a:エカント
信仰に戸惑いを覚え、救いについて考えれば考えるほど、私の心にあの錬金術師のことが引っかかった。あの錬金術師のことを調べれば、なにか糸口が見つかるかもしれないとひとりで錬金術師のことを調べていたある日のこと、神殿の窓口業務の担当をしている時に、大学時代からの友人のセレネから電話がかかってきた。
もちろん、神殿の電話にかかってきているので私用ではない。セレネは占星術師のアシスタントをしていて、その仕事の一環で、占星術に使う機材、特に式盤というものを神殿で清めて欲しいという依頼の連絡だった。
こういったものの清めの儀式は、要望があれば神官が出張して行うこともできるけれども、できれば神殿でやった方がより効果を得られる。なので、セレネは神殿の来訪予約を取りたいとのことだった。
いったん電話を保留にし、パソコンで祭祀担当の神官に話を回し、スケジュールを送ってもらう。それから、セレネとまた通話をする。
「お急ぎですよね?
でしたら、今週なら木曜の十四時からの枠と金曜の十時からの枠が空いています。
来週でもかまわないのでしたら、火曜全日と水曜の九時から十二時までの枠がそれぞれ空いています」
相手が友人とはいえ、業務の話なので事務的に話す。セレネも仕事中だという自覚があるのだろう。事務的な口調でこう返してきた。
「それなら、今週木曜の十四時から予約お願いできますか?」
「かしこまりました。木曜十四時から予約を承ります」
それから、失礼します。と言って電話を切る間際、セレネがこう言った。
「またね」
その一言に、なんとなくうれしい気持ちになった。
そして木曜日になって、予定通りの時間にセレネがバチカ神殿にやってきた。清めの儀式も含めた祭祀受付は、聖堂のように壮麗な天井画や壁のレリーフはないけれども、受付には必ず、布でできた菜の花の造花が飾られている。言ってしまえば、菜の花の造花以外は役所の受付とそう変わらないつくりだ。だからだろうか、セレネは慣れたようすで窓口までやってくる。
大きなトートバッグをふたつ肩からかけているセレネは、カジュアルなパンツスタイルに占星術師らしい意匠の、星があしらわれているマスクを付けている。少し長めの前髪から見え隠れするそのマスクの額には、占星術師の資格を持った人にしか付けることのできない文様も入っていた。
「どうも。今日の十四時から予約していたセレネですが」
他人行儀なその言葉に、私も事務的にお辞儀をして返す。
「お待ちしておりました。
本日は式盤の清めの儀式でお間違いはありませんか?」
お互い事務的なやりとりをして、セレネからトートバッグを片方受け取る、中には段ボール箱で梱包されたものが入っていて、中身を取り出すと複雑な模様が描かれた板が出てきた。
東西南北、八方位、十二のモチーフを描いた正方形の地盤の上に、七つ星や時間が描かれた天板が乗った重い板。これが占星術に使う式盤という機材だ。
式盤を確認してから、祭祀担当の神官に内線で連絡をする。すると、すぐに祭祀担当の神官がやってきて、式盤を預かっていった。
清めの儀式の間、一般人は儀式の部屋には入れないので、応接室で待ってもらうことになる。その時に、神官になにか相談があった場合は、そのまま多少なりとも相談を受けることもある。
そう例えば、神官にたわいもない悩み事を話したりだとか、ただ話を訊いて欲しいだとか、そんな些細なことでも、私たち神官が対応するのだ。
しかし、中には神官に接待を求めてくる人もいるので、そういった人はブラックリストに載せて、対応を拒否することもあるけれども。
なにはともあれ、こういった対応をする時に、私と話したいという人がこのところ多いので、禁書の管理の合間に私が窓口担当を任されることが増えたのだ。
せっかくセレネが来てくれたのだし、話をしたいな。
私がそう思っていると、セレネがこう言ってきた。
「それでは、待っている間神官さんとお話をしたいのですが」
すこし周りを伺ってから訊ねる。
「だれか、希望の神官はいらっしゃいますか?」
期待を抱きながらセレネの言葉を待っていると、セレネは口元で微笑んでこう答えた。
「あなたが良いです、モイラ」
思わずちいさな笑い声が漏れる。
「かしこまりました。
では、一緒に応接室に参りましょう」
