第39話 逆さまになった空
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先日の激し過ぎる闘いが嘘だった様に今、空が青い。空の群青色をバックにして、細かい鱗が散らばった巻積雲が、のどかな空を埋め尽くしている。しかしそのどれもが濁った様にパッとしない。
誰もいない、誰も来ない静かな山頂にある、Oダムの絶壁を来栖は見降ろした。見降ろしながら、そこから転落していく自分を想像して、足元がゾッとする。
胸ポケットからタバコを取り出し、火を付けて紫煙を燻らせる。
――何も出来なかった、一人も救えなかった、幽雅がただ死んでいくのを見ている事しか出来なかった――
来栖はあの日、世界の裏側にある正義の形を見た。
「あれは……正義?」
幽雅を惨い程にズタボロにし、殺した。しかし、そうする事で、沢山の人間が救われた事実。
「悪……?」
アンスの掲げる正義。出羽の掲げた正義。天羽夜鳥が掲げた正義。傘紅葉が実行した正義。
その全てを否定しながら、その全てにあの日救われた。
来栖の右手から灰がポロリと落ちる。それは地面に達する前に、風にかき混ぜられ、形を失くして消えていった。
「俺は――――」
――どうしたら良い? 真実を知った今、俺にどうする事が出来る? 真実を知って、怪人と呼ばれる悪魔の存在を知って、世間から隠された組織の存在を知って、WCSSの破綻を知って、新人類の存在を知った。……知って、知って。未だ蚊帳の外にいる。
俺に出来る事は、ただ忘れる事。世間と同じ様に、世間が悪を忘れているのと同じ様に、何もかもを忘れて生きていく事だけだ。
この山の向こうの町では、昨日と変わらぬ今日を、何の苦心もせず笑い、過ごす市民がいるのかとふと思った。
何が正しいとか、何が正義かは、きっと人それぞれなんだ。十人十色に答えがあって、だからこそ敵が存在し得る。自らの正義の為に、異なる正義を叩き潰し、そこに悪が産まれる。
結局正義と悪は、どちらから見た景色であるか、という事だけなのだろうか?
来栖は、ほとんど吸っていないタバコの火を、左手の携帯灰皿に押し付けた。それから、両手で頭を掻き毟る様にしてから俯いた。
俯いた先で、巨大なダム湖を遮る絶壁が、決壊した様に放水を始めた。勢い良く溢れ出す水が何処までも下に落ちていって、空が落とす陽射しが虹を映し出していた。
――槍が降るなら盾を。放射線が降るなら絶縁体を。そして敵を撃つ銃を持たなければならない。
あの時否定した筈の出羽の言葉が、今更深く自分の胸に突き刺さった。あの瞬間に、自らの甘ったれた正義感は跡形も無く崩壊させられた。
「あいつの言った言葉は正しい。今だからこそ理解出来る。
……だけど」
来栖は内ポケットから忌々しいシルバーを取り出して目前に掲げた。死に際に出羽が落とした物だ。
逆十字のクロスに蛇が巻き付いている。クリアドーンのシンボルマークだ。
「何が正しくて、何が正しく無いのかはまだわからない。ただ、これだけはわかる」
――クリアドーンは悪だ。例えどんな事情があろうとも。
あいつらはまだ生きていた。ならば俺は――
それは疎ましくも、葛藤する来栖の指標となった。
禍々しく燃える瞳の炎が、クロスの向こうに射す太陽を見据た。
携帯電話が来栖に着信を告げる。手元の腕時計を見た。
「……1分遅れている。時間にルーズなのは嫌いだ」
空に堕ちる様な錯覚に、狐につままれた気分になった。
参った様な表情をして、絶壁に続く手摺りに背中を預け、肘をついて空を仰いだ。
逆さまになって見上げていると、空に堕ちていく様な奇妙な感覚があった。
そして見上げる空はつくづく青くて、青過ぎて、嫌になった。
――嘆くな。震えるな。俯くな奪われた者たちの為、――生ある一瞬を、駆けろ
不意に、正義のヒーローの言っていたどうしても思い出せなかった続きを思い出した。
思い返してみると、父と母を目前で失ってすぐの幼かった自分に、そんな言葉をかけるのは些か酷な気がしてきて、少し笑った。
けれど、そっと拳に力が篭った。
顔を地平線に戻すと、淀んでいたダムからの景色は何時しか晴れ渡っていた。
来栖はそっと携帯電話の通話ボタンを押した。そして通話先の相手に向かって伝える。
「局長。昔、あんたが言ってくれた言葉を思い出しましたよ」