第37話 悲惨な光景と白い少女
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ふらつく足で丘を上がり、教会に辿り着くと、蹴破られた堅牢な扉の中に、地獄の光景が広がっていた。
額縁の中の、地獄を描いた絵画を見ている様だった
「あ……あ、あ!」
自分の瞳が見開いて、戦慄いているのがわかる。二十年前の三千弾痕事件の時に感じたのと同じ、冷たい感情が心に降り込んで来るのを感じた。
ボロ雑巾の様になって、首から鮮烈な血飛沫を上げる幽雅の下に、血に塗れた修道服の女が倒れている。そしてその光景全てを俯瞰的に見下ろす背に不透明な羽を生やした白い天使が、月光のスポットライトに照らされながら、頂点に立っていた。
あの頃の、何も出来なかった自分に反発する様に、来栖は震える手に握られた銃口を、その天使に向けた。
「これが……っ! こんなのが正義だって言うのかよっ!!」
無意識な涙を流して咆哮する。天使は静かに、何の感情も窺い知れない眼をこちらに向けた。
ぬらぬらと、背の羽が蠢いた。
「なんなんだよお前はっ! なんなんだよこれはっ! この惨状はどうしたって言うんだよ!?」
極限状態で錯乱しながら、奥歯を限界まで噛み締めて瞳に力を込めた。呼吸する事も忘れて、みるみる顔が赤く染まっていった。
「刃くん! 銃を下ろしなさい!」橋沢が来栖に銃口を向ける。
「うるせぇえんだよぉっつ!!」激情しながらもどこか冷静に、来栖は標準を夜鳥に合わせ直した。
「市民も、仲間も、敵も殺して、殺して! 殺して!! 殺して!! 全部殺してっ!! それで出来上がった焼け野原を正義だっていうのかよっ!!」
「……ッ」
「……」
橋沢は、来栖の言葉に思わず口を噤んだ。
「その白い女を使って、これから怪人を一掃するのか!? その危険な力を利用していこうってのかよ!? 同じだ! 脅威の対象が変わるだけだろ! 違うのかよ? 何とか言えよ!!」
誰にともなく問い掛けた。教会に反響したその声を聞いて、白い少女だけが一人、微笑んだ。
「……ッ!!」
それを見て、自然と来栖の指はトリガーに掛かった。
――その時、突如来栖の後頭部に、冷んやりとした物が押し当てられた。
「ならばどうしろと言うのだ」
背後からの低く重厚な声が、来栖に問い掛ける。
アンス本部にて待機しているはずの副局長、出羽がそこに居た。
「……出羽さん! ――やっぱり貴方が連れて来たのね? 命令違反でしょう? 小鉢、どうしてこの事を伝えなかったの? …………小鉢?」
橋沢は目で出羽にこの奇怪な状況の説明を求める。
出羽は橋沢には答えず、夜鳥に銃口を向ける来栖に言葉を投じた。
「貴様の反吐が出る甘ったれた机上論では、誰一人救えない」
重い声が教会に微かに反響して、蝋燭を揺らした。
「甘ったれた? じゃあ誰が救えた! 今この現状で、誰を助けられたって言うんだ!」
出羽は抑揚の無い声で返した。
「そこにいる幼い少女、そして他、全ての人類だ」そして続ける。
「お前が言っているのは、重火器を持った敵に、歌で対抗しようと言っているのと同じだ」
「違うっ!」
即座に否定した来栖を、出羽は払いのけた。
「違う事など無い。降りかかる火の粉は払わねば自らの未来はない。火の粉なら手で払える。しかしそれが弓矢ならそれを防ぐ盾を用意しなければならない。それが放射線なら、それを遮断する絶縁体を用意しなければならない。……そして防いでいるばかりでは状況は不利なままだ。敵の息の根を止める銃を持てなければ、我々に未来など無いのだ」
「詭弁だ!」
「詭弁でもない。現に今、私が貴様を止めていなければ、ここにいる者皆殺されていた。貴様が目前の狂気に耳障りな歌で対抗しようとしたからだ」
正面でこちらを向いている白い少女を見た。
背の触手をこちらに伸ばして、微笑した時のままの表情を貼り付けていた。
「く……! あの触手は何なんだよ! あれも怪人だろう! 敵なんじゃないのかよ!?」
「あれは……」
出羽は答えた。似つかわしく無く、浮き足立ったかの様に声を昂らせて。
「新人類だ」
頑なに行く末を見守っていた橋沢が声を漏らした。
「出羽……さん? 新人類? どういう事……なの?」
二人は額に汗を垂らして返答を待った。
するとすぐに返答があった。笑いを堪えた上ずった声で。
「二十年来の――君たちが怪人の第一号と呼ぶ存在に次ぐ存在だと言ったんだよ」
一度シン、と静まり返った場を裂いたのは、厳格な出羽の漏らした狂った笑い声だった。
――はは、くっくくく! ははははは、はははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ、あはハはハはハはハはハはハはハはハはハはハはハはハはハはハは!!
