第9話 危機感のない市民
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A1県とG県の境目で起きた事件現場から、A1県の都市方面へと続く幾つかのルートで、異様に長く、黒い髪の人間の目撃情報を探り続けた。
何故来栖がそんな聞き込みをしているのか? ――来栖は、事件現場のブルーシートの内部へと侵入した際、赤い血溜まりの横で鑑識が慎重に摘み上げていた、異様に長く、異様に黒い一本の髪の毛を見ていたからだ。
何故たった一本の髪の毛を来栖が視認出来たかといえば、来栖の人並外れた視力に足して、血溜まりによって背景が赤になっていた事と、その毛髪の漆黒を思わせる程の黒さがあったからだろう。
来栖が園山元議員の妻の髪型を尋ねたのは、その毛髪が被害者の物か、加害者の物かを見極める為だったのだ。
しかしあの質問は必要無かったとも言える。何故なら、鑑識が中腰になりながら顔の高さまで摘み上げたその一本の毛髪は、そのまま地面に辿り着き、四重、五重に大きく、とぐろを巻いていたのだから。およそ一本の毛髪の長さは百三十センチ程。現実に見た事があろうか? それ程に長く異様な毛髪の持ち主を。
更に、戸籍上園山元議員には子どもも無く、妻と二人暮らしをしていたらしいという事から、来栖はその長過ぎる毛髪の主が、この事件の犯人、もとい容疑者だと踏んでいた。
言い方を変えれば、それしか情報が無いので、それにすがるしか無いとも言える。あれが毛髪では無く、何か布がほつれた紐だとか、それからカットでもされていたら、もうお手上げ。……しかしこの視力で、人毛の特徴である艶はしっかりと確認済みなのでそれは無い……と思う。カットに関しては……祈るしか無い。何かこだわりがあってそこまで伸ばしていたのだと思うことにする。
といった具合で、ぐらぐらと足元のおぼつかない捜査ではあるが、動物とも違うあの長過ぎる不可解な人髪を頼りに、来栖は捜査を進めていた。
初めの内は、その膨大なる聞き込み範囲と、古典的で不慣れな捜査に足が棒になる程だったが、一度そんな少女を見た、といった証言を手に入れると、容疑者を目撃したという地点の地図上を赤くマークし、そして予測される進行方向でまた聞き込み……といったように、思ったよりはトントン拍子に範囲を絞る事が出来たので、容疑者へと迫る来栖の足は徐々に歩幅を大きくしていった。
この時点で、あの毛髪がやはり人毛であった事に確信を持ち、不安定な証拠に対する迷いは無くなっていた。そして少しづつだが確実に、あの毛髪の持ち主の進行ルートが出来上がってきていた。
話しによると、容疑者はどうやら小汚い布のような物を身に纏っている、酷く小柄な女らしく、その容姿は当然ながら人目に付くらしい。そのあまりの警戒心の無さに、もしかしたらあっさり発見という事もあるかもしれない、と心の中で自分を活気づけた。
現在来栖はA1県のK市という都市に隣接した市内にいた。
「……はぁ」
K市と言ってもその範囲は広く、今来栖はK市内から都市方面へと向かう夕暮れの国道沿いの市役所近辺を歩いていた。そして先程来栖の口から溜息が漏れたのは、あいも変わらず危機感の足りない国民の、平和ボケ加減を目前にしているからであった。
「お兄ちゃーん、イカ焼きどうかねー」
オレンジ色の明かりを灯す無数の提灯が垂れ下がり、下を賑やか過ぎる喧噪が行き交う。
来栖はコツコツと眉間を指で叩く。これは深く思考する際の来栖の癖だ。
立ち止まる来栖の横を、十一月のこんな時期に浴衣を着たカップルが過ぎ去っていった。