窓口から出て、セレネと一緒に近くにある応接室に入る。明かりを点けると、応接間の壁には白い壁紙が貼られ、中央にふたりがけのソファふたつが向かい合わせに置かれている。ソファの間にテーブルがあり、壁際にあるキャビネットにポットとお茶が置かれている。一見して典型的な応接間だ。もちろん、テーブルの上には菜の花の造花が飾られているけれども。
まずはセレネにソファに座ってもらって、備え付けのポットでお茶の準備をする。なにも難しいことはない。スティック状の袋に入ったお茶の粉末をティーカップに入れて、お湯を注ぐだけだ。
セレナは柑橘が好きだというのを知っているので、ホットレモンティーを用意した。
セレネと、私の席の前にティーカップを置いて、私もソファに座る。
すると、先ほどまでの事務的な雰囲気がなくなったセレネが、親しげにこういった。
「モイラ、久しぶり。最近どう?」
その言葉に、私も口元に手を当ててくすくすと笑う。
「本当に久しぶり。
最近は禁書の管理と拝観者さんの相手をすることが多いかな。
仕事とはいえ、神殿まで来てくれてうれしい。セレネは最近どう?」
私の言葉に、セレナは恥ずかしそうに頭を掻いてこう返す。
「まあ、相変わらず先生のアシスタントやってるんだけど。
実は、先生は清めの儀式は出張でやってもらうつもりだったみたいなんだけど、神殿でやってもらった方がいいって私が言ったら、そう言うなら責任もってお前が持って行けって言われてさ」
「わぁ、たいへん」
セレネが今日持ってきた式盤は、女性が持ち運ぶには少々重いものだ。セレネが師事している先生……占星術師は男性のはずなので、その先生が持ってくる方が妥当な気はした。
そう思ったのだけれども、セレネはにっと笑ってこう言う。
「モイラに会いたくてそう言ったんだけどさ」
その言葉に耳が熱くなる。たいへんな思いをしてまで私に会いたいと思ってくれるのがうれしかった。
こそばいゆいような、恥ずかしいような、そんな気持ちをごまかすように、セレネと大学時代の話をする。あの頃はふたりでずいぶんと無茶な遊び方をしただとか、お互いレポートや論文で煮詰まった時にカフェで居座ってノートパソコンと向き合っていただとか、そんな話だ。
「モイラがそんなだったって知られたら、おどろいちゃう人結構いるんじゃない?」
セレネの言葉に、私は苦笑いする。
「まあ、最近なんかこう、私に夢を見てる人が多い自覚はある……」
「SNSでも結構、これモイラのことかな? って投稿見るからねぇ」
「こわ……」
神殿に来る信徒たちが自分を見る目のことは知っていたけれど、SNSで自分の話が出回っているのは知らなかったので若干こわい。
思わずため息をついていると、セレネが私の頭を撫でてこう言った。
「そういえば、今は神殿で暮らしてるんでしょ?
家族と離れてて寂しくない?」
そのことにすこしだけ胸が痛む。そして素直にこう返した。
「寂しいけど、たまに連絡できるから。
休みの日とか夜なら、通話もできるし」
「そっか」
それから何度かセレナが私の頭をベール越しに撫でて、くすくすと笑う。
「モイラは大学の時から甘えん坊だから、心配になっちゃってさ」
思わず頬を膨らませる。
たしかに、私は甘えん坊な自覚はある。大学時代、ことあるごとにセレネのことを頼っていたし、家でも両親に甘えたりしていた。
さすがに、弟のデクモにはしっかりした姉でいたつもりだけれども、セレネからすれば、私はデクモにも甘えているように見えていたようだった。
セレネが膨らました私の頬をつつきながら笑う。
「学生の時みたいに、モイラに甘えてもらえないのは寂しいなぁ」
「もう、またそんなこと言って」
思わず私も笑ってしまう。そう、セレネは大学時代から、ことあるごとに私にお姉ちゃんぶっていたっけ。
同い年なのになんでだろうと不思議に思っていたけれども、理由は単純だった。セレネも、小学生の時に生まれたばかりの妹を神様に連れて行かれていたのだ。
妹のお世話をするんだと意気込んでいたところに神様が顕れて、その気持ちの行き場を失ったのだろう。だから、セレネはことあるごとに他の人の世話を焼きたがるのだ。
「ねぇ、神様に連れて行かれた子は、どうしてるのかなぁ」
ふとセレネがそうつぶやく。私は迷わずにこう返す。
「きっと、神様の元でしあわせに暮らしてるよ。だって、神様の伴侶になったんだもの」
