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第4話 暗澹とした世界の、壁一枚向こう

「いたい! い……いたいっ」

 ワケもなく殴られアザとなり、そのアザが消える前にまた殴られて……身体のアザが堪える事はなかった。

 理由もわからず罵声を浴びせられ、それ以外の時間は薄暗い地下に閉じ込められたまま、臭いと言われて冷たいホースの水をかけられる。

 何年も何年もそんな生活をしていく内に、いつしか考える事すら放棄して、息をしているだけになっていた。

 ――狂気に満ちた表情で幽雅(ゆうが)を殴り、繰り返す程にそれは恍惚の表情へ、先程までと別の生き物になったかの様に変貌を遂げる。

 母に殴られよろめいた時に、机の角に勢いよく頭をぶつけて頭から血が溢れ出ていた。

 今日始めてこれ程までの血を見る事になったのは、これまで母もそこまでの行為には一線を置いていたからと思える。しかし母は、頭から血を流す幽雅を見て、動じる事をしなかった。遂に一線を超えてしまった父と母の暴力は、今日をキッカケに激しさを増す事がわかった。

 額から掌に滴り落ちる血液。今までは殴られた箇所は、青アザや切り傷となるだけで、傷口から微かに赤が見える程度でしか、幽雅はそれを見た事が無かった。

 いつもと同じ苦渋の時間、そんな中、いつもと違うのは、自分の額から夥しい量の血液が噴水の様に溢れ出しているという事。

 そんな事態に、幽雅はあっけらかんとこんな事を思った。

 ――この色はいつかどこかで見た事がある気がする。

 幽雅は今自分が危機的状況にある事など気にもしていないように、ひたすらに倒れ伏したまま、瞳を虚空に向けて夢想に耽った。

 ――これはたしか、うーん……。――――そうだ、昔好きだったお花の色に似ている。

 その時から、なにやら右腕が燃えるような熱を帯びて来るのを感じた。それでもそれがなんなのか、幽雅にはわからなかった。

 フローリングに倒れ伏したまま、額から掌に流れ落ちる自らの血液を見つめながらに、幽雅は再度回想する。

 ……そういえば私は花が好きだった。

 昔、これ程の地獄が始まるずっと前、妹が花壇から勝手に花を摘んで来ては、私を喜ばせようとその花を私に差し出して……それをニコリとして受け取る私もその後、一緒になってシスターに怒られて……。

 心の中で微笑すると、そのままのうつ伏せの姿勢で、掌に落ちる血の紅の中に、自分の過去を問い掛けた。

 いつ? この明るい現実はいつの事だった? 何十年前? この世界はどこにある?

 あの世界は夢で、この世界が現実? この世界が夢で、あの世界が現実? あの世界が夢で、この世界も夢?

 違う違う、それはなんとなく違うと思う。

 ――じゃあ、あの世界も現実で、この世界も……現実。


 ……それなら、帰りたい。


 あの頃の幸せだった日々に帰りたい。

 あの世界も現実で、この世界も現実なら、同じ現実ならば!

 ――私は幸せだったあの世界に帰りたい。

 毎日、毎日毎日毎日毎日毎日……。いつまで続くのかもわからない久遠の時を、地獄の時を、されるがままに殴られ続けて来た。

 今の私にあるのは『恐怖』『苦痛』解放された時の『安堵』この三つの感情だけ。それはまた何度でも繰り返される無限地獄。ストレスの捌け口としてだけ殴られ、虐げられ、何年も同じぼろきれを着替える事も許されず、外に出る事も、好きに風呂に入る事も出来ず、暗い何も無い地下の倉庫でパンをかじり、お人形と遊ぶ事だけが唯一の楽しみという生活。何年も何年もそれだけを繰り返して来た。

