第六十六話 迫るシーディア様
癖を滲ませたせいか筆が乗った気がする
随分と穏やかな目覚めであった。
それでも未だ意識が微睡んでおり、気を抜けばすぐさま眠りに誘われることだろう。
(女神様も出てこなかったし、最近の目覚め方としては悪くないな)
ただし、今日はシーディア様が愉しむために付き合わなければならない。もの凄く気が進まないけど、拒否権が無いのが辛いところだ。
いっそのこと、このまま二度寝して忘れてしまいたい。なのに、毎度のことながら現実というのは非情である。
「あら、目が覚めたのね」
声の発生源は真横から。それも吐息がかかるくらいの至近距離。
そしておぞましいプレッシャーを肌で感じ取った瞬間に意識が完全に覚醒し、反射的に跳ね起きようとした。が、それは叶わなかった。
「まだ起き上がらなくていいわ」
という声と共に抱き締められ、拘束されたからだ。声の主が誰なのかは既に察しており、脱出するのはとっくに諦めている。
ため息をつくのを堪え、ささやかに抗議の声をあげた。
「お戯れにしては少し度が過ぎると思うのですが……シーディア様」
「あら、別にいいじゃない。わたくしだって戯れたくなる時はあるわ」
「は、はぁ……」
「ふふふっ」
「何がおかしいんです?」
珍しくシーディア様が笑った。というか、変なことを口にした覚えはないのに、どうして笑ったのだろうか。
ただ、どうも胸騒ぎする。笑っただけだというのに。
「起きてすぐで悪いけど、記憶を覗かせてもらうわね」
「っ!?」
より強く抱き締められ、背中にシーディア様の柔らかい胸が押し付けられて潰れる感触がしたが、この際はどうでもいい。
このまま頭の中を撹拌されるような気分を味わなければならないのだから、内心穏やかではないのだ。
(胸騒ぎの正体はこれかよ!)
「落ち着いてわたくしに身を委ねなさい」
「その、もう少し猶予をくださっても……」
「駄目よ。せっかくゴルディア姉様とオリディアが寝坊しているんだもの。邪魔が入らない今がちょうどいいわ」
「ですが……」
「まだ口答えするのね。温泉で気絶したあなたを引き揚げて体を拭いて、裸だから冷やさないように添い寝してあげたのよ。それでもまだ口答えするのかしら?」
捲し立てるようにそう言われた。
要約すると、またしてもシーディア様のお世話になってしまっていたらしい。こうなると俺の立場が弱くなる。
「そのことに関しては……ありがとうございます」
「お礼は言葉じゃなく、体で返してもらおうかしら」
「あの、その言い方だと色々と語弊が……う゛っ」
言い切る前に俺の頭に手を置き、容赦なく記憶を覗き始めた。
無論、頭の中を撹拌されるような感覚がして気持ち悪い。まるで拷問を受けているような気分である。
だが、悲しいことに耐える以外の選択肢が無いのだ。
(いつになったら終わるんだ……)
開始数分で開放してほしくなった。しかし、それを口にしようとしても、直前に口元を手で押さえられ、物理的に何も言えなくなってしまう。
それからさらに数分後には頭の中がぐちゃぐちゃになって何も考えることができず、無意識に涙を流してシーツを濡らす。
そのことを認識してからさらに数分後、限界が訪れたのか呆気なく意識が暗転。そして気がつけば、ベッドに一人取り残されていた。
「終わった……のか?」
「ええ、あなた自身の素性と目的は大まかに理解したわ」
上から声がして見上げると、椅子に座ったシーディア様がベッドで寝る俺を見下ろしている。ただ、見たところ少し不満げだ。
「本当はもっと深くまで覗きたかったのだけれど、カイトが早く気絶したからあまり愉しめなかったわ」
とにかく、今回はこれで終わったみたいだが、どことなく非難がましく感じる言い方だ。
(俺は悪くない筈だけど、これは謝った方がいいのか?)
