☆6 「心臓に悪いです」
ドアを開け放したトイレの中で、蘭は便器にしがみついて胃の中身を吐き出している。
つくしに背中をさすられながら出すものを出してしまうと、気分はずっと楽になった。
「蘭ちゃん、立てる?」
声もなく蘭はうなずく。
つくしに手を引かれて、力の入らない足で洗面所まで歩いた。
「お水でお口ゆすいでね」
鏡の中には涙でくしゃくしゃになった蘭の顔が映っている。酷い顔だった。
つくしに渡されたコップの水で口をゆすぎ、手を洗っていると、トイレの水を流す音が聞こえた。
蘭は消えてしまいたくなった。わざと大きな音を立てて顔を洗い、汗や涙を水で流し切ると、ようやくもとの自分が戻ってきたように思えた。
顔を拭きながら時計を見る。まだ時刻は午後3時。せっかくの誕生日に酷いものを見せてしまったが、挽回するチャンスはあるはずだ。
「ふぅ……。すみませんでした。姉さん。面倒をかけてしまって。おかげでもう大丈夫そうです。そうだ、おやつの時間ですし、ケーキでも買ってきましょうか」
ケーキならばつくしのポイントも高いはず。
蘭が買い物に行っている間、つくしにはゲームをやってもらってもいいし、もし一緒に行くというならデートも兼ねることができる。
素晴らしいアイディアだ、と蘭は思った。
しかし、つくしは頬を膨らませて首を横に振った。
「だめだよっ。蘭ちゃんすぐ無理するんだから。ゆっくり休まなきゃだめっ」
「でも――」
反論しようとする蘭の手をつくしがぐいぐい引っ張って、蘭の部屋へと連れて行く。
まだ体に力が入らない蘭は、されるがままになる。
つくしは不満げな顔をする蘭をベッドに寝かしつけた。
「大げさですよ。姉さん」
「蘭ちゃんが寝るまでここにいるからね」
つくしはベッドの脇に座り、自分の腕を枕にして蘭に顔を寄せた。
「……っ。ちゃんと寝ます。寝ますから。誕生日なんですから、姉さんは好きなことをしてください」
「つくしは蘭ちゃんのそばにいたいよ」
蘭はじわりと涙が溢れそうになって、頭から布団をかぶった。
ずるい。姉さんはずるい。いつだってまっすぐで嘘がないから、そんなことを本気で言う。嬉しくて、甘えたくなる。作り上げた理想の自分が、たった一言で崩されてしまう。
「ねえ、蘭ちゃんはゲームやってみて、どうだった? 楽しかった?」
つくしが話しかける。蘭は涙をぬぐって布団から頭を出した。
「楽しかったです。すごく」
「よかったー。つくしだけ楽しかったらやだもんね」
「でも、あのアバターは、変えたほうがいいのかもしれません……」
「どうして?」
乗り物酔いにも似た不快感に、蘭は心当たりがあった。
VR空間で感じためまい、そして現実世界に戻ったときの違和感と吐き気。
「たぶん、私はVR酔いをしやすいんだと思います」
「VR酔いって……」
「いろいろあるみたいですけど、私の場合は、ゲームの中で体の大きさを変えているのが原因でしょう。現実とVR空間で視線の高さが変わると酔うことがある、と聞いたことがありますから」
「そっかー」
「だから、アバターを現実の私の身長で作り直せば良くなるかもしれません」
「でも、蘭ちゃんは変えたくないんでしょ?」
図星を当てられて、言葉につまる。
「……そう、ですね。そうみたいです」
つくしと同じ目線で冒険ができることに、蘭は密かな喜びを感じていた。それをつくしに言ったことはないのに、まるで全部わかっているようだった。
「難しいねー。全部そのままで、蘭ちゃんが楽しくゲームできるようになればいいのに」
「……。短時間なら、大丈夫かもしれません。今回、ゲームの中でめまいを感じたんですが、最初のうちはなんともなかったですし。たぶん、1時間くらいなら……。また迷惑をかけてしまうかもしれないんですけど、試してみてもいいですか……?」
乗り物酔いはほとんど克服した。VRも同じなら、きっと遊ぶうちに慣れていくだろう。
「もちろん。つくしもちっちゃい蘭ちゃん好きだから、うまくいくといいなあ。昔の蘭ちゃんみたいでかわいかったし」
「そ、そうですか。それは……よかったです」
「いまの蘭ちゃんもかわいいよ。かっこよくてかわいい。つくしの自慢の妹だもん」
「かっ、からかわないでください。もう寝ますから、姉さんも静かにしてください」
「うん。わかった」
とても眠れそうにはなかったが、こうでも言って切り上げないと蘭は身が持たない気がした。
目を閉じてみても、つくしに見られていると思うと落ち着かない。
それでも早く眠らないと、つくしはいつまでもここに居続けるだろう。
身じろぎもせず、じっと寝たふりを続けていると、徐々に意識が途切れていくのを感じた。
「寝てる……?」
つくしの声に、はっと目が覚める。目は開けないが。
そのまま狸寝入りを続けていると、ぎしり、とベッドがきしんだ。
つくしが、ベッドの上に乗ってきた。
なにが起きているのか、と蘭は混乱しながらも、つくしが近づくのを感じた。
自分の上につくしの影が重なっているのがわかる。
つくしの髪が蘭の顔にかかった。いまや体温さえ感じられるほど近くにつくしの顔がある。
蘭は両手にシーツをつかんで、ぎゅっと握りしめた。
姉さん、なにをするつもり……まさか……キ――
「ん。寝てるね」
つくしは何をすることなく、ベッドから離れていった。
どうやら、蘭の寝息を確認していたらしい。
それに満足したつくしは、そっと蘭の部屋から出て、静かに戸を閉めた。
「――っ、はあっ、はぁっ…………心臓に悪いです……姉さん……」
それから、蘭が眠れなかったのは言うまでもない。