その言葉に、セレネは口角を上げる。これは納得できないことを言われた時のセレネの癖だ。
きっと、セレネは妹を神様に連れて行かれたことをまだ納得できていないのだと思う。それでも、この現実を受け入れているのだ。
正直言えば、私も弟を神様に連れて行かれたことを納得できているかと訊かれると、即答はできない。でも、納得していると自分に言い聞かせているのだ。
ふと、セレネが持っていたトートバッグに手を入れる。
「そういえば、神様と言えばおもしろいものがあってさ、モイラに見て欲しかったんだ」
「私に?」
おもしろいものというのはなんだろう。
不思議に思ってこう訊ねる。
「占星術関連のもの?」
「そう、占星術の古い論文で、モイラなら興味持つかなって思って」
セレネはそう言って、紙の束を私に渡す。これが論文らしい。
「この論文は守護星に関するものなんだけども、非常に希なケースについて書かれているんだ。
これに関しては占星術師もお手上げっていう、なんともミステリアスな論文だよ」
そう言ってセレネは両手を肩の位置に挙げる。
守護星というのは、すべての人に生まれた時から携わっている、運命を決める星のことだ。その守護星を占う占星術は一般的に親しまれていて、興味があればすぐに占うことができる簡易的なシステムもあるほどだ。
けれども、厳密に占うのであれば本職として資格を持った占星術師にやってもらった方がいい。その方が正確にでるからだ。なので、占星術師はより高い精度で守護星を割り出せるように常に研究を続けている。
その研究の中で、不可解な結果がでたことが一度だけあるのだろいう。
その結果というのは、守護星の位置を生まれた場所や時間、日にち、名前、性別などから計算した結果、なにもない空間の座標がでたというものだ。
計算間違えの可能性も考慮し、何度か試行した結果、何度も同じ座標がでる。
では、その座標にどんな意味があるのかといろいろな星占術師と学者で研究をした結果、神様が住むといわれている虚空、[エカント]の位置だということがわかった。
このことが書かれた論文が発表された当時、占星術学会は騒然としたらしい。
エカントは虚空だ。虚空だけれども、そこに神様の住居がある。
私たちの目には見えないし、観測もされないけれども、エカントには神様の住む社と、そこを囲む見渡すばかりの菜の花の花畑があると神話で言い伝えられている。エカントとはまさに、神様の領域なのだ。
そのエカントの、神様の守護を受けている人物は誰なのか、神様の守護を受けるとどうなるのかと、学会の外にまで話題は波及したらしい。
けれども、それが誰なのかは結局発表されなかった。
発表されなかった理由はなんとなく察せられる。神様の守護がある人物ともなったら、担ぎ上げられるだけならまだしも、誰かが悪巧みをして利用したり、最悪、神様の加護があることに嫉妬されて殺されてしまうこともあるだろうからだ。
そうしているうちにその話は風化してしまい、論文は記録として取っておかれているだけで人々の記憶から忘れ去られたのだとセレネは言った。
忘れ去られた論文を見つけて、なんとなくおもしろかったから。とセレネは笑った。
私は論文を受け取って、それなら読んでみるとセレネに言葉を返した。正直言えば、興味深いけれど少しこわい。少しだけ手が震える。
すると、セレネはにっと笑ってこういう。
「もしなにかわかったら、私にたれ込んでよね、神官様」
「もう、セレネってば相変わらずなんだから」
ふと、渡された論文を見て思い出す。
「そういえば、セレネのお父さんが学者じゃなかったっけ?
それだと、お父さんに読んでもらったほうがおもしろい推測が出そうだけど」
私の問いに、セレネは苦笑いをして返す。
「そう思って見せたんだけど、お父さんにはよくわかんなかったみたい。
まあ、お父さんは学者っていっても数学の幾何学専攻だから、占星術のことはわからなくてもしょうがない」
「幾何学ってなに?」
「あ~……説明が難しいしいろいろあるんだけど、お父さんは球体を平面の正方形にする方法を研究してる」
セレネの言っていることがひとつもわからない。数学と言えば、計算をするものだと思っていたのだけれども違うのだろうか。文系で数Ⅱまでしかやっていない私には数学がわからない。
数学も占星術も理系なのだから、わかりそうなものだけれど。
「それじゃあ、お母さんはどうなの?
