第一話 異世界への招待は唐突に
朝になって目覚めると、香ばしくて美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
早速だが、控えめに言って異常な状況だ。
「俺って一人暮らしのはずだよな……?」
思わずそう呟いてしまうが、少なくとも同居人なんている記憶なんてない。ついでに言えば、俺に朝食を作ってくれそうな人物なんて皆無の筈。
なのにどうして、こんな朝っぱらからいい匂いがするのだろうか?
「ひょっとして夢でも見ているのか……ってさすがにそれは無いな」
何故なら、今さっき現洗面所で顔を洗ってサッパリして、完全に目が覚めているからだ。これでも夢だというのなら、それはもう悪夢の類かもしれないな……。
「ったく、せっかく休日の朝だっていうのに、何が起きているんだ?」
とりあえずは匂いの出所と思わしき居間に行くとするか。
にしても、誰がいるっていうんだ。まさか泥棒とかじゃないよな。でも高価な代物なんて持ってないし、そもそも料理を作っている理由が分からん。
しかし……誰かがいるであろう居間に丸腰で突入するのは心細いな。いやぁ、どうして俺は居間に携帯端末を置き忘れたのかなぁ? あれば警察とかに連絡できたのに。
過去に戻って己に説教をしたくなるものだ。とはいっても、もはやどうしようもないのが現状である。
男は度胸だとか聞いたことあるし、少なくとも死ぬようなことはないだろう、たぶん。よし、不安は残っているけど、居間の扉をあけてみよう。と、意を決したのだが……。
「おーい、扉の前で何をしているんだ? さっさと入ってきなよ」
「えぇ……」
まさかのまさかで、扉の向こうから男の声が聞こえてきた。
何というか、出鼻を挫かされてしまったな。まさか、先に声を掛けられるなんて、誰が予想できただろうか。
ただし、大きな音を立てた覚えはない。ましてや何も喋っていない筈だ。なのに、俺が扉の前にいることを察知したらしい。
「ますますわけがわからんな」
さらに不可解な点が増えた気がするが……ここで立ち止まってもしょうがない。改めて中に入るとしよう。
そして、気を取り直した俺はそのまま居間の扉を開けた。
すると中には、居間のソファーに一人の人物が座っていて、入ってきた俺に対して何気なく普通に声を掛けてきた。
「よぉ、おはようさん。体調はどうだい?」
「お、おはよう? 体調は……まぁまぁかな?」
いやはや、普通に挨拶をしてくるとは……それに俺の体調まで気遣ってくれるとはな。ここだけなら、実は優しい人なんじゃないかなと思うだろう。
だがしかし、見た目のせいで全てが台無である。
見た目や声からして、性別はやはり男であった。そこまではいい。問題はその服装だ。
というのも、全身が黒で統一されているのだ。黒の帽子、黒のサングラス、黒のコート、黒のズボン、黒の靴下、といった感じで全身が真っ黒。
んでもって名前なんて知ってる筈もないし、とりあえずは黒男とでも呼んでおこう。
それはいいとして……いくら爽やかな早朝であっても、いくら優雅に朝食を取っていたとしても、不似合いとしか言いようがなかった。
もはや完全に不審者の服装である。しかもどことなく怖い雰囲気を纏っているし、一刻も早く通報をして警察を呼びたい。
だけどどういう訳か、俺の携帯端末はその黒男が手に持っていやがるのだ。おかげで通報できそうにないし、どうしたらいいんだよ。
なんて考えながら固まっていると、俺を見かねた黒男が食べるのを止めてから、穏やかな口調で声を掛けてきた。
「ふむ、色々と驚いているようだけど。まずは座ったらどうだい」
「あ、あぁ……」
その言葉に従い、俺は素直に向かいのソファーに座った。
目の前のテーブルには焼きたてのトースト、フワフワなオムレツ、パリッとしたウィンナー、新鮮な野菜のサラダ、透明な琥珀色のオニオンスープ、それから食後に飲むと思われる紅茶の入ったティーポット。
実に豪勢な朝食である。ただしこれからの全てが一人前だ。どうやら俺の分は無いらしい。
おっかしいなぁ。俺が家主の筈なのに、傍から見るとこの黒男? が家主っぽく見えてしまいそうな構図だぞ。
てか、なんで落ち着いて朝食を食べていられるんだ? 普通はもっとこう……って考えたけど、不法侵入者っぽい奴に対して普通とか求めても意味がないか。
むしろ落ち着いていてくれた方がありがたいと言えばありがたい。だけど、同時に怖いとも感じる。それだけ向こうには余裕があるということだから。
そう考えると、思わず手に汗がにじんでしまっていた。
それと、この期に及んで考えるのはアレだが、どうして素直に座ってしまったんだろうな。さっさと玄関に逃げて、外に出てから警察を呼ぶこともできたのに。
不思議である。
「色々と考え込んでいるみたいだね。まずは一つ疑問を解消してあげよう。君が素直に座ってしまった理由については……俺の言葉に従わせる力があったからさ」
「え……?」
俺が内心で抱いていた疑問に答えるように、目の前の黒男が唐突に口を開いて意味不明なことを口にした。
いやいやいや、従わせる力ってなんだよ。超能力とかそんな感じか?
