第32話 寒気
*
来栖は早乙女の言葉を聞き取ると無線機の通信を切った。
先程押し付けられた少女と木陰に屈み込みながら、右手の三十メートル程先、ズラリと並んだポプラ並木の途切れ、つまりこの太陽の唄へと続く一本の小道を窺っていた。
「早乙女さん達はどうなった?」
隣で横になっている鷲巣に、来栖は振り返るまでもなく言葉を返した。
「シスターの保護に失敗したらしい、ここで迎え撃つと言っていた。出羽さんからの許可も下りたらしい」
「局長でも敵わなかった相手に、たった二人で……くそ、俺も……っ!」
上体を無理やりに起こそうとした鷲巣は、途中で力尽きて再び地面に背中を着けた。
「静かにしろ。もうじきさっきの奴がここに現れる」
「……」
「……」
言葉が途切れ、喋る者もいなくなり、闇の中、静寂に包まれる。
ざわざわと風が吹く度にポプラの葉が揺れる。外の声はそれだけで、動物の鳴き声も、虫の鳴き声も一つもしない。対象的に来栖の心音は、辺りに聞こえているのでは無いかと思う程にばくばくと拍動していた。
そんな静寂を切り裂く様に、やがて微かに聞こえて来た。
――じゃり。じゃり。じゃり。
「来た……」
右手の小道に、真っ白いコートを血に染め上げた女が、じゃりじゃりと地を踏みながら姿を現した。
その姿を改めて確認し、息を呑んだ。
不自然にも、今に地に手を着いて歩き出すんじゃないかという程に背を曲げて前屈みになり、だらりと、赤く染まった両の手を下げ、ズルズルと黒いカーテンの様な髪を地面に引きずっていた。上質な真っ白いコートは鮮血に染まり、髪の僅かな隙間から瞳だけを覗かせて前方を窺っている。
――恐ろしい。
「……あ」
気が逸れた瞬間、来栖の隣りで一緒に屈み込んでいた小さな少女が腰を上げた。来栖は咄嗟にその肩を抑え付けたが、がさごそと草木が物音を立てた。
「……っ!」
喋れぬ少女の口を抑える来栖。鷲巣は倒れ伏しながら静かにホルスターから銃を抜いた。
肝を冷やしながら木陰からそろそろと顔を覗かせて、慎重に幽雅の方を窺うと、闇の中、幽雅がこちらを見ていた。そんな幽雅と瞳があった気さえした。
「まずい……! 気付かれたか……っ?」
――じゃり。じゃり。足音が来栖たちににじり寄って来る。
来栖は幼い少女を胸に抱き抱えて息を殺す。
――じゃり。じゃりじゃり。
すり足でこちらに歩み寄って来ているのがわかる。
「……っ!」
少女を抱き抱える腕に力がこもる。肌が恐怖に粟立つのを止めることは出来なかった。
「おい……」
恐怖で強張った瞳を開けると、鷲巣が血の気の無い顔でこちらを見ていた。
「俺を置いて……そいつ連れて全力で逃げろ」
「そんな事をしたら、お前は……っ」
来栖は今日まで、自分の命を投げ打ってでも誰かの命を救いたいと思っていた。自分の命を犠牲に他人の命を救えるのはこれ以上無く勇敢な行為だとも思っていた。
「死ぬ覚悟なんて出来てる……」
現実でそんな場面に直面した時、鷲巣の様にその台詞が言えるだろうか? 現実に今、そんな場面でそんな台詞を吐いている鷲巣が、途方も無く遠い存在に感じさえする。
――じゃりじゃり。じゃりじゃり。
来栖たちが身を隠しているポプラの木の木陰まで、幽雅が十メートル程に差し迫った時、鉄を弾く激しい音がすぐそこから聞こえた。
片腕を腰の辺りにまで上げた幽雅は、緩々と、弾丸が放たれて来た教会の方へと進路を変えていく。
来栖が瞳を見開きながら安堵していると、
――――待っててね、お人形さん。
去り際に、あどけない子どもの様な声が聞こえた。やはりバレていたと理解