしも...好きに決まってますわぁぁ……!」
ロイスは思わず吹き出した。
「お前……泣きながら告白するの、ほんと反則だぞ」
「反則をしているのはロイス様のほうですわ……っ」
彼はそっと手を伸ばし、シャルムの指を握った。
「じゃあ……誓うか?」
「……え?」
「俺がもう二度とお前を悲しませないって。
お前が泣いたら、全部俺が受け止めるって。そういう誓い」
シャルムの胸がきゅっと掴まれる。
ロイスは、いたずらめいた笑みを浮かべた。
「指切り、するか?」
シャルムは震える手を出す。
「……指切りげんまん……っ
嘘ついたら……針千本ですの……」
ロイスはくすりと笑い、彼女の小指を絡めた。
「嘘なんてつくわけないだろ。お前だけだ。シャルムだけ」
「ロイス様ぁ……っ」
二人の小指はゆっくり離れ、
今度はロイスがそっと顔を寄せた。
部屋の外で待機していたクロードは、静かに呟いた。
「……お嬢様。どうか末永くお幸せに」
その声音には、一滴の揺らぎもない。 完璧な従者の祝福。
クロードは背筋を伸ばし、穏やかな微笑みを保つ。
そして、バルコニーでは誰にも気づかれず影がよぎる。
黒髪が風に揺れ、 紅い唇が妖しく歪む。
「ふふ……あなたたちの甘い未練―― しっかりいただいていくわね♡」
スピリタスはひらりと指先を払う。
光の粒が舞い、姿がすっとかき消えた。残されたのは、祝福と甘さに満ちた空気だけ。
――未練が残した恋は、今、確かに実を結んだのだ。




