第36話 追い求めていたもの
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「動かないで! 降伏しなさい!」
橋沢が幽雅に銃を突き付ける。
しかし幽雅は、ずるずると身体を引きずって真っ直ぐに教会へと進む。幽雅の登って来た丘の道筋には太い赤色が続いていて、その大量の血液から考えて、もうすぐにでも意識は途切れるだろう。現に顔色はもはや生気を失った死体の様になっていた。
「撃つわよ!」
幽雅は橋沢の声が聞こえてもいない様に、虚ろに進み続ける。
「……く」
橋沢は扉の目前にまで迫って来た幽雅に向けて銃弾を放った。
「ぅ……ぐぅ……」
銃弾は幽雅の身体にあっさりと着弾する。低い呻きを上げながらも、幽雅はそのまま動き続ける。
間も無く、幽雅に銃弾の嵐が降り注いだ。右腕である程度は弾き飛ばすものの、そのほとんどが幽雅の身体に食い込んでいく。
「……まだ、動くの?」橋沢は目前にまで迫ってきた幽雅と一度距離を取るために、止む無く教会への道を開けた。
幽雅は血の泡をぶくぶくと口から垂れながらも、教会の壊れた扉に手を着き、先に進んでいこうとする。。
それを追う形で、橋沢は銃弾を最後の一発まで乱射する。激し過ぎる銃声が飛び交った後、虫の息程にゆっくりと幽雅は教会内部へと侵入していった。
「どうしてうごけるの!?」
橋沢は教会へと侵入していった幽雅を追った。
教会内部では、這いつくばいになった幽雅と、その先に修道服姿の女が巨大な十字架を背にして立っていた。修道服の女は幽雅の姿に涙を流し、怖じ気る事無く、コツコツと靴を鳴らして幽雅に走り寄っていった。
「シスター! 危険よ! 下がって!」
しかし銃弾を放つ事は出来ない。幽雅の直線上にシスターがいるうえに、既に幽雅とシスターとの距離が近過ぎる。放った銃弾がシスターに当たってしまう可能性が高い。思わず幽雅と距離を取ってしまった橋沢の失策であった。
橋沢は角度をズラす為に教会内を左右に大きく膨れたが、その頃には既に、シスターは幽雅の目前で膝を着いていた。
シスターは口元に手を当て、胸元で十字を切り、涙を溢れさせながらそっと幽雅の頬に触れた。
「なんて酷い姿に……幽雅ちゃん、なのよね?」
虚ろな瞳でシスターを見上げていた幽雅の瞳から、涙が垂れた。
万感交到った末に流れたそれをシスターは優しく拭って、ズタボロになった幽雅を優しく胸に包み込んだ。
「神様……何故こんなに酷い仕打ちを……何故こんなにも惨い結末を」
「……シス……ター…………」
「幽雅ちゃん、また……昔みたいに一緒に暮らしましょう……昔みたいに、幸せで平和な生活を」
「……う……ん…………シスタ……むか……しみ、たい……に……みんな、で……」
天窓から射した月光に包まれた二人。シスターは詫びる様に幽雅を抱きしめ、幽雅は安心しきった様な表情でシスターの胸で涙を流し、二人はしばし瞳を閉じた。
「シスター! 離れなさいっ!」
「――――――ッッ!」
シスターの胸部に衝撃が走り、幽雅を抱いたままどさりと仰向けに倒れ込んだ。
シスターが状況も飲み込めぬまま、視線を美しい星々が映る天窓から、自分の胸元の方へと移していくと、胸にずぶりと黒い腕が突き刺さっているのが見えた。
「幽……雅ちゃ……ん?」
シスターはゆっくりと瞳を閉じた。その胸で幽雅が不安そうな声を上げてシスターを見上げている。
「シスター…………? ――――あ」
幽雅はその時になって、自分の腕がシスターの胸に突き刺さっている事に気が付いた。涙を溜め、血管の浮き立った瞳を見開き、直ぐに腕を抜いた。
シスターは一つ呻いて血を吐いた。シスターの背の方から広がる赤い水溜りは、徐々に徐々に広がって、円を大きくしていく。
「ぁあ……あ…………あ、ああ…………ああぁああああぁああ!!!」