と、考えて謝罪の言葉を口に出しかけるも、俺よりも先にシーディア様が口を開く。
「また機会をみて改めて記憶を覗かせてもらうわ。次はわたくしが満足するまで徹底的に覗くから、覚悟してちょうだい」
「ア、ハイ」
目が本気であることを鑑みるに、相当な覚悟をしなければならないのは確実だろう。
だが、オリディアとの勝負に勝てばギリギリ逃げれる筈だ。つまり、勝たなくてはならない理由がまた一つ増えてしまったわけである。
「さてと、今から朝食にしては遅すぎるかしら。もう昼食の時間ね」
「もうそんな時間に……」
何時間気絶していたのやら。そういえば、ここに来て何度目の気絶だろうか。
(確か三回目だったか? なかなかのペースで気絶してるような)
気絶なんて普通は早々にしないものなのだが、ここに住まう人たちは並々ならぬ力を持つ人外であり、俺自身はただの一般人でしかない。
故に、今回のように加減無しだった場合では、すぐさま気絶してしまう。今はまだ致命傷を負うまでには至ってないけども、運が悪ければそのうち死にかけてもおかしくないのだから、恐ろしくて仕方がない。
「あら、顔色が悪いわね。まだ気分が悪いのかしら?」
「い、いえ……大丈夫です」
「嘘は駄目よ。それに、本当は恐ろしいと感じているんじゃないの?」
何故か嘘であると即座に看破された。
確かに本音としては目の前のシーディア様が恐ろしく、命の危険すら感じていた。しかし、シーディア様は他人の思考は読めない筈だ。
(どうやって看破した?)
当然ながら疑問を抱くも、その疑問はあっさりと解消されることとなる。
「直近の記憶を覗いたのだから、カイトがどんなことを考えているのかだいたい理解できるのよ。だから驚くことじゃないわ」
「道理で……」
つまり、シーディア様の前では隠し事はできなくなったとのことだ。ただでさえ思考を読むゴルディア様がいて十二分に厄介だというのに、さらに厄介になってしまった。
(はぁ……シーディア様と会話するだけで気力が削がれそうだな)
「わたくしとお話するのは嫌かしら?」
「いえ! 滅相もありません!」
にこやかに微笑みながら看破してくるのは止めてほしい。後が怖くて心臓に悪い。
ただ、それ以上は言及することはなかったものの、何故か顔を寄せて見つめてきた。逃げたいと思っても、蛇に睨まれた蛙のよう怖気づいて身動きが取れない。
「怯えた顔も可愛らしいけど、ちょっと傷つくわね」
プレッシャーがえげつないし、その気になれば指一本でも簡単に俺を殺せるだろう。だから怖いものは怖い。
ましてや、逃げ場がなく追い詰められているこの状況であればなおさらである。
(ホント、怯えるなっていうのが無理な話なんだよなぁ……)
冷や汗が頬を伝うのを感じながらそう思っていると、不意にシーディア様が視線を俺から逸らし、考え込む素振りを見せる。
「あら、そういえばプレッシャーが苦手だったのよね。えっと、こうすれば……」
と口にした次の瞬間、今さっきまで放っていた筈のプレッシャーを感じなくなった。
これには驚いた。というか、そうやって簡単に抑えることができるものなのだろうか。
「初めてだから少し慣れないわね。だけど、これでカイトは気が楽になれたかしら?」
「は、はい。わざわざありがとうございます」
「この程度ならどうってことはないわ。でも、ゴルディア姉様は面倒に思いそうだから、期待しない方がいいわね」
シーディア様の言う通りだろう。ゴルディア様のことだから、きっと懇願しても「面倒じゃ」の一言で片付けられそうである。
(そうはそうとして、シーディア様はどうして俺に気を遣うようなことを?)
今までの言動からして、裏があるようにしか思えない。
「わたくしとしては、カイトにはここでの生活に早く慣れてもらいたいのよ」
「な、なるほど……」
果たして本当にそうなのだろうか?
そもそも、慣れる必要性がどこにあるというんだ。俺としてはこんなところから早くおさらばしたいのだが。
(待てよ。俺の記憶を覗いたんだから、当然昨日のことも知っているよな。ということは……)
「シーディア様は俺の心が折れて俺がゴルディア様のモノになると思っているわけですか?」
「ふふっ、頭の回転が早いのね。嫌いじゃないわよ」
否定しなかったということは、そういうことなのだろう。嫌な今後の見据え方をしてくれるもんだな。
「機嫌を悪くしたかしら。でも、それだけカイトのことを気に入っているのよ。だから……」
おかしいな。プレッシャーは感じていないのに、悪寒が走ったような気がした。もう続きを聞きたくないのだが、そうはいかないようだ。
「カイトを死なせるなんて、そんなもったいないことはしない。これだけは絶対に約束できるわ」
「昨日も同じようなことを聞きましたが……そこまで本気だったとは」
紛れも無い本音であることは嫌でも理解できた。口調は穏やかではあるものの、眼差しが真剣そのものなのだから。
言い方は引っかかるけども、ひとまずは命の危険はないと認識してもいいだろう。
(つっても、この形容しがたい悪寒は一体全体何なんだ?)
