第40話 幼き少女の霙の様に曖昧な視線
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紅葉宅。
「紅葉、前にも無免許でバイクを乗るなと言ったろうに、しかもヘルメットも着け取らんかったらしいな」
「あ?」
「それと刀じゃ、敷地内ならば良いが、それを外に持ち出せば銃刀法違反になるとも言ったろう」
「……」
「あんな無茶しよってからに、誰がここまで育てたと思っとるんじゃ! 二度とあんな真似するんじゃない」
「うっせえじじいっ!!」
厳格な日本家屋には似付かわしく無い、若い女の怒声が響いた。
「なんじゃとくそガキッ!? 乳房ばかりデカくなりおってっ!」
甚兵衛姿の局長が、包帯でぐるぐるになった紅葉の胸を叩いた。
「痛ってぇッ! はたくなじじい!」
仁王立ちする局長、胡座をかいてそれを下から睨み付ける紅葉。
「あぁ、全くなんでこんな乱暴な娘に育ってしまったんじゃ。親父さんが見たら泣くぞ」
「親父はどうでもいいんだよ!」
と言いつつも、父親にそっくり、そりゃこうなると局長は故人を思い浮かべた。紅葉の父親は、局長がこの長い年月で出会ったどの人間よりも傍若無人を体現した男だった。
戦場で一度背中を合わせただけの局長に、紅葉を押し付けて死んでいった程だ。
それ以来局長は、まだ幼子だった頃から今日まで、紅葉の世話をして来た。
「で、どうするんじゃ、アンスに加入するのか?」
「あ〜?」紅葉は、懐から麩菓子を取り出して、それをほうばりながら答えた。
「するに決まってんだろ」
局長は面を抑えて深く嘆息した。
「そうやすやすと決める奴があるか。わしは反対じゃ、考え直せ」
「あ? じじいが言い出したんじゃねぇのかよ」
「違うわ阿保う。お前は本来ならば今刑務所におるはずなんじゃぞ? それが何故お咎め無しなのかわかるか?」
紅葉は口に麩菓子を押し込んでから、湯呑みを口に付けながら首を傾げた。
「お前の戦闘力に、各国の要人たちが目を付けたからじゃ。しかしわしは反対じゃ、親父さんからお前を預かった保護者としてな。お前が見ての通り、わしらのおる世界は死と隣り合わせの場所じゃ。今一度考え直せ」
「だからやるって言ってんだろハゲ」間髪入れずの回答。
「あ〜お前は〜……」
しかし、今回の暴挙の免除は、アンスへの加入が条件であり、それを断れば紅葉は収監されるといった状況にあった。
特例中の特例。未曾有の危機に切羽詰まったアンス組織が、怪人の第四形態に対抗する為にとった異例であった。
「私の力が必要なんだろ? お前ら幽雅一人に組織毎ぶっ潰されそうになってたしよ」紅葉はそう言って溌剌に笑った。
「ぬぅ……」言葉も無かった。
「大体、なんでお前はあんなに執念深く幽雅に斬り掛かったんじゃ?」
「理由なんてねぇよ、この刀で斬ってみたかっただけだ」
そう言って紅葉は傍に置いてあった刀を撫でた。
「そんな理由でああまで執拗になれる訳ないじゃろ。他に理由があるはずじゃ」
「本当にそれだけだっての」
紅葉はつまらなそうにひらひらと手を振った。
「それよりよ」
紅葉は撫でていた刀を高く掲げ、そのまま重力に逆らわず、局長の傍らに鞘を落とした。
「ひっ……」
鈍い音がその存在の頭上に落ちた。
「そいつは何なんだよ!」
局長の脚にしがみ付いた幼い少女は、目尻に涙を溜めながら頭を抑えた。
「コラァッ! 何するんじゃ馬鹿者!」
紅葉はどうでも良さそうに頬杖をつきながら少女を見た。
少女は紅葉からの視線を遮る様に局長の後ろに隠れる。
「あれ、そいつって幽雅と一緒にいた奴か?」
紅葉が初めわからなかったのも無理は無い。当時のボロ切れは脱ぎ去り、赤いワンピースに身を包んで、膝下まで垂れていた黒い髪は、肩に届く程度に切り揃えられていた。前髪に至っては眉の上に綺麗に揃えられている。このセンスからして恐らく局長に切られた物と思えた。
「そうじゃ!」
言いながら局長は紅葉にゲンコツをお見舞いした。
「……っつぅ! で、なんでそいつがここにいるんだよ!」
「身寄りもなく、あまりに不憫じゃったから引き取った」
局長は脚にしがみ付いたままの少女の頭に手を置いた。
「引き取ったってなんだよ! 飼うのかよ!?」
「飼うとはなんじゃ! 同じ人間じゃぞ、ペットじゃない!」
もう一度紅葉の頭に天誅が下った。
「っ……てめぇ! ここは私の家だろうが! なんでここに連れて来んだよっ!」
「うるさいわ! 小さい事を言うな! この子が可哀想だと思わんのか?」
「あ?」
紅葉はジッと、かつてお人形と呼ばれていた少女を見つめた。
チラ、と少女が紅葉を窺う。
紅葉は再び少女の頭上に鞘を落とした。
「あっ……!」
驚いた様な声を出して、少女は自らの頭をわしゃわしゃと撫でながら局長の背後に隠れた。