すぐ隣のG県で殺人があり、その犯人がA1県の都市方面へと向かっているというあの恐ろしいニュースを、ここの市民なら――いや、日本中の人が観ているはずなのに、事件現場からA1県の都市方面へと続く一番シンプルなルートのここ、K市内の国道沿いにて、何故のほほんと祭りが開催されているのだろう? 何故こんな時期に祭りなど……といった疑問もあるが、それは伝統なので仕方が無い。毎年この時分にここでは祭りが催されているのだ。しかし場合が場合だ、当然中止になっているものだと思っていた。
「……」
やはり、行き交う人々の口からは先日の事件に関わる単語が聞こえてくる。しかして全員危機感が無い。危機感どころか例の事件の犯人がこの場に現れるのを胸踊らせて待っている風でもある。
平和が当たり前になった今の世界では、この手の事件に国民は実感も危機感も無く、皆自分に危害があるという可能性を考えてもいない。つまりこの事件は彼らにとって、ただの一大イベントでしか無いのだ。
皮肉にも聞き込みから予測される次のポイントは確かにここだ。前のポイントで目撃した人の目撃時刻から考察するに、もしかしたら今、この瞬間にここで鉢合う可能性も高い。
しかしこんな人がごった返す中を、人を殺したような犯人が通るのだろうか? 普通なら通らない、人目を忍ぶのが逃亡犯の心理だ。……しかし木を隠すなら森とも言う。裏をかいて、あえてここを通るのかもしれない。
コツコツと眉間を叩く指が止まる。考えていても仕方が無い。行動する。
嫌になる程の人混みを避けながら、先程から来栖にイカ焼きを勧める屋台の男の方へ、人の流れを裂いてよれよれと近付いていった。
「お兄ちゃん、今なら少し負けとくよ! イカ焼き食うかい?」
「いや、あの……一つ聞きたい事があるんですが」
「おぉ? どうした兄ちゃん」
「異様に長く、黒い髪の女性を見ませんでしたか? かなりボロボロな服装をしている」
「あぁ? 兄ちゃん、そいつは覚えてねぇよ。こんだけ人がいるんだ、いちいち行き交う人の顔なんざ覚えてねぇな」
来栖の横から一組の家族がひょっこりと顔を出し、禿げ上がった頭の男性が「イカ焼き二つ頂戴」と千円札を一枚差し出した。その千円札を見た屋台のオヤジは人が変わったような笑顔を見せ「へい! ちょっとお待ちを」と接客に入ってしまった。
来栖は屈めた腰を真っ直ぐと立てると、一つ隣、そしてまたあしらわれ、少し歩いて、と同じ様に聞き込みを繰り返していった。
初めのイカ焼きの屋台からしばらくいって、路地を左に折れた射的の屋台での事だった。
「あー? そういえばそんなの見たなぁ、すげぇ浮いた格好でさ、周りから避けられてたから憶えてるよ、気持ち悪ぃ位髪の長い子だろ?」
来栖は自然と射的台に手を突き身を乗り出した。
「ほっ、本当ですか? いつですか? どちらに行きましたか!」
しかし髭を蓄えたその中年の男は、意地悪い顔をしたかと思うと、「兄ちゃん、あれ落としたら教えてやるよ、あれ」
「あれ?」
髭面の男がしきりに指で指し示す先を見ると、ごちゃごちゃと商品が並んだ赤い雛壇の一番上の段に、最新のゲーム機の箱が鎮座していた。
「あれだよあれ、あれが取れたら教えてやる」
「……」
来栖の隣りで、七歳程に見える少年が先ほどからそのゲーム機を狙っているようで、必死になって腕を伸ばしていた。しばし様子を見ていると、少年が放った三発のコルク弾のうちの最後の一発が、見事にゲーム機の真ん中に命中した。
「……やった!」
そう手を上げた少年だったが、案の定と言うか、そのゲーム機に命中したコルクの弾は、弾かれるようにして床に落ちていった。
「あっ……」
命中した癖に、微動だにも動かない。少年が肩を落としてポケットから出したガマ口財布の中を覗いている。その様子から見て、この少年は今日持ってきたお小遣いの大半をこの射的で使っているのか、「はぁ」と泣きそうな溜息が来栖の方にまで聞こえた。
少年はがっくりと肩を落として、とぼとぼと屋台を出ていった。
「おいおい兄ちゃん、イカサマだなんて思っちゃいけねぇよ? 見るかい?」