 外はもっと広かったはずだ。

 幽雅の脳裏に、確かに存在した虚ろな過去が去来した。

 出よう、長かったこの地獄から、自らの足で、自らの手で――。

 夥しい量の自らの血液を目前にし、幽雅の中で普段は考えもつかなかった決意が芽生えた瞬間だった。

 よれよれと机に手を着いて立ち上がり、正面に立ち塞がる母の瞳を見つめ返す。こんな事をするのは始めてだ、きっと酷く怒られる。

 怒られるのは怖い。怖いのは嫌いだ。

 まだ少し頭がふらつく、さっき机の角にぶつけた際に相当強く打ってしまった様だ。今も額を伝う血はポタポタと床に落ちている。しかし今はそんな事などあまり気にならない。

 幽雅の目前には、今しがた自分を殴った母がこちらを向いて仁王立ちをしている。幽雅の出血の事など気にしていないように、その表情は醜く快楽に歪んでいた。母の背後の開いた襖から、居間のテレビの前に腰掛けた父が、チラと幽雅を見たかと思うと、直ぐに手元の新聞に目を落とした。

 先程まで恍惚の表情を見せていた母が、立ち上がった幽雅に気がつくと、生意気にこちらを見ている目つきが気に入らなかったか、その顔は般若のように歪み、右の拳を幽雅に向けて再度振り上げた――――。


 その時、幽雅はわりと感慨もなく行動に及んだ。

 自分がどんな顔をして、どんな風にそれをしていたかも思い出せない程に。


「やめ……がっ! なにし……っゆう……っ! あぐぅ…………っつ!」

 柔らかい。

 化粧臭い、薔薇の香りを仄かに纏った母の皮膚を裂いたのは、この右腕だった。

「………………」

 酷く脆い。

 血に濡れて、瞬きする事を忘れ、黙りこくった父の骨をかき混ぜて粉々に砕いたのは、この右腕だった。

「……ぁ…………が……あ………………」

 母の香りをこねては潰す、形を無くしたこの肉が、元どこの部位を担い、活動していたのかももうわからない。その肉を解していく度に、助けを乞う声は弱く掠れていって、それがなんだか面白くて、幽雅はケタケタと無邪気に嗤った。

 やがて一室は、水を打った様に鎮まり返る。それが何だか急に寂しく感じて、水溜りで遊ぶ様に、ぱちゃぱちゃと父と母の血溜まりを未練がましく蹴り上げた。

 蹴り上げられた赤色で、辺りが痛烈な赤に染められていく。木製のタンスが、石造りのダイニングテーブルが、真っ白い天井が、綺麗に磨かれたガラスが、みるみるうちに赤く染まっていった。

 幽雅はまた楽しくなって愉快に嗤った。部屋と同じ様に赤に染まっていく自らを楽しみながら、やがてピタリと動くのを止めて、すっかり赤く染め上げられた部屋の中央に一人立って、右腕を掲げ、見つめた。

 自分の右腕が、右腕だけがとても熱く、異常な程に熱を帯びていた。左手では父と母の人肌の温もりを感じるのに、右手にはただ曖昧な、パンに塗るバターを握り潰すような感触しか感じなかった。

 ――こんなに簡単だったのか、どうしてもっと早くこうしなかったんだろう? 

 汚れた掌を見つめながらただ呆気なく、何十年の途方も無いストレスを、それだけの言葉で片付けてしまった。

「汚れちゃった…………そしたら、お風呂に入ればいいんだっ」

 今しがたの行動をなんとも思っていない様に、幽雅はこれから悠々とお風呂に入って身を洗う事にした。

 汚いぼろきれを脱ぎ捨て、温かいお湯で、臭くてたまらない赤い液体を洗い流す。初めはシャワーの使い方がよくわからなくて、冷たい水や熱い水が出て来て驚いたが、ようやっと心地よい温度の水が出るようになった。降って来る水は、身体中の傷にひりひりと染みた。