「遂に姿を現したのだ! 怪人を使って見つけ出した! 否! 目醒めさせたのだっ!! 次の人類を再びッ!!」
純粋な戦慄がその場に満たされていった。目を見開いて橋沢が問うた。
「何時からなの? 何時からあなたは……?」
出羽は微笑しただけだった。
「ま、まさか、第二班の壊滅、も?」
「そうなる様配置した」
出羽は付け足す様にそう言った。橋沢は続けざまに聞いた。
「まさか、小鉢も?」
「ふん。私は殺す事を快楽としているわけではない。通信システムを遮断しただけだ」
夜鳥に銃口を向けたまま静止していた来栖は、直ぐ背後に凶悪の根源がいる事に衝撃を隠せなかった。驚愕と同時に、純粋な疑問が口を突いて出る。
「どうして……どうしてこんな事をするんだ! 全部お前がやったって言うのか? こんな、こんな地獄の様な惨状を、お前が創ったのか!」
静かに笑いながら出羽が答えた。
「そうだよ来栖くん。そして、怪人という存在を創りだしたのも我々だ」
戦慄する来栖に、出羽は満足そうに鼻を鳴らした。
「どうして、怪人なんて存在を作った! 何が目的なんだ!」
出羽は上機嫌で語り出す。
「特別に教えてやろう。今日はその為に来たのだから……」
「……?」
「怪人とは、所詮新人類のプロトタイプに過ぎない。失敗作だよ。けれどそんな代物でも出来ることが二つある。
一つは、新人類の覚醒。夜鳥くんが怪人に殺されんとするその瞬間に目醒めた様に、新人類は極限状態になってようやく眼を覚ます。
そしてもう一つは――――」
もはや来栖たちには、狂気の言葉を聞いている事しか出来なかった。
「私も含めた、旧人類の殲滅だ」
「カルト野郎が……」来栖は毒突いた。
「……で? 貴方はこれからどうしようって言う訳よ? 出羽さん」
橋沢が出羽に問い掛ける。すると来栖が続けた。
「あんたは遅くない未来、捕らえられる。WCSSがある限り、どこにも逃げる事は出来ない」
二人からの言葉にも、出羽は表情も変えない。
「夜鳥くん、そろそろ行こう」
夜鳥は、無表情で立ち尽くしていたその場から、一歩出羽に向かって踏み出した。
「行かせると思う訳?」橋沢が出羽に銃を向ける。
「来栖くんを殺してもいいのか?」
「く……っ!」
「やってくれ橋沢さん! こいつは! こいつは止めなきゃ駄目だ!」
橋沢は銃を下ろして首を振った。
「いいえ、ここで逃してもWCSSで追跡するだけよ。出羽さん、貴方はもう逃げられないわ。全世界を敵に回したのよ」
橋沢が鋭く睨み付けるが、出羽は貼り付けた様な微笑みを携えたまま、まるで応える素振りも見せなかった。
夜鳥は、幽雅とシスターの体を避けて出羽に近付いていった。
「平和ボケした君たちアンス局員たちに、一つ助言をしてあげよう」
「懺悔の言葉じゃなくて?」
橋沢が皮肉を言うが、次の瞬間に表情を凍らせていたのは橋沢の方だった。
「WCSSが何時までも君たちの道具だと思うな」
「それはどういう……意味なのよ?」
出羽はニヒルに笑んだ。
「私が何故わざわざこの教会に出向いたかわかるか? これはパフォーマンスなんだよ。全世界へ、始まりの警笛として」
そう言うと、出羽は天井を見上げた。そこには天窓から星空が見えているだけであったが、出羽が見ているのは、その先に浮かぶ物だった。
「始まりの警笛?」来栖が声を漏らした。
――――革命の、始まりだ。
出羽は小さくそう呟いてから始めた。
「宣言する。我々は、私を含めた旧人類を廃し、新人類が統べる新世界を創りあげる。WCSSによって君たちが平和を謳歌して来た二十年もの間、我々は着々と準備して来たのだ! 新世界を始める為に!」
出羽の声が語り始めた。やはりそこにはかつての鉄面皮の印象は無く、口角は吊りあがり、頬は緩んでいた。
「監視衛星局を相手取って、一体お前たちに何が出来る! 全て見られているんだ!」
気圧されそうになるのを押し返す様に、来栖が出羽に反論する。すると出羽は嬉しそうに破顔した。