「馬鹿者っ! やめんか!」
更に力強いゲンコツが紅葉の頭上に落ちたが、紅葉は特にリアクションもせずに少女を見つめた。
「おいじじい」
「なんじゃ」
紅葉は、にやりとニヒルに笑った。
「こいつ、私を恨んでるぜ」
「そりゃいきなり頭を二発もぶっ叩かれれば……」
「ちげぇよ、そうじゃねぇ」
「……?」
「私が幽雅を斬ったからだ」
紅葉は幾度も幽雅に斬り掛かり、遂にはその腕を斬り落とした。あの一撃が幽雅にとって決定的であったのは言うまでもない。
幽雅はこの少女にとっては、共に長い苦難を乗り越え、そして地獄から連れ出してくれた、唯一の家族であった。
冷たい少女の瞳が紅葉を覗いた。そこにある感情が何なのか、好奇心なのか狂気なのかも、幼い瞳からは窺い知れ無い。
「お前幾つだよ」興味を持ったのか、紅葉が聞いた。
「……」
「名前は?」
「……」
「おい!」
紅葉が眉間に皺を寄せた所で、局長が仲介に入る。
「この子は度重なる精神的ショックで、今はまだ喋れん。驚く事に名前も無い」
「へー」
同情するでも無く紅葉は答えた。
「で? その可哀想なガキをどうする? 喋れる様になるまで子守でもすんのか? 私はごめんだね」
「鬼かお前は! こんな幼い子どもが想像も絶するような半生を送って来たんじゃぞ! 優しくしてやるのが人の筋ってもんじゃろう!」
紅葉はくだらなそうに鼻で笑った。
「ボランティアじゃねぇんだ。その年でそこまで過酷な経験をして生きて来たんなら、何処でだって生きていけるだろう」
「だからと言って見捨てろと言うのか!」
局長は憤怒して紅葉に拳を振り上げた。紅葉はそれを静かに見上げながら答える。
「人と違う環境に身を置いてたって事は、人と違った能力を持ってんだよ。ならそれぞれの姿勢で立ち上がればいいんだ。そこからはきっと、普通の奴とは違った景色が見える。
私が言ってんのは、自ら立ち上がる意思も無いような奴は、その辺の家の前に適当に捨てて来いって事だよ」
「だから言っとるじゃろう、こんな幼子にはまだそんな――――」
局長の言葉を聞き取らず、紅葉はニヒルに口角を上げて、ある一点を鋭く睨めつけた。
「どけよじじい、邪魔だ」
「ぬ?」
局長は、いつしか自分の足から少女が離れている事に気が付いた。
「――な、何しとるんじゃっ!」
少女は近くにあったペンを両手で持って、それを紅葉に向けていた。先程の窺い知れない感情とは打って変わり、そこには明確な殺意のみがあった。
「手出すなじじい」
駆け寄ろうとした局長を、紅葉は静止した。
「幽雅を殺した私が憎いか、なら殺してみろ」
紅葉は刀を持って立ち上がった。
「……ッ!」
少女は駆けた。怯む事なく紅葉に向かって。
「ふん」
紅葉は横薙ぎに鞘を少女に打ち付けた。手加減の無い強烈な打撃に、少女の小さな体は吹っ飛んで、壁に叩き付けられる。そこにあった壺は割れ、掛け軸が少女の上に落ちた。
「ば、馬鹿者! 本気でやる奴があるかっ!!」
紅葉は嬉しそうに少女が倒れた場所に近付いていって、膝を折って覗いた。
「終わりかガキ?」
「……うぅ!」
少女は倒れ伏しながら紅葉を睨み付けた。そこに感じる戦意は、まだ消えていない。
飛びかかって来た少女を、紅葉は煤でも払うかの様に再び叩き飛ばした。
「紅葉! それ以上やるならわしが……! ん?」
紅葉は腹を抑えて破顔していた。
「ははは! じじい! こいつ、おもしれぇよ」
少女が叩き付けられた場所に立った埃が過ぎ去って、その姿が明らかになった。倒れ伏した少女の手元には、まだ紅葉に向けてペンが握られていた。
「いいぜ、私はこいつと暮らしてやるよ! こいつがどんな風に育っていくのか興味がある!」
「む、無茶苦茶しおって……」
嘆息しながらも、局長もその少女の姿には驚いた。あれだけやられても手元の得物を手放さなかった事、そして今尚紅葉を睨み続けるその精神力に。
「氷雨」
「は?」
「名前ねぇんだろ? だったらこいつは氷雨だ。冷たい雨の様なその瞳と、その境遇。そして――」
紅葉は外を仰ぎ見た。しとしとと、冬の冷たい雨が庭の池に降ち始めていた。
「もう少し縁起の良い名前にせんか?」
局長が困り顔で提案したが、紅葉は「駄目だ」と言った。
「お前の原点は、その名の様に冷たく、陰鬱な物だ。棄て去りたい様な過去も、境遇も、抱え込んで全て糧にしろ」
少女は――氷雨は、未だ紅葉を睨んでいた。霙の様に性質の曖昧な瞳で。
それを気にする風もなく、紅葉は局長に笑いかけた。
「言ったろじじい? こいつは誰にも無いものを持ってんだよ」
何時から居たのか、庭先から局長を見ていた虎柄の猫が、にゃー、と鳴いた。
――氷雨の見ている景色は、今どんな模様なのだろう。