怪訝な目付きで見つめていると、髭面の男はニヤニヤしながら立ち上がって、そのゲーム機の箱を持ち上げ、底を来栖に見せてみせた。その箱底には確かに何か細工があるわけでも無かった。
「……」
来栖はしばし考えた後、後ろポケットからシンプルなデザインのレザーの折り畳み財布を取り出し、ボタンを外してそこから六百円を取り出して髭面の男に渡した。
「あ? 兄ちゃん、一回三百円で三発だよ。それとも初めから六発分持っとくのかい?」
嫌らしく笑う髭面をギロリと睨みつけながら言った。
「いや、三発だ。一丁三発で良い」
「はぁ?」と首を傾げる髭面の男を横目に、六百円を台の上に置き、右手に一丁、そして左手にもう一丁を構えた。
「おっ、おいおい兄ちゃん一人一丁だよ!」
髭面の男が呼び止めるのも聞かずに、来栖はさっさとコルクの弾を一発ずつ詰めて標的を絞る。
「なんだ? どう見てもニ•三キロありそうなあのゲーム機を、こんなに軽いコルクの弾と威力の無い銃一丁で落とせってのか?」
「そりゃ、あんた……」
しかし髭面の男は、挙げかけた手を下ろした。
――まぁいいか、落とせるわけがねぇ。第一落とせる可能性があんならあんな物置いてねぇってんだよ。それに大見得切った手前、こいつはもう金が無くなるまで引けねぇだろうしな、しかもその金の放出速度は二倍と来た――。
「まぁいいだろう兄ちゃん、やって見な!」
「言ったな……?」
髭面の男からの許可が下りた途端に、来栖は二丁の拳銃からコルクを放つ、その両の弾は見事にゲーム機の箱の右上と中央とを捉えた。
「うぉっ!」
髭面の男が声を上げたのも無理は無い、正確に二発とも命中した事もあるが、あれだけの重さの物がグラと僅かに揺れたのだ、しかし、やはりそれでも雛壇から落ちる事は無い。
「やっぱりな、作りがむちゃくちゃだ、こいつは少し右にズレる、こっちは下にだ」
そう言いながら来栖は銃身を脇に挟み、腕をクロスして瞬く間に次の弾を両方に込めたかと思うと、瞬きする間も無く、二発のコルクを箱の右上と左上に命中させた。
「うおっ! ……おっおっお!」
僅かな揺れが収まらない内に更なる衝撃を受け、その揺れは大きくなっていく。髭面が小さな椅子から立って狼狽えた。
そうこうしている内にも、来栖は最後のコルクの弾を、目にも留まらぬ鮮やかな手付きで詰め込み、放った。
ぐらりぐらりと大きく揺れて、遂にはそのゲーム機は、ボスンと音を立てて雛壇の後ろに落ちていった。
「な、なんじゃそらぁ……」
思考が追いつかない髭面の男に、サッサと景品を寄越せと手で合図すると、男は口を開けたまま、何が起こったのかわかっていない表情で、それに従って素早くゲーム機をビニール袋に包んで来栖に手渡した。
「……あんたぁ、なんでそんなに射的が上手ぇんだ?」
「そんな事より、さっき言った奴がどっちに行ったのか、いつ見たのか教えて貰おうか」
「あ……あぁ、ええと、さっき、本当にさっきだよ、あんたが来る二分前位だよ、さっき言ってた汚ねぇ格好した小さい女が、あっちに行ったよ、目立つなっつう方が無理な出で立ちだからすぐにわかると思うよ」
「あっちだな? それじゃ失礼する」
ぽかんと口を開けた髭面の男を置き去りにしたまま、頭を下げて屋台を後にした。
髭面の男が言っていた方向に目を凝らしながら、早足で人を掻き分けていくと、提灯のオレンジ色の灯りの下を、先程の射的で見かけた少年が、とぼとぼと下を向いて歩いているのを見つけた。
「おい、あんな所で金を全部使うな。詐欺だぞ、取れるわけが無い」
「えっ?」
突然にどさりと重いビニール袋を手渡された少年は少しよろめいた。
「やる」
それだけ言って来栖は、少年の顔を見る事もせずに早足に人混みの中に紛れていった。
少年は、取れる訳が無いと言われたゲーム機の入ったビニール袋を両手いっぱいに抱えて唖然としているだけで、何も言う事が出来なかった。