お母さんは大学で呪術の単位取ってたって聞いてるけど」
数学の話がわからないので私が話をそらすと、セレネは不満そうにマスクの縁を指で叩きながら返す。
「うーん、呪術取ってたっていっても、一般教養で取っただけらしいからなぁ。お母さんの専攻は服飾文化だし。
理系の論文ってだけで嫌がられちゃった」
「わからないでもない……」
わかる。文系からすれば理系の論文はとっつきにくいのはとてもよくわかる。
私はたまたま、弟のデクモが星の動き、占星術ではなく天文学の方に興味があってそういった本を読んでいたから、天文や占星術に関する論文に抵抗が少ない。それだけのことなのだ。たぶん、さっきセレネが話に出した幾何学の論文を渡されそうになったら丁重にお断りするだろう。
それにしても。不思議に思ったことを訊ねる。
「私も大学の専攻が文学で文系なのに、なんでこの論文を見せようと思ったの?」
素朴な疑問に、セレネは口元で笑って返す。
「モイラは神学校で神学やったでしょ?
神学的視点で読んだらどうなるのかなって思ったの」
「ああ、神学。なるほど」
たしかに、神官になるために通わなくてはいけない神学校では、当然神学は必修単位だ。
神学Ⅰ、神学Ⅱ、神学応用、神学史、とにかく神学に関する単位をたくさん取らなくてはいけなかった。
私はいま、神官になっているということはそれら神学の単位を全部取れているわけなのだけれども、正直言ってそこまで成績がよかったわけではない。まあまあ平均、神学応用に至っては及第点といった感じだ。
神学校でのボランティア活動の評価が高かったから、なんとか神官になれた形なのだ。
だから、神学的視点でと言われても自信がない。
思わずまごまごしていると、セレネは私の気持ちを知って知らずかこんなことを言う。
「モイラ以外に見せられそうな神官も神学者もいないからさ」
「まぁ、それはそう……」
神官の知り合いがいたとしても、神官は神殿の宿舎で寝泊まりしているし、宿舎は一般人立ち入り禁止だ。しかも、神官の勤務日は神官長が一方的に決めるので、休日も一定ではない。外部の方がよほどうまく予定を調整しないと会うことはできないのだ。
そう、今日私とセレネがこうやって話せているのも、私がたまたま窓口業務をやっていたからで、今日私が他の業務をやっていたら会えていなかったかもしれない。
窮屈な生活だとは思うけれども、これも神様に信仰を捧げるためなのだから受け入れるしかない。そう思った瞬間、胸がちくりとした。
その痛みを誤魔化すように、論文をめくりながら口を開く。
「神様の守護を受けた人の話なんて、私の家族も興味があるかも。
今度、通話する時に話してみようかな」
私の言葉を聞いたセレネが、口をとがらせて訊ねてくる。
「最近、家族とは会ってないの?
弟くんとずいぶん仲いいみたいだけど」
セレネの言葉で、実家で暮らしていた頃の記憶が一気によぎっていく。それから、神官になって、神官用のマスクを賜った時の思い出で思考を止めて返す。
「神官になってから、直接は会ってないかな。
通話はしてるから、姿は見てるんだけど」
自分でもおどろくほど寂しげな声だった。なにかあったらすぐに飛んでくると言っていたデクモの言葉を思い出して胸が潰れそうになる。
家族と会えなくなることを覚悟した上で神官になったはずなのにどうしてだろう。
そんな戸惑いを見透かすように、セレネがさらに訊ねてくる。
「家族と会いたくないの?」
胸が痛い。家族みんなで過ごした日々を思い出せば思い出すほど、痛みは深くなる。
それでも私はこう答えた。
「会いたいけど、私は神様に仕えてるから」
セレネは私の言葉に、そっか。と一言だけつぶやく。
正直言えば、家族と一緒に暮らしているセレネのことがひどくうらやましい。自分で選んだことなのに、そう思ってしまうのは身勝手だとわかっていてもそう思ってしまう。
なにも言えずに、黙っていると、セレネがふとこう言った。
「まあ、家族になかなか会えないと寂しいのはわかるよ。
私も今、ひとり暮らしだし」
「え?」
予想外の言葉におどろいた。セレネは元々、実家から師事している占星術師の事務所に通っていたはずだ。ひとり暮らしをする理由が見つからなかった。
私の疑問を察したのか、セレネはため息をついてこう続ける。
「実家からでも通える職場だけど、ちょっと人使いが荒いからさ、通勤時間が惜しかったわけ。