 心地よい温度の湯。これ程にお風呂とは気持ちの良い物か。改めて、これからは風呂にも入れ、外にも自由に出られる事を歓喜した。

 風呂から上がると、幽雅まだ残っていた当たり前の感覚として、外の寒さを凌げるようにと近くのクローゼットから母の大きめのコート取り出して身に纏った。

 このコートにはフードも付いているし丁度良い、外にいる人に見つかったら殴られるかもしれないと思ったので、顔を隠すように深く被る事にした。

 背格好が合わないので不格好だが、素敵な純白色の服を着て姿見に映る自分を見て、にっこりと子どもの様な笑顔で笑う。

 玄関で靴を探してみたが、そこには幽雅がこの家に連れて来られた時に履いていた掌程のサイズの小さな白い靴が、潰れたまま奥にあるだけだった。仕方が無いので、またも母の茶色いブーツを借りる事にした。

 お腹が空いていたが、外に出られるという好奇心を後回しにする程の事では無かったようで、これまで近付く事すら許されなかった玄関へと歩み寄った。堅牢なロックに右往左往しながらも、なんとかそれを解除し、いざ自由に出かけんとドアノブに手を掛けた。

 しかしそこで――――

「あっ、わすれてた」

 思い出した様に呟き、ブーツを脱いでドタドタと家の中へ引き返して、物置部屋から地下へと延びる、薄汚れたコンクリートの階段を降りていった。

 階段を降りていった先の、木製の分厚い扉の閂を下ろし、両手でうんしょ、とその重い扉を開く。そこには、こちらをつぶらな瞳で見ている人形が一体座っていた。

 幽雅はその大事なお人形に駆け寄り、膝を着いてぎゅっと抱き締める。

 ぼろきれを着た小汚いお人形であるが、このお人形だけが幽雅の唯一のお友達であった。置いて行く事は出来ない。お人形は黙って幽雅のなすがままに抱き締められていた。

「さ、いくよ。お外にいこう」

 お人形はくりくりとした瞳でこちらを見ているだけで、何も言う事は無い。幽雅はお人形の腕を掴んで、そそくさとその忌々しい地下の部屋を後にした。

 そうして幽雅は上機嫌のまま、玄関のドアノブに手を掛けた。

 ――扉を開けた瞬間、玄関先で待ち伏せていた紺色の服の人達と鉢合った。

 なにやらその紺色の服を来た二人は、幽雅の姿を確認した途端に大きな声を上げた。

 幽雅はその声にびくりとし、人形を玄関に落とした。そして殴られるんじゃないかと思い、反射的に両手を紺色の服の人の胸に向かって突き出した。

 そこからは父と母の時と同じだった。

 地獄の螺旋の全てをあっさりと片付け終え、幽雅は改めて一歩踏み出した。

 外だ、憧れ、焦がれた外だ……。

 扉を抜けた先はまだ朝で、太陽の光がずっとずっと闇にいた幽雅の瞳を射し、チカチカと刺激した。

 薄目を開けて瞳が慣れると、心地良い風が幽雅の生白い額を打った。視界いっぱいには壮大な木々、深緑の山、広大なる空に小春日和の空が広がっていた。幽雅はしばしその夢のような光景に見惚れ、さんさんと降り注ぐその光景の全てを一身に受けた。

 ――毎日、こんな外を妹と二人で手を繋いで走り回った。さっきまで私のいた暗い世界の、壁一枚向こうは、こんなにも明るかったのだ。

 一歩踏み出せば世界はこんなにも違った。

 ――帰るんだ、あの頃の私のいる場所へ。

 外の事は何もわからないが、幽雅は一歩、また一歩と踏み出した。

 何十年ぶりの外であったが、ここに連れて来られた時に目に焼き付けた道程は何となく憶えていた。

 突如、視界の隅で白い発光が目を突いた。そちらに目をやると、遠くの植木がガサと動いた。

 それが何なのかわからなかったし、どうでも良かった。

 玄関先に落としたままの形になった人形を取りに半歩戻り、幽雅は地獄から脱け出した。


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