生暖かい血に濡れた自らの腕を、月光に照らして掲げた後、幽雅の心は壊れた。
「どうじてぇ……っ!! どうしでシスターを……! 違う! ちがうちがうちがう! こいつじゃない! 近くに、近くにいる……! なにを、私は……? シスター、ちが……う、近くにい…………る、あい、つ。あ……い、つ……が!」
長く黒い髪を乱れ回し、錯乱した幽雅の放つ言葉はもはや意味不明で、正気は確認するまでもなく明らかだった。
その時、教会の押し倒された扉を踏む音が聞こえた。橋沢が教会内部で左右に膨れた所からそちらを窺うと、先日捕らえて監禁状態であったはずの白い少女、天羽夜鳥が教会内に踏み入って来ている所だった。
「な……っ、あなた……どうしてここに!? 危険よ、止まりなさい! あの少女に近付かないで!」
橋沢が夜鳥に銃口を向けて抑止を促す。しかし夜鳥はつまらなそうに橋沢の言葉を流して歩みを進める。更にその後ろからは少し距離を開けて、てこてこと小さな黒い髪までもが連いて来ていた。鷲巣が気を失い、幼い少女を手放してしまったらしい。
「こんな時にッ!」
橋沢が即座に少女たちに近寄っていく。しかしシスターを避けて幽雅を撃つ為にかなり大きく教会内を膨れた為に、後ろから連いて来ていた少女しか捕らえられなかった。
「止まりなさい! 幽雅は既に敵味方の区別も無く攻撃している!」
夜鳥は、錯乱しパニックになった幽雅をまるで怖じる事も無く、胸を刺されたシスターを心配するでも無く、全て自分とは無関係と言った風に、冷淡に、幽雅に近づいていった。
月光に照らされ座り込み、頭に手を当て髪を振り乱していた幽雅がピタリと動きを止め、その長い地面にまで辿り着く髪から、近寄って来る夜鳥を充血した眼で垣間見た。
「幽雅」
「…………」
白い少女はまるで感慨も無さげに声を掛けた。つい先日会った友人に、また会ったね。と話し掛けてでもいるかの様な口調で。
「久しぶりだね」
「……」
幽雅は何も言わない。ただ、不自然な程にピタリと動くのを止めたかと思うと、突然に痙攣しだし、夜鳥を穴が空く程凝視していた。
「また……昔みたいに暮らせる?」
ポツリと幽雅が言葉を漏らす。
「……」
「幸せな世界に戻れる?」
「……」
夜鳥は幽雅の目の前までいき、腰を下ろして視線を合わせた。その距離は十分に幽雅の腕の射程範囲の中だ。しかし幽雅の腕はガタガタと痙攣し、震えるだけで、動きはしない。
「危険よ! 離れなさい! もうその腕は制御が効かない!」
橋沢の必死の呼び掛けなど、二人には届かない。
「戻れないよ、幽雅」
「……え」
「だって幽雅は、ここに来るまでに沢山人を殺したんでしょ?」
「……殺した?」
「そうだよ、人を殺したんでしょ?」
「え……え……でも、でも……むかしみたい……に、お花…………いっしょ、におそとで……星を、み……たり……」
「駄目だよ、戻れないよ」
ぐん、と幽雅の右腕が夜鳥の喉元まで伸びて、止まった。夜鳥は瞬き一つもせず、幽雅と合わせた視線を外さない。
「どうなっちゃったのその腕。その腕で、沢山の人を殺したの? その腕で、シスターの事も殺したの?」
「……ゔぅう……ちが…………わたし、は、もどりたく……て…………」
夜鳥の喉元に近付けた腕をぶるぶると震えさせながら、愛しい物に触れようとするが如く、幽雅の腕は優しく、ゆっくりと夜鳥に近づいていった。
「刺激しないで! すぐに離れて!」
幽雅の言葉は、最早悲痛の叫びだった。
「また……みんな……で、……、くらし…………シスターが……、おともだ……星を、花を……………………しあわ……せに……よとり」
「もう終わりだよ、幽雅」
益々と幽雅の息は荒くなり、血の気を失って青白くなった顔から、糸が切れた様に表情が消えた。かと思うと、瞳を限界まで見開き、食い殺すかの如く顔を突き出した。
