第34話 化物
「刃くん……なの? あんな遠くから、どうやって……」
いくら人外の速度と硬度を持ってしても、人体の関節の位置が変わる訳では無い。つまり来栖は、幽雅が歩む際、左足で踏み込み、重心が前方に移動した瞬間に、一瞬残った右足首に銃弾を撃ち込んだのだ。その銃弾に反応こそした幽雅の黒い腕であったが、あくまで人体。幽雅の不自然な前傾姿勢も助けて、届かない所にまでは届かなかった。そして、今の銃弾を防げなかったという事は、背筋や腰の方にはまだ侵食が及んでおらず、幽雅の意思で動いているという事にもなる。
しかし、恐るべきは銃弾を放った来栖と幽雅とのその距離。丘の下、八十メートル程の所から、闇で視界の悪い中、来栖はピンポイントで狙い澄ました部位に銃弾を撃ち込んだのだ。
「いたいぃぃいいッっ!! ……いたい! いたいよぉ!!」
過信していた両腕を掻い潜って襲い来た突然の激痛に、しくしくと泣き始めた幽雅は、右の足首を抑えてもがいた。ブーツの茶を更に濃い色に変えていく、どくどくと溢れる血が、幽雅に更なるショックを与えた。
「あぁ……あ……! あ…………ぁっ」
苦痛の声で悶える幽雅は、うずくまったまま、やがて動かなくなった。
「……っ」
目前まで迫り来ていた脅威が突然にその場に崩れ落ちた事に、しばし橋沢は動けずに、状況を整理する事に没頭した。
「終わった……の?」
思わず口からこぼれた言葉に目をパチクリとさせながら、橋沢は自らに頷いた。
「……ふぅ」
途端に大きな息を漏らす橋沢。それでも警戒する様に、今度はしかと構えた銃口を幽雅に向けた。
程なくして橋沢の元へ、丘の下から来栖が駆けて上がって来た。
橋沢に肩を抱えられた早乙女は、満足に開いてもいない瞳を来栖に向けた。
「あんた、どうして来たの……あの子どもは? アンスのメンバーでもない……あんたが銃弾を放つ事が……どれだけ重大な事かわかっているの?」
早乙女の目は来栖の行動を咎めた。来栖はそれを正面から受けて答えた。
「目の前で殺されかけている人を助ける為に銃弾を放つ事は、警察官の俺にとって何も間違っちゃいない行為だ」
来栖は手元に視線を落として続けた。
「と言いたい所だが……これは俺の独断じゃあ無かった」
「……?」
早乙女が改めて来栖に視線を向けるが、その瞳はほとんど閉じかけていた。
「鷲巣に頼まれたんです。子どもは俺が見てる。早乙女さんたちを助けてやってくれ、一瞬気を逸らすだけでもいいって……。これを渡されたんです。死にそうなのはあいつの方なのに」
来栖は、愛でる様にその手に握られた銀色の拳銃を優しく握り直した。SIG、P210-9m……あいつにしては良い趣味だ。
「……」
その言葉を否定も肯定もせず、早乙女は静かに俯いて喋らなくなった。
「助かったわ刃くん」
早乙女に代わり、橋沢が来栖に感謝の言葉を送る。来栖は橋沢に向かって首を振った。
「いや、それより……もう大丈夫なのか? その……」
来栖は地に伏せた髪を見下ろす。丘の上の教会まであと十メートルも無い。目的の達成がいかに危うかったのかを物語っていた。
「…………」
今や幽雅は言葉も無く、死んだ様に動く様子も無い。
「ええ、足を撃ったんだから満足には動けない筈よ。それより、乙女ちゃんを早く治療してあげたいんだけど……」
幽雅に貫かれた早乙女の腹からは、夥しい量の血液が流れ出していた。
「刃くん、申し訳ないけど、乙女ちゃんを何処か安静に出来る所まで……そうだわ、小舎の方に退避してもらる? 片腕じゃちょっと時間掛かりそうなの」
「……わかった」
来栖は橋沢の方へ向き直り、幽雅を背にした形で、早乙女の肩を受け取りに近づいていった。
「――――刃くんッッ!!」
来栖の目前で早乙女の肩を下ろそうとしていた橋沢が突然に大声を出し、その表情を再び緊迫したものへと変えた。
「――っ!?」
来栖は反射的に背後で倒れていたはずの幽雅の方へ視線を返す。
「……あ…………うっ、あ……」
――幽雅が立っていた。
否、厳密に言えばそれは違う。立っていたと言っても、幽雅が銃弾を受けた脅威的な苦痛に耐え、再びその傷付いた足で立ち上がったわけでは無く、その黒く変色した両腕をピンと直立しているかの様に地面に突き立て、身を起こしていたのだ。長過ぎる髪で表情は完全に埋れ、もはや何処を向いているのかもわからなかった。
「う、うっ…………う……っ」
未だ襲う痛みに耐え兼ねている幽雅の身体は震え、断続的に低い嗚咽を漏らしていた。その腕は本体の幽雅の事情など関係無い様に、投げ出された身体を引きずりながら、その腕で地を穿ち、一歩踏み出した。
「う……あ、う……ぁ…………」