それにサラッと俺の思考を読んでいないか? いくらなんでも、言葉を発するタイミングが偶然にしてはピンポイント過ぎるだろ。
「超能力ではないね。魔法……じゃなくて、お呪いの一種さ。それと、確かに君の思考を読んでいるよ。気味が悪いかもしれないけどさ、スムーズに会話をするには便利でね。悪く思わないでくれよ」
「お、おい……マジかよ」
またしても俺の疑問に答えて、今度こそ偶然ではないと悟った。
それに「嘘だろ」とは言えなかった。だって、嘘を言っている雰囲気じゃないんだもん。これでもし嘘だって言うのなら、詐欺師として一生食っていけそうだな。そう断言できるくらいに、真実味があるのだから。
いやぁ、こんな俺も漫画やアニメのような展開が訪れるとはなぁ。人生は何が起きるかは分からんが、さすがにこういうのは予想外だ。
だけど、素直に嬉しいとは思えない。
「へぇ、それはどうしてだい? 年頃の男の子ってさ、異能系とか異世界系の展開に憧れるもんじゃないのかい?」
「はぁ……ナチュラルに俺の思考を読むなよ。って言っても意味がないか」
「お、察しがいいねぇ。その通りさ。で、さっきの理由を聞かせてくれないかい?」
「はいはい……」
まったく、調子が狂うな。向こうのペースに乗せられっぱなしだ。
とりあえず、気を取り直して話してやるとしよう。
「最初に言っておくけど、俺は穏やかにダラダラしながら生活を送りたいんだ」
「ふーん、随分とまぁ自堕落な発言だね。でも、君はそんな生温くて退屈そうな人生で満足できるのかい? もっと刺激が欲しいとかさ、そういうのがあってもおかしくないだろう?」
この黒男は何を言っているんだ。誰もがそんな生活を求める訳がないだろうに。
というか、刺激を求めすぎて身を亡ぼす可能性もある。俺としてはそんな真似はまっぴら御免だね。
それに、理由はまだ他にある。
「俺にとってはさ、今の平穏で生温い生活でも十分なんだよ。安全に暮らせるし、美味しいものだっていつでも食べれるし、寝心地に良いベッドで毎晩寝られる。控えめに言っても最高の生活だろ」
「うんうん……それもそうだね。平穏な生活は本当に素晴らしいものだよ」
俺の言わんとすることが分かったのか、黒男は同意するように頷いていた。
ただ、その様子はどことなく羨んでいるようにも感じた。まるで、望んでも決して手にすることができなかった。とでも言いたげである。
一体、この黒男の過去には何があったんだ?
「おっと、俺のことは気にしないでくれ。他にもまだ理由はまだ残っているんだろう?」
「あ、あぁ。それで話を続けるけどさ、異能系とか異世界系って、殺伐していることが多いじゃん。しかも殺し合いは日常茶飯事ってことがよくあるし、いくらなんでも血の気が多過ぎるだろ」
「それはまぁ、否定はできないね。血気盛んな連中が多かったよ」
今回の説明も同意できることがあったのか、やはり頷いていた。でもなぁ……懐かしんでいるように見えるのは俺の気のせいかね?
サングラスしているせいで分からないけど、その下では遠い目をしてそうだな。
「それでも敢えて聞くけど、君は異世界で暮らしてみたいとか思わないのかい? 異世界物のゲームをしているみたいだし、少しは興味があるんだよね」
「はぁ? このタイミングでそれを聞くのか?」
さっきから俺の言葉に同意していたはずなのにな。まるで手のひら返しをされた気分だ。そもそもの話として、質問の真意が掴めない。どんな意味があるっていうのだろうか。
てか、俺がそういったゲームで遊んでいることをどうやって知ったんだ? 物色するにしても、娯楽の類は俺の部屋にある筈。
ま、それを考えるのは後でいいか。先に答えてやるとしよう。
「異世界ねぇ。ゲームで遊ぶならまだしも、正直に言って暮らしたくないな。衛生環境は悪そうだし、街とかの治安も悪そうだし、モンスターに襲われて殺されそうだし、後はご飯も美味しいか怪しいからな」
ちなみに俺の想像する異世界とは、化学があまり発達してなくて、代わりに魔法が発達しているイメージであり、遊んでいるゲームの世界観もそういった感じだ。
さらに付け足すと、人に害をなすモンスターがいたり、獣人やエルフ、竜人がゲーム内では住んでいたな。
「そうか。じゃあ改めて聞き直すけど、いわゆるチートスキル的なものを貰って無双したりさ、可愛い子ちゃんたちのハーレムが作れるって言われたら、君はどうするんだい?」
「え、興味ないけど」
即答した。そういった展開の物語は多いけどさ、ああいうのは眺めているだけで十分だからな。
ましてや当事者になろうとは思えないね。チートスキルがあっても実際には死ぬときは死ぬだろう。それにハーレムだって聞こえはいいけど、人間関係が複雑そうでストレスが溜まりそうだと思ってしまう。
だったら、今の世界で平穏に暮らす方がまだマシだ。
「あぁ、そっかー、それは残念だね。実に残念だねぇ」
「おいおい……きゅ、急にどうした?」
黒男の醸し出す雰囲気が一気に怪しくなってきて、言葉には重みが増した気がする。それと同時に、凄まじく嫌な予感がした。
何をしてくるか分からないけど、確実に言えるとしたら、俺にとってよからぬことを企んでいることだ。
だって、現に今の俺は指一本も動かせないのだから。目の前の黒男が俺に何かを施した以外に考えられない。
おいおい、我ながらとんでもない発想だな。こんな非現実的なことが現実で起きる訳がないのにな。
ははは…………やっぱ身体が動かねぇわ。
つまりあれか? 非現実的なことが現実で起きてしまっているってことか。宝くじで一等を当てるよりも確率が低そうだっていうのに? よりにもよってこの俺に?