それで、事務所の近くでひとり暮らししてる」
「ああ、なるほど」
「まあ、トラムとトランジットに乗って一時間ちょっとで帰れる距離だけどね」
通勤で一時間となると、まあまあしんどいのはわかる。大学に通っていた頃、実家から一時間ちょっとの通学がたいへんだったし、通勤も似たようなものだろう。
理由に納得しながら、私は訊ねる。
「よく実家に帰ってはいるの?」
セレネはにっと笑って答える。
「仕事の都合がつけば、たまにね」
「そっか」
たまにとはいえ、家族に会えるんだ。やっぱりうらやましい。
そう思っていると、応接室のドアをノックする音が聞こえた。どうやら、セレネが持ってきた式盤の清めが終わったようだった。
セレネとおしゃべるできる時間も終わりかと、少し寂しく思いながら応接室から出て、窓口に戻る。
窓口の中で清め終わった式盤を受け取り、元通りに梱包してセレネに渡す。
「清めが必要な時は、いつでもご連絡ください」
私がそう言って一礼すると、セレネも一礼してから、封筒を手渡してくる。
「本日はありがとうございました。
こちら、気持ち程度ですが」
封筒を受け取り、窓口の内側にいる会計担当の神官に渡す。会計担当の神官が清めの証に神殿の紋章を印刷した紙に判を押す。それを受け取りセレネに手渡す。紙を受け取ったセレネは、もう一度頭を下げてから帰って行った。
セレネの姿が見えなくなってから、なんとなくそこにいる、会計担当の神官に訊ねる。
「あの、家族に会いに行くのはできないのでしょうか」
すると、会計担当の神官はちらりとこちらを向いてからこう返す。
「こちらから行くことは神殿の規則により禁止されています。
神殿の用事以外で外に出ることは好ましくありません」
わかっている。そういう規則だというのをわかった上で、私は神官になったのだ。
会計担当の神官が、すこし厳しい声で続ける。
「家族よりも、神様を優先するのが神官の勤めです」
わかってる。それもわかってる。それでも、その事実はひどく悲しく思えた。
なにも返せず押し黙っていると、会計担当の神官がこちらを向いて、窓口の内側にある机を指さす。
「ところで、その紙の束はなんですか?
神殿の書類ではなさそうですが」
そういえば、セレネから渡された占星術の論文があったのだった。
私は論文を手に取って返す。
「先ほど来た友人からの差し入れです。
占星術の論文を、神学的な視点から見て欲しいとのことで」
「なるほど、学問を神様の視点から見て欲しいという考えは、褒めるべきものですね」
セレネのことを褒められてついうれしくなる。けれども、会計担当の神官はこう続けた。
「ですが、あまり外部の知り合いと直接会って親しくするのはよくありませんよ。
窓口担当の職権乱用だと思われてしまいます」
その言葉に口の中に苦みが広がる。
「……はい。以後気をつけます」
そうしていると、時を告げる鐘が鳴った。窓口業務も終了の時間だ。
業務が終わったら、夕方の礼拝だ。礼拝の準備をするために、どの神官も宿舎の自室へと向かう。私も自室へと向かった。
自室の机の上に論文を置いて、礼拝用に作られた金属の造花を持つ。廊下に出ると、同じように造花を持って白いローブとベールをなびかせる神官達がぞろぞろと聖堂へと向かっていた。薄暗い廊下を歩く神官達は、みな白いローブとベールを身に纏っていて、顔の上半分を多うマスクに施されたプラチナの装飾が、時折抑えた照明を照り返して光る。その光と、廊下に響く固い足音はいつ見聞きしても厳粛な雰囲気がある。
蝋燭だけで照らされた聖堂に入り、長椅子に座る。天井に描かれた菜の花畑と星空の天井画と、壁に施された菜の花のレリーフが神秘的な陰影を作る中、神官長が祭壇の前に立ち、礼拝を進めていく。
以前だったら心が安らぐ時間だったのに、このところはなぜか胸が痛んでしかたがなかった。
礼拝と夕食を済ませ、短い夜の自由時間を迎えた。少し冷え込む部屋の中で、祭祀用のベールとローブ、その下に着ていたレースの肌着を脱いで部屋着に着替える。まだ部屋の照明は点けていていい時間なので、最大限に明るくしている。
家族と通話したいなとすこし思ったけれど、ふとセレネから渡された論文が目に入りそういえばと思う。早速論文を読んでみることにした。
論文の内容を読んでみると、私が知っている占星術よりもずっと専門的で難解なことが書かれていた。数式や座標も書かれているのだけれども、私にはこれらをどう読み解けばいいのかわからない。