未だに止まる気配が感じられない。
「ねぇ、どうしてまだ身構えているのかしら?」
「さ、さぁ? どうもさっきから寒気がして……」
「いけないわ。あなた、まだ裸だったじゃない。着替え持ってくるから温まるようにしなさい」
と、言い終えるや否や部屋に一人取り残される。それと同時に、体中を駆け巡る形容しがたい悪寒を感じなくなった。
もはや訳が分からない。
「にしても、裸でシーディア様と同じベットで寝てたのか。色んな意味で心臓に悪いな」
ベットで男女二人なんて、何らかのきっかけで間違いが起きてしまいかねない。
さすがにシーディア様に限ってそんなことはないだろうけども、万が一のことがあれば洒落にならないから勘弁してほしいものだ。
「こんな異世界でできちゃった婚みたいなことだけは絶対に嫌なんだけど……」
別の意味で人生が終わってバッドエンド直行待った無しだ。いや、バッドエンドと言うのは言い過ぎかもしれないな。とはいえ、実質的に詰みなのだから大差はないだろう。
兎にも角にも、こんな異世界で他の異性と一線を越えるようなことは望まないし、そんな事態は避けなければ。
鎧の体であればそんなことで悩むことはなかったのにな。やはり、『鎧化』というスキルはかなり重宝できるのではなかろうか。
「まっ、無い物ねだりしても意味がないんだけどね」
「何が無いのかしら?」
「……足音を消して入ってくるのは止めてくれませんかね」
大声を出さなかった俺自身を褒めてあげたい。それでも生きた心地がしなくて、胸が激しく鼓動している。
それはともかく、プレッシャーを感じなかったおかげで、シーディア様の接近に気づけなかった。プレッシャーを感じないだけで、こんな弊害が起こるとは思わなんだ。
(本格的に周囲の気配を読み取れるようになりたいな……)
「余計なことを考えるのは後回しにして、まずはこれを着なさい」
「ありがとうございます」
服を手渡されてそのまま着ようとするも、またしても悪寒が走った。ここまでくると、原因は一つに絞られる。
「シ、シーディア様……その、恥ずかしいので部屋から出てくれると助かるのですが」
「別に減るものじゃないでしょ。それとも、ゴルディア姉様がよくてわたくしだけは駄目なのかしら。カイトがそんな意地悪なことをするなんて酷いわ」
「い、意地悪だなんて……決してそういうわけでは……」
「だったらわたくしが見ても問題ないでしょ。早く着替えなさい」
「ア、ハイ」
有無を言わさぬ圧力を感じ、急いで着替え始めた。
悪寒の原因はシーディア様なのだろうけども、こうなってはもう我慢するしかあるまい。
(しかし、何で悪寒が?)
シーディア様は真剣な眼差しで俺を見ているだけである。
いや、人が着替えているのに、そこまで真剣に見るのはおかしいような。それに、全身を舐め回すように見ているのは気のせいだろうか?
しかも、とうとう身の危険まで感じ始めたうえに、シーディアの視線がどことなく粘着質になってきているような感じがする。
ただ、何事もなく着替えは終わった。終わったのはいいのだが、やはり気になってしまう。
「シーディア様、どうして俺なんかを見ていたのです?」
「今まで男の人の体をあまり見たことがなかったのよ。あなたが気絶していた時もじっくり観察したけれども、実際に動いているところも見たくなったの」
「そうでしたか……」
「お陰様で色々と妄想が捗ったわ。ありがとう」
「え?」
一体、何を妄想していたのだろうか。と気になったものの、何故か末恐ろしくなって聞き出せなかったし、本能がそれ以上は踏み込むなと警鐘を鳴らしている。
この話題はもう終わらせるべきだ。それを理解しているのに、不意にシーディア様が目と鼻の先まで顔を寄せてきた。
「……な、何のつもりです?」
「ふふっ、端正な顔ね。あの女神が細部にこだわっただけのことはあると思ったのよ」
「はぁ」
これ以上は聞くべきではない。なのに、シーディア様は妖しげな笑みを浮かべて口を開く。
「あなたを抱き締めた時なんて、女の子のように体が細くて肌が綺麗なのに、体は筋肉質で骨張っていたから少し驚いたわ」
と語りながら俺の頬に手を添え、肩に手をかけてくる。逃げたいのに、恐怖で体が動いてくれない。
「だから、ふと考えたのよ。カイトを滅茶苦茶にしたら、どうなるのかを」
「冗談ですよね?」
冗談であってほしい。そんな祈りを込めた一言だった。
「失礼ね、わたくしは真面目よ。こういう時は、行動で示した方がいいのかしら?」
「い、いえ、結構です。シーディア様がほ、本気なのはよく理解したので、どうか……お、思いとどまってください」
必死の思いで声を振り絞った。
そして思いが通じたのか、シーディア様は穏やかに微笑んだ。
「ふふふっ、今度こそは冗談よ。カイトはオリディアのお気に入りなんだもの。まだ手を出すつもりはないわ」
(“まだ”ということはいつかは手を出すつもりか?)