夢じゃないんだよな?
「夢じゃないさ。いい加減に目の前の現実を受け入れたらどうだい」
「ア、ハイ……じゃなくて! いったいあんたは俺に何をしたいんだ!」
半ばキレ気味にそう言ってしまうが、別に俺の反応っておかしくないよな?
だいたいさ、人の部屋に勝手に侵入して、勝手に食材使って料理して食べるって訳が分からないんだが。
しかも、どんな原理なのか分かりようがないけど、挙句の果てには俺に何かを施して動けなくさせているし。
もはや完全に危ない人だろ。他にも意図が掴めない質問してくるしで、意味不明さに拍車をかけている。
冗談抜きで何が目的なんだ?
「はっはー、若いっていいねぇ。元気があって意気がいいと、期待できそうだよ」
「期待だぁ? あんたは何を言いたいんだよ」
まともな会話すらできそうにないな。どことなく楽しんでいるようにも聞こえる。いや、向こうはもうまとも会話をするつもりがないんじゃないのか? そんな気がしてならない。
だけど、それ以前に俺に対して何を期待しているんだ?
「先に謝っておこう。君を巻き込んでしまってすまないと思っている」
俺の思考を読んでいる筈の黒男からは疑問に対する返答はなく、その代わりとして謝罪が返ってきた。
ただし、そこまで誠意が籠っているように聞こえなかったけどな!
それに巻き込んでしまったって……既に手遅れな感じがするんだが。
え、それってどういうこと?
「あー、そういえば名乗るのを忘れていたね。なにせ普通の人と会話するのは久しぶりのものでね。少し舞い上がってしまったみたいだ。ま、どうせ二度と会うことはないだろうし、名乗る必要は無さそうだね。おぉっと、君の名前は既に知っているよ。神谷カイト君だよね」
「驚くところなんだろうけど、もう驚く気にはなれないな。それで? これから俺はどうなるんだ?」
突っ込む気力すらも失せた。向こうも名乗る気が無いらしいから、わざわざ聞くのは止めておこう。無駄な労力になるのは目に見えている。
ただし、「二度と会うことはない」って言葉に関してだけは無視できない。あまりにも不穏すぎる。少なくとも、穏やかではなさそうだ。
せめて、具体的に何が起きるかを教えてもらいたいものだな。
「おや、時間が迫っているようだね。詳しい内容は次に目を覚ました時に分かると思うから。それじゃおやすみ」
これで話は終わりとばかりに、淡くて青い光を宿した手のひらを俺に向けてきた。
さすがに唐突過ぎな展開に驚いたが、手のひらの光を見た瞬間に、急激に強烈な眠気が襲い掛かってきて、驚く暇なんてない。
これもお呪いとやらの一種なのだろうか。なんにせよ、強制的に会話を終わらせるのだろう……俺の意思を無視した上でな。
「あっ! おい待て! もう少しだけ……く、詳しく……聞かせ……ろ」
心の準備すらさせてもらえないのかよ。内心でそう思いつつ、俺は睡魔に誘われて眠りにつくのであった。
オマケ
「さて、寝たようだね」
カイトに黒男と呼ばれていた人物がそう呟き、手のひらの光を消した。
黒男の抱く感情は、サングラスのせいで分かりずらい。だが、どことなくカイトを哀れんで、同情しているように見える。
しばらくしてカイトは光に包まれていき、光が弾けると共に跡形もなく消えてしまった。
こうして、カイトという存在はこの世界から消えたのである。
「やれやれ……。俺も大概だけど、あの神様もなかなかに酷な真似をするもんだね」
カイトが消えるのを確認し、誰もいなくなったソファーを眺めつつ、ここにはいない誰かに向けて非難がましくそう口にしていた。
もちろん、返事が返ってくることはない。
それからは何事もなかったかのように、黒男は優雅な朝食を再開するのであった。