呻く幽雅の身体をズルズルと引きずりながら、その腕は来栖に迫り始めた。しばし呆気に取られていた来栖達だったが、その腕の歩行が徐々に徐々に速くなって来るのに合わせて、思考を取り戻していった。
「ま、まだ動くのかっ! 何がどうなってるんだ!」
来栖が手元の銃口を幽雅に向けるよりも先に、橋沢が銃弾を放った。その銃弾は投げ出された幽雅の足に命中し、幽雅は声を上げた。
「いあぁいつっ……ぁっ……! ああぁ、ぁあ……っ!!」
しかし幽雅の腕の進行は止まらない。その腕はもはや幽雅の意思とは関係無く暴走し、来栖に迫って来ていた。
「刃くんっ! 援護する! 今のうちに後退して!」
肩に早乙女を抱いたまま、橋沢が折れた腕で無理やりホルスターから拳銃を引き抜こうとした。
「駄目だ……っ! 橋沢さんは早乙女さんを連れて退いてくれ!」
来栖は後ろに下がりながら、こちらに腕だけで走って来る幽雅に向けて銃弾を放った。正面からのその銃弾を綺麗に弾き飛ばしながら、髪の化け物は、更に速度を増して来栖に近付いて来た。
「いぃぎぃあ……あ、ああぁぎぃぁいぃぁあ!!! ぅああぐぅ!!」
先程の橋沢の銃弾の痛みなのか、自らの両腕に無理やり身体を引きずられる痛みからか、幽雅は聞くに耐えない絶叫を上げた。
「ごめん刃くん……! 持ち堪えてっ!」
橋沢は奥歯を噛み締めながら、早乙女と共に丘を駆け下りていった。
そうこうしている間に、幽雅は目前にまで差し迫って来ていた。来栖は瞳を見開き、瞬きする事もせず、強張った表情で絶句した。
幽雅が引きずられた道筋に、赤い液体が色を付けていく。幽雅の白いコートは凄まじく破れゆき、膝や下腹部、引きずられるあらゆる箇所から出血していた。
「く、クソッ……どうすりゃいいんだっ!?」
絶望した表情を顔に貼り付けながら、来栖は後手に銃弾を放つ。そのほとんどは凄まじい勢いで進行する腕に目にも見えぬ速度で弾かれるが、そのうちの何発かは、幽雅の足元に食い込んだ。
「……ぅ……っ」
もはや声も上げなくなった、息も絶え絶えな幽雅とは裏腹に、身体から生えた二本の黒い腕は獰猛に動き続けていた。そのあまりに凄惨な光景が、遂に来栖のすぐ背後にまで辿り着いた。
「くそっ!」
即座に飛んで回避し、そのままの勢いで斜面を泥塗れになりながら転がっていった。転落する身体は次第に勢いを増し、前も後ろも地も天もわからないまま、無様に転落する。
「うっ……」
丘の斜面の中腹で、ようやく来栖の身体は転がるのを止めた。スーツの至る箇所は破れ、身体中に傷が出来上がったが、そんな事はどうでも良かった。
未だにぐるぐると回っている視界のまま、無理やりに転がって来た斜面の方を見ると、そこに一本のレッドカーペットが敷かれていた。
その血の道筋を追って視線を下げていくと、闇の中、黒く蠢く無数の黒髪が、猛烈な速度ですぐそこにまで駆け下りて来ているのが見えた。
――速過ぎるっ!
身を呈した回避で一先ずは距離が出来たと甘んじた考えは一蹴された。土と雑草と赤黒い血液を跳ね上げながら、幽雅は坂を駆け下りて来る。
「くっ!」
来栖は幽雅と接触する直前に、真横に飛び退いてそれを躱す事に成功した。自動車が急には止まれない様に、坂で勢いのつき過ぎた幽雅の身体は、そのまま来栖を追い越していったが、幽雅の両腕は無理やりに地面に腕を突き立て、地を数メートル抉りながら停止した。当然、その摩擦に幽雅の皮膚と筋肉は激しく飛び散る。
――躱したっ! ……次は下から来る! 次の攻撃はどう切り抜けるか!
「くそ……っ! ムリだ!」
思考が、ぐるぐると回っている平衡感覚よりも早く回転する。来栖は唇を噛み、転がっている間もしっかりと握っていた拳銃を、カタカタと震わせながら幽雅に向けた。
しかし死角のない正面からでは、弾丸は全てあの両腕で受け切られてしまう。下から来るのでは、先の様に幽雅の速度を利用した回避も出来ない。そんな事は来栖にもわかっていた。それでも、幽雅に銃口を向ける以外、出来る事が無かった。
そんな来栖の絶望など露知らず、幽雅は滑り落ちて来た丘をその両腕で駆け上がろうと、黒く血に濡れた腕を一歩踏み出しかけ
――――ピタリと止まった。
万事休すと思われた来栖の視界に、あらぬものが映り込んだ。来栖の銃口は丘の下の幽雅から外れ、そして銃口は無意識に沈んでいった。
「あいつは……」
丘の下から来栖を見上げている化物、幽雅のその背、その直ぐ背後の茂みから、がさがさと草にまみれて現れた影。
裂けたミリタリージャケット、血みどろになった白いタンクトップに、季節外れのデニムのショートパンツとワークブーツ。その女の手に確かに握られている長いそれが、闇でギラリと煌めいた。