けれども、度々出てくるエカントの座標だという数列を見て、私ははたと気づいた。
私はこの数列をどこかで見たことがある。
そのことに気づいた翌日から片手に論文を持って、禁書の管理をする時間に図書館へ入り、読んだ記憶のある本を出して中身を確認していく。
人目を盗んで、ひとりでこっそりと確認していく作業は時間がかかった。それこそ、数日どころか数ヶ月を要した。
ある日のこと、前任の禁書図書館の管理人であるハラドさんにこう訊かれた。
「モイラ、禁書の管理の仕事はどうですか?」
いかにも心配そうなようすなので、私はなんとか作り笑いをして返す。
「おかげさまで順調です」
「そうですか、それならいいのですが」
ハラドさんはそこでいったん言葉を切ってから、こう続ける。
「気のせいでしょうか、最近、あなたのようすがおかしい気がするのです。もしかしたら禁書の毒気にやられて疲れているのではないかと思ったのですが」
おもわずぎくりとする。一瞬、禁書を焼いているときに笑っていたハラドさんの顔を思いだしぞっとする。
このところ、ハラドさんが焼きたいと熱望している禁書を調べていることがばれたのだろうか。
なんとか誤魔化さないとと思いながら、指を君で言葉を返す。
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫です。
禁書に触れるのはたいへんなことですが、誰かがやらなくてはならないことですし」
すると、ハラドさんはまた心配そうにする。
「そうですか。信仰篤きモイラ、やはりあなたがあの図書館の管理人としてふさわしいようです。
ですが、耐えられないほど疲れ切ってしまう前に、私や神官長に訴えてくださいね」
「はい、心に留めておきます」
その短いやりとりのあと、ハラドさんは以前よりも穏やかな足取りで廊下を歩いて行った。なにも疑問を持たずに。
そう、神殿の中でも特に信仰が篤いといわれている私が、禁書に心揺さぶられるはずがないと、みな信じて疑わなかった。
そんななか、ついにエカントの座標と同じ数列を見つけた。それは、神様を憎む錬金術師のことが書かれているあの日記だった。
そこにはこう書かれている。錬金術師の守護星を占ったら、この座標が提示された。と。
この日記を書いた呪術師は、この座標がなにを示しているかについては言葉を濁している。けれども、これはたしかに、手元にある論文に書かれているエカントの座標と同じだ。
神様を憎んだ錬金術師は、神様の守護を受けていた?
神様の力を与えられていた?
もしそうなら、この錬金術師をよみがえらせれば神様を倒すことができる?
そんな考えが一気に頭の中をよぎっていった。
神様を倒せるなら、それなら……
頭の中に神殿で目にした理解しがたいことや暴走する信徒、救いに対する絶望が浮かんでいき、最後に神様に抱かれた弟の姿がよみがえる。
生まれたばかりで、髪も頬も柔らかで、すやすやと眠っていた弟。
あの弟が、あの日神様の腕に抱かれなければ、私は弟と一緒にしあわせな日々が過ごせたはずだった。
一緒に積み木やぬいぐるみで遊んで、小学校に入ったら一緒にゲームをして、大きくなったらみんなで夢に向かってがんばって、そのなかでもし、好きな人ができたら一緒にそのことを話してよろこびと悩みを共有して……そんなしあわせだったはずの生活が頭をよぎる。
そして私は思い出した。ずっとくすぶっていた神様への憎しみを。
憎い。神様が憎い。弟を奪った神様が憎い。
今までずっとこの気持ちに蓋をして、信仰を捧げているふりをしていたんだ。
そのことに気づくと同時に、私は神様からギフトとしてなにを授けられたのかを確信した。神殿で神様に仕えるようになってから、窓口にいる時だけでなく、禁書の図書館にいる時も、私を頼りに、より一層神様に信仰を捧げる人が大勢訪れることを思い出したのだ。
私に授けられたギフトは、いつか誰かが言っていたように信仰することとそれを広める力だ。
このギフトがある私なら、あの錬金術師を新しい神にすることができる。
人々の信仰を集めて、神様に対抗するものにできる。
神様に復讐する。そう心に決めた私は、その日から篤い信仰のようなものを被りながら神殿に仕え、その裏で活動をはじめた。
ああ、ありがとうセレネ。あなたのおかげで、私はほんとうに私がやるべきことがわかったよ。