「みづけだぁぁぁあああぉぁぁぁあ!!!!」
金切り声で発狂した幽雅のその声は、もはや声とも識別し難い程に荒々しい物だった。目にも留まらぬ早さで、夜鳥の喉を抉らんと幽雅は腕を突き出した。
夜鳥はそっと告げた。
――――私もね、幽雅。私も化け物になったの。
「だから、私が全部終わらせてあげる。これからは私が、自分が自分じゃなくなった人たちを全部終わらせてあげる」
キラリと一瞬、何かが光った様な気がした、そして次の瞬間、幽雅の首筋から鮮血が噴水の様に溢れ出し、幽雅は腕を上げたまま、反転し、ペタリと仰向けになって倒れた。
「……っ!? な……なにが?」
足元から鳥が立った様な気の橋沢は、幽雅の首が突然弾ける様に血を噴き出した原理を、目前にいながら視認する事が出来なかった。
ただそこには、背に蠢く触手を携えた白い少女が佇んでいるだけだ。
幽雅が月光に照らされて仰向けになっているだけだった。
幽雅は、天窓に映る無数の星たちを見上げた。少し視線を下げると、首元には自分が好きだった花と同じ色の赤い花が、噴出する様に咲いていた。そしてその先に、一緒にその花を摘んだ妹の顔が見えた。
「……ぉ……ぇ……」
教会の入り口付近から、聞きなれ無い声が幽雅に届いた。幽雅はもはや首を捻りそちらを窺う事も出来なかったが、その声が、幽雅の連れて来たお人形の発した声だという事に、何故だか確信を持てた。
「……ね……ゃん…………」
「……」
「お、……ね…………ゃ……」
「…………」
「…………ぉ……ね、え……ちゃ、ん」
震え、たどたどしく、つっかえながら必至に紡がれた言葉を、幽雅はしっかりと聞き止めて、驚いた様に微かに微笑んだ。
「お……人形、さんが…………しゃべっ……た…………えへ、へ……お人形さ……じゃ……なかっ……た、ん……」
最後の時を迎えようとしている幽雅の直ぐそばに腰を屈めた夜鳥は、涙を流しながら血を吐いて喋る姉の姿を冷淡な瞳でじっと見ていた。
「あの星は…………」
月明かりに照らされながら、細く、微かになっていく幽雅の瞳は、天窓に煌めく壮大な星を眺める。
「オリオン座……」
「……」
「あの星は…………」
幽雅の瞳から色が消えていく。天窓を見ていた瞳は焦点を失って宙ぶらりんになった。
「なんて…………なまえ?」
――もっと知りたかった。もっと色々な事、世界の事を。ただ普通に生きてみたかった。
願いはそれだけだった。
皆が当たり前に持っている『普通』という人生が、私には羨ましかった。
普通に学んで、普通に食べて、普通にお風呂に入って、普通に寝て、普通に笑って、普通に喧嘩して、普通に遊んで、普通に仲直りして、普通に愛されて、誰かと手を繋いでいられる人生。
そんな普通が、私にとっては普通ではなかった。
言葉にしてみると『普通』とはなんと贅沢なものなんだろう。
――何も持っていなかった私が、全てを持った人生を望んでいたのだから、そんな願いが叶うわけなんて無かった。
――そんな事、実はわかっていたんだ。
だけどわかって欲しい。私が必死に手を伸ばした事を。神様に貰ったこの腕で世界を壊し、希望に手を伸ばした事を。必死になって星を掴もうと手を伸ばしていた事を。
星座の名前を一つしか知らないままに、幽雅の瞳と世界は闇に閉じゆく。
普通を願った末に、あまりにも無残な結末を追った少女は、月明かりと星々に迎えられる様に照らされたまま、息をする事を止めた。閉じかけた瞳からは涙が一つ落ちた。
目も当てられぬ程にズタボロにされ、命を断たれた幽雅はあまりに報われなかった。けれど、幽雅の連れて来たもう一人の不幸な世界の住人は、幽雅の望んだ世界を手に入れた。これからは、普通に笑って普通に生きていける。
「そうだ、彼岸花だ。私の好きだった花……」
だから幽雅は、名前も知らない星に向かって、
――最後に精一杯微笑んだ。