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第三十五話 鳥籠を砕く者

 失われた日々は、どうやったら取り戻せるのか。

 昨日も考えた。

 今日も考えた。

 ひたぶるに考えながら走り続ける、一人の女が居た。


「ハァ…ハァッ!」


 草木が生い茂る暗い森。

 ここは密林か。

 否、闇か。

 

「待てやゴラァア!」


 一人の男が叫んでいる。

 後方から聞こえる。

 足音は無数に聞こえる。


“死にたくない”


 女はその一心で走り続ける。

 しかし捕まった。

 

 ある日から狂いだした平穏な日々。

 それを正そうと彼女は拳を握った。

 …日もあった。


 今の彼女に、もうかつての力は無い。

 毒を流し込まれ、穢れた粘液を注入され、白濁にまみれたこともあった。

 意識が朦朧としていて、記憶の混濁もみられる。

 自分は誰か、誰なのか。

 何をしていた人なのか。

 幻影に塗りつぶされたあの黒い髪の少女は一体誰なのか。

 わからない。わからない。

 

 拳に力が宿らない。

 魔力が無い。

 艶めいていた髪も、すっかり傷んでしまった。


「い…いや」


 怯える彼女の前に群がる男達。

 所持する物は決まって同じ。

 縄に短刀、針に薬物。

 首魁が持つ粒状の薬物は、痛みを快楽に変換する毒である。

 彼女はそれを知っている。

 何故か。

 ずっと、飲まされ続けていたからだ。


「追いかけっこは終わりかなぁ?」


 首魁の男が手を伸ばしてくる。


「い、いやぁ…! 離して!」


「抵抗するならまた痛くするぞぉ。痛くされたくないよねぇ?」

 

「ひッ…!」


「いい加減ちゃんと喋れ。たく…イライラさせんなこの女はァ!」


 男は女の腹を蹴り上げた。

 胃液を吐き出す彼女に向かって罵詈雑言の嵐。

 しまいには衣服を剥ぎ取り見世物にした。

 いつもそう。

 悪夢の続きに過ぎない。


「グォッ!」


 男が腕を抑えて退いた。

 女が噛み付いたのだ。


「てめっ…待ちやがれ!」


 男の声が迫る前に女は駆け出した。

 意味があるとは思えないが、逃げなければならない。

 次捕まったら、もう明日は無い。

 彼女は走る。

 鬼のような形相で追いかけてくる男達を払い除けながら暗い洞窟の中へと入る。


「なんで…どうして…」


 女は掠れた声を響かせた。

 勿論、男達に聞こえないくらいの密やかな声で。

 涙は止まらなかった。


 返して欲しい。

 私を。


 その願いは、遂には叶わなかった。

 狂気を纏う男達が、もう、すぐそこに居た。

 眼前に。見下ろすように。


「今日はここで粗相をするのか?」


 男はいやらしい目つきでそう言った。

 手を伸ばし、女の頭をゆっくりと自身の下腹部に近づけた。

 男は呼吸ができなくなるほど追い詰められた彼女の腕を乱暴に掴んで、太い針を見せた。

 たちまち過呼吸を起こす彼女を宥めるようにズボンのベルトを緩める。

 男は針を振り下ろした。


 その時だった。


「ふぁあああ…」


 突如として洞窟の奥から聞こえた、間の抜けた欠伸。

 人間的な声だ。


 男も、女も、全員が洞窟の奥に目をやる。

 松明があるとはいえ、洞窟の奥は入り組んでいて暗い。

 光が届かない。


 ただ闇が広がっている。


「んだよ、驚か……なんだ!?」

 

 男は焦るように女から手を離して、一歩だけ下がった。

 視線の先、洞窟の奥に光が見えたからだ。

 琥珀色の両眼がこちらを覗いている。

 松明よりも強い明かりで、深淵から照らされる。


 警戒を強めた首魁の男は仲間に撤退の指示を出して、女を蹴り飛ばした。

 まるで確認してこいとでも言わんばかりの顔を彼女に向けた。

 女は恐怖のあまり漏らしてしまった。

 

「ひぃ…あ、あの…」


 恐る恐る女は這いずる。

 徐々に、徐々に近づいていく。

 怪しい光の正体に。


「…あ」


 女はへたりこんだ。

 何も、誰もいなかったから。

 思わず肩の力が抜けた。


 力が抜けたかと思えば、胸の痛みに襲われた。

 後ろから、胸を鷲掴みにされている。

 首魁の男、及びその仲間達が戻ってきたのだ。


「今日も…たっぷり可愛がってやるからな?」


 女の耳元で、憎悪に満ち溢れた声を吐き出す男。

 ここで女は諦めた。


 正直言うと、女は少しだけ期待をしていた。

 もしかしたら、自分を救ってくれる人が此処にいるのではないか。

 いたのではないか。

 夢にまで見た白馬の王子様が、今になって現れたのではないか、と。


 しかし、現実はそう甘くは無かった。

 本当に、心の底から願ったのに。

 誰もいなかった。


 女は、一重にそう思った。

 心中の叫びを吐き出すように喘いだ。

 その声は、誰かに届いた。

 ゆさゆさと揺れる彼女の目の前に、モヤができた。


 モヤの形は人。

 姿形が反転していて、顔はよくわからない。

 でも、一つだけわかることがある。

 角がある。

 天を衝く二本の鋭利な角がある。

 琥珀色の瞳は、さっき見た。

 空虚を写していた女の瞳に、僅かばかりの熱が篭もる。


(やつがれ)の休息に汚濁は不要。娘。貴様は賽を投げれるか?」


 人の形をしたモヤが問いかける。

 女は首をあげるように頷く。


「承知」


 その言葉を聞いた時、女は男を蹴り飛ばした。

 まともに濡れていない状態で勢いよく蹴り飛ばしたので、抜けた瞬間激痛が走った。

 同時に、頭の中を恐怖が走り抜けた。

 

「この…糞アマァアア!」


 男が雄叫びを上げながら短刀を突き立ててくる。

 これは避けられない。

 女は瞳をそっと閉じて、長い眠りに着こうとした。


 刹那、景色が変わった。

 暗い洞窟が、一瞬にして無くなったのだ。


 いや、無くなったという表現には語弊がある。

 正確には消えたのだ。

 洞窟も、密林も。

 前方に控えていた男の仲間も、半数が消えていた。


 女の周囲約一町を消し飛ばしたものの正体は、一人の青年の剣だった。

 いやしかし、それは本当に青年なのか。

 違うかもしれない。

 でも若く見える。


「妖魔なら妖魔らしく、人に巣食って太陽を浴びろ」

 

 驚くべきことに、この青年には威厳があった。

 青年はエメラルドグリーンを彷彿とさせる翡翠色のストレートな髪を持ち、琥珀色の両眼に八芒星の紋章を刻んでいた。

 殲滅仕様の漆黒の戦闘服からは空間を歪ませるほどの重厚な魔力が漂う。

 手に持つ煌剣は紫電を纏い、延々と魔力を垂れ流していた。

 そう、これが、これこそが正体。

 この青年が、この剣で、暗闇を斬り裂いたのだ。


「中々やるなぁ、あんちゃん。で? これで終ぇか?」


「……」


 首魁の男は生きていた。

 女を庇うようにして立ちはだかる青年の姿をハッキリと捉え、短刀を長刀へと変化させた。

 

「こう見えてオレは聖級剣士でよ、大抵の技は一目見ただけでわかんだわ。でな。今おめぇさんが使った技は空転魔力刃(くうてんまりょくじん)の不発。つまり失敗だ」


「……」


「そいつが欲しいのか? ん?」


「……」


「どうなんだよ。ま、いい女だもんな」


「……」


 青年は答えない。

 男の言葉に苛立ちだけを募らせて。

 地面に剣を突き刺さした。


「お、降伏してくれんのかい? ありがたいねぇ。じゃ、さっさとそいつをこっちに投げてくれよ。おめぇさんだって、痛てぇ目は見たくねぇだろ?」


「……はぁ」


 青年は浅くため息をついた。


「あん? そいつぁどういう態度だ?」


 男の髪は逆立ち、眉間に皺が寄る。


「てんで話にならん。僕の剣撃を視認することはおろか、古今東西に散らばる低俗な剣技と同義に捉えるとは。それでいて聖級? 馬鹿を言え。貴様は精々が中級。闇を啜り、毒を吐く人間は皆そうだ」


「ほう。つまり、おめぇさんは死にてぇんだな?」


「死ぬのは貴様の方だ。一党諸共消し飛ばしてやろう」


 青年の言葉に、男は不敵な笑みを零した。

 久しぶりに血湧くのだ。

 強者かもしれない生物との対峙に。


「…!」


 邪魔してはいけないと、女は秘部を隠しつつ少しだけ離れた。

 突如として青年から聞こえたドンという爆発音。

 しかし、何が爆発したわけでも、何が壊れたわけでもない。

 ただ、琥珀色の瞳がギンと大きく開いていた。

 びしびしと、大地が裂けていくのを感じる。

 青年は白い息を吐いた。

 男は残像すら残さない速さで、青年の懐に飛び込む。

 実体は居合の型。

 青年は剣を軽く振り上げた。


「馬鹿だな…おめぇさんはよ」


 男の実体は残像。

 本体は背後に居た。

 退屈そうな顔で青年は男の姿を捉える。

 時間がゆっくりと流れる。

 刃先が触れ合う瞬間を目撃する。


 あるか無しかのその隙間。女は血の気が引いた。

 もしここで彼が負けたら、自分はどうなるのか。

 今度こそ、死ぬまで犯されるのか。

 嫌だな。

 と、そこまで彼女が思ったわけではないが、心象風景は似たようなもの。

 青年は、またしてもため息をついた。


「正義執行」


 青年が呟いた。

 瞬間の血飛沫。


「え…?」


 女は滝のように血の雨を浴びていた。

 あ…ああ。

 彼が、私を助けてくれようとしてくれた人が。

 首を撥ねられている。

 そう思った。

 

「純妖魔の娘。なるほど…」


 青年は空を見上げていた。

 男の返り血をどっぷり浴びて、少しだけ笑顔になっていた。

 周囲は隕石が落下してきたかのように綺麗なクレーターになっていた。

 ツルツルの地面。焼け野原になった密林。

 残された血痕は伸びていた。

 小さな肉片と服の切れ端が落ちている。

 勝敗は決した。

 一振にしか見えない、瞬間280連撃の剣戟によって幕を閉じたのだ。


「私を…助けてくれたの?」


 女は聞いた。

 怖いけど、痛いけど。

 それでも、藁にもすがる思いで聞いた。

 彼が、微塵も悪い人に見えないから。


「然り。僕は正義の味方だ」


 青年は、鋭い眼光で子供っぽい台詞を零した。


「名前は…?」


 女は震えを抑えつつ、真剣な眼差しで聞いた。

 黒く長い髪を靡かせて、薄ら赤い宝石の瞳を目いっぱいひん剥いて。

 恩人の顔を脳裏に焼き付けたくて。


 そんな彼女を見て、青年はふっと笑う。


「姓はナルガ、名はイーダー。イーダー・ナルガだ。お前は?」


「私? 私は…」


 言葉に詰まり、女は下を向いた。

 何も思い出せないから。

 でも一滴だけ、記憶の雫が垂れてきた。

 確か、自分にはお役目があったはず。

 多分。違うかもだけど。


 でも、それになぞらえた名前があった気がする。

 たしか――、


「ミコ。それが私の名前よ」


 女は思いついたように言った。


「良い名前だ。これからそう呼ぼう」


「これから…ね。また変な事をされるのかしら…」


「それは絶対にない。僕が阻止する」


「あら嬉しい。初対面なのに」


「気まぐれの延長線だ」


 そう言って高笑いする青年剣士、イーダー。

 外見、声色、表情。

 どれをとっても若いのに、彼女よりずっと歳上な気がする。

 事実そうかもしれない。

 

「貴方は、一体何者なの?」


 これは、彼女がずっと気になっていたこと。

 圧倒的強者に対する尊敬を混ぜ込んだ質問だ。

 イーダーは優しい笑みを浮かべながら、彼女の頭を撫でた。


刻紫剣(こくしけん)。それが(やつがれ)の通り名だ」


 イーダーはそう言ってニカッと笑った。

 この日、鎖に繋がれた赤い鳥は助けられた。

 世界最強の剣士が、一足先に鳥籠を砕いたのだ。

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