「だから平和ボケしていると言うのだよ。WCSSにおんぶに抱っこ……。アンス職員諸君、君たちも決して例外では無い。
…………教えてやる。WCSSは、既に私たちの手中に堕ちた」
「……ッッ!?」
この場にいる者、否、WCSSを通じて事の顛末を窺っている全世界に、驚愕による沈黙が訪れた。
そして出羽の演説は続く。地獄の果てまで。
「疑う事を、危機する事を忘れて堕落した君たちは、一つ支柱を折っただけで容易く瓦解する。
人類とは、恐怖するからこそ学び、行動する。畏怖するからこそ考え、教訓とする。危機するからこそ生の価値を知る。――絶望するからこそ成長する。生の意味を考える事を忘れ、生の尊さを知る事を忘れ、息をしているだけの人類に! ……最早何の価値があると言うのだ……。私からして見れば君たちは、柵で管理された家畜か、地べたに這い回る虫けらと同じだ。考える事を唯一許された生命体の成れの果てがこれか! このまま我々現人類が虫けらへと退化する位ならば、全て終わりにして、世界を創り直そう。――そして我々は、新人類としてやり直すのだ!」
――――その時、教会の蝋燭を揺らして、一筋の閃光が来栖の頭上を走り抜けた。
「が! ……っあ!!」
金属が音を立てて来栖の足元に転がってきた。逆十字のクロスに、蛇が巻き付いた物だった。
何があったのか、出羽は膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れた。左背部、心臓の位置に空いた風穴からは、どくどくと血が溢れ出している。
「私、やっぱり貴方とは行かない」
一同が一斉に夜鳥に振り返った。
「……ッ!」
立ち尽くし、しばらく誰も声を発する事が出来ないでいた。
「……なんだよ……何やってんだよ!?」
来栖は手元の銃を落として、夜鳥に歩み寄った。
「どうしてそんな簡単に人が殺せるんだよっ!?」
「……?」
不思議そうに夜鳥は来栖を覗いた。
「その人、悪い人なんでしょ? 殺して欲しかったんじゃないの?」
「そんな訳あるかよっ! 動きを止めるだけで良かっただろう!」
「刃くん! それ以上近付くのは危険よ!」橋沢が静止する。
「殺し合いの連鎖を止めなくちゃ駄目なんだよ!」
来栖は夜鳥の目前に立って、両の肩を掴んだ。白いカーテンから、淡赤色の瞳が見える。
「まるでゲームか何かの様に、人を殺すのはもう辞めてくれ! お前にはそれが出来てしまう力があるんだ!」
夜鳥は答えない。
「このままそんな風に人を殺し続けていたら、お前は人じゃなくなってしまう!」
「……ふふ」
白い前髪を揺らして、夜鳥は微笑した。
「私、もう人じゃないよ」
「違う! 人であるかは外見じゃない! 心だろ!」
来栖の言葉を咀嚼しているのか、はたまた何でも無いのか、夜鳥はしばらく間を空けてから口を開いた。
淡白でいて、冷たい口調だった。
「……ねぇ、どうして悪い人を殺すのがいけないの?」
――――は?
それは、夜鳥から来栖への素朴な問い掛けだった。
「悪い人は悪くない人を殺したんだよ? これから殺すかもしれないんだよ? 悪い人を殺しておく事が、結果的に平和に繋がるんじゃないの?」
――違う! それは……あまりに偏った考え方だ!
「私もっと悪い人を沢山殺したい。平和の為に、幽雅みたいに黒くなった人もみんなみんな、私が殺してあげたいの。だから……ええと、何て名前だったかな? まぁいいや、さっきの人も、殺してあげたの」
まるで慈善活動でもしているのかと思う程に、清々しい笑顔が来栖に向けられた。
この少女には、罪の意識が、死の価値観が決定的に欠落していた。
夜鳥の肩に乗せていた来栖の手は、力なくそこから落ちていった。
夜鳥は、現代が産み出した怪物だった。
―――ねぇ、どうして悪い人を殺しちゃいけないの?
純粋な問い掛けの繰り返しに、来栖は言葉も喪った。
皮肉にも美しく、可愛らしい笑顔が、その瞳いっぱいに溜めた好奇心で、来栖だけを見ていた。