だとしたら、こんなところでの長居は避けるべきだ。長居なんてしてたら、シーディア様のせいで心が折れてしまいかねない。
「と、とにかく……近すぎです」
「それもそうね。オリディアに見られた嫉妬されちゃうわ」
そう言うと俺から離れ、同時に形容しがたい悪寒は感じなくなった。
(ひとまずは助かったか)
内心で安堵していると、部屋の外から大声で名前を呼ぶ声が響く。
「ゴルディア様、シーディア様。ただいま帰還しました!」
「この声は……」
「ヴェントじゃない。元気そうね」
聞き覚えのある声だと思ったら、ヴェントだったようだ。そういえば、別れた後は何をしていたのだろうか。
「カイト、ヴェントを出迎えるわよ。今のあなたの姿を見せたらきっと驚くわ」
「生身で会うのは初めてでしたね」
(はたしてどんな反応をしてくれるのやら?)
なんてことを考えながら廊下に出ると、薄緑色のロングのドレスを着た薄緑色の短髪の女性の後姿が視界に入り、声をかけてみた。
「元気にしてたか、ヴェント」
「この声……カイトか!」
勢いよく振り返った。それから俺のことを視界に収めると、ロングのドレスであるにもかかわらず笑顔で駆け出したのである。
眩しい笑顔を見る限り元気そうだ。それはいいのだが何故か危機感を覚え、ヴェントと初めて出会った時の記憶がフラッシュバックした。
そう、力加減できずに頑丈な鎧の体の腕をもいだ時のことを。
「ふぅ……躱した方がいいですかね?」
「ヴェントったら寂しがり屋でね、帰って来るといつも抱き着いてくるのよ」
「へぇ、それは意外ですね。で、どうして俺を前に出すんです?」
俺を盾にするかのように、両肩を掴んで前面に押し出した。抗おうにも、シーディア様は俺の肩が軋む程の力でしっかり掴んでおり、体は微動だにしない。
もはや逃げ出すのは不可能で、このままでは正面衝突は免れないだろう。
「カイトを名指ししているから、あなたが受け止めてあげなさい。それにわたくしが受け止めると、またドレスが台無しになるかもしれないのよ」
「俺にドレスの身代わりになって死ねと?」
「大丈夫、死なせないわ」
「あの、受け止めたら洒落にならないのは確実で……」
しかし、言い切る前にヴェントがとうとう眼前に迫り、ついには……。
「元気にしてたか!? 会いたかったぞ!」
「ごはっ!?」
勢いを落とすことなく真正面から抱きついてきた。
シーディア様のおかげで後ろに倒れ込むことはなかった。その代わり、余すことなく衝撃を受け止めることになり、絶大なダメージを負うこととなったのは言うまでもないだろう。
実際、嫌な音が聞こえて激痛が全身を駆け巡り、一瞬で意識が飛びそうだった。
(痛いってレベルじゃねぇな……)
「いやー、生身の体になれたんだな。なかなかの男前で驚いたぞ!」
「あ、ありがとう……ぐふっ」
内蔵にまでダメージが入っていたのか、口の中に鉄の味が広がる。この調子だと、骨にヒビが入っていそうだ。
これはヤバい。ゴルディア様に肉を喰い千切られた時よりも遥かにヤバい。
(またしても意識が……)
しかも追撃と言わんばかりに力強く抱き締められたことでさらなる激痛に苛まれ、意識が朦朧としつつある。
もはや気絶寸前だ。
「ヴェント、そろそろ落ち着きなさい。これ以上はカイトが死んでしまうわ」
「あっ、悪いなカイト。大丈夫か?」
「大丈夫じゃ……ない」
最後の気力を振り絞ってそれだけを言い残し、意識を手放した。
感のいい人ならとっくに気づいているかもしれませんが、カイトは色んな意味で狙われています。
ただ、カイトとしては意味不明な恐怖を感じているだけなので、そのことには気づいていません。