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戻ってきた彼はこの状況を見て「もう遅い」と悔やむでしょうか

作者: 牧村 咲希

もう何年も招待状を出し続けた。今になって彼はふらりと現れた。


彼が知る頃の私はとても貧乏だった。

それが今では高級なドレスに身を包み、裕福さと加齢で以前より肉づきが良くなっている。

そのことに急に後ろめたさを感じ、恥じ入った。私と違い、彼があまりにそのまんまだったからだ。

当時と変わらぬスタイルと雰囲気で、相変わらず神経質そうな陰気な顔をしている。


大広間の一番目立つ場所に飾ってある一枚の絵画にじっと見入っている彼の隣に忍び寄り、囁くように声をかけた。


「お久しぶり。やっと来てくれたのね。懐かしいわ」


彼はまず横目でちらりと私を確認し、それからゆっくりと顔をこちらへ向けた。

虚ろな瞳とかち合った瞬間、心臓がどくりと嫌な音を立てた。

彼は無言で頷き、それからまた真っ直ぐに前を向いて大きな絵を眺めた。


誰もがよく知っている有名な名画だ。


私たちの周りには同じように絵を眺める人々が大勢立ち尽くしている。

名画と対峙した感動で言葉を失う者、うっとりと見惚れている者、感嘆の溜め息を漏らす者、称賛の言葉を述べる者。

そして彼らはまた歩き出す。順路に沿って。

この建物内には十数点、同一画家の絵が展示されている。画家の没後二十周年の特別展だ。


「あなたの死後、十年経って少しずつ作品が評価され始めたの。それからさらに十年かけて評価が高まり、現在この絵は三千万ドルの値がついているわ」


前夫はじっと遺作を見つめたまま、私の言葉に耳を傾けている。


「あなた、あと十年生きててくれれば良かったのに。死ぬのが早かったわ。あなたの才能は早かったのよ。世間の反応が遅かった」


生前は描いても描いても絵が評価されず、無名の貧乏絵描きだった夫は、三十三歳の若さで自殺した。頭をピストルで撃ち抜いて即死だった。

いつもあちこち絵の具で汚れていて、食費を切り詰めて絵の具代にあて、白いキャンバスを買うお金はなくて、一度描いた絵を塗り潰しては何度も新しい絵を描いた。

絵を描くことに一生を捧げ、命を削りに削って、遂には精神を病んで、生きることを放棄した夫。


私は生活を支えるため、朝昼は洗濯屋で働き、夕方から夜は食堂で皿洗いをした。

夫の死後も私は生きることを諦めなかった。

私が死んでしまえば、夫の遺した絵の価値を知る者がいなくなってしまうからだ。

夫が生涯をかけて、命を削り魂をこめて描いたこの絵たちが、日の目を見ないまま埋もれてしまって良いものか。私は執念深く、夫の遺作を推し続けた。


あちこちへ頭を下げて、夫の絵を買ってくれる人や目立つ場所に飾ってくれる店を探した。

無名画家の作品を高く買ってくれる人はいなかったが、借り受けて店に飾っても良いと言ってくれたレストランオーナーがいた。

そしてレストラン客の目に止まるようになり、徐々に口コミで広がった。

本当に少しずつ、少しずつだ。夫の絵を買いたいという人が現れて、どんどん増えてきたときには、嬉しさと無念さが入り交じり、どうしてもっと早くこうならなかったのかと思った。


「もう遅いってね。でもあなたが生きているうちは間に合わなかったけれど、あなたの作品たちが正当に評価されるようになって、本当に良かった。あなたの人生は無駄じゃなかったと証明できたもの。私の愛したものが世間に広く認知されたのよ」


そしてそれを本人に知らせることができたならどんなに良いだろうと思った。

その願いまで今日叶ったのだ。


夫は体ごとこちらへ向き直り、私の顔を見た。もう虚ろではない、出会った頃を彷彿とさせる顔つきだ。

ありがとう、と言ったのが唇の動きで分かった。それから満足そうに微笑み、さらさらと砂のお城が崩れるようにして消えた。



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― 新着の感想 ―
[一言] ゴッホ、かな?
[一言] あたたかくて切ないです(ノд-。)クスン 今、高額で取引されてる絵画の作家も生前は貧しかったと聞きます。 主人公の言葉じゃないけど、生きてるうちに認めてくれれば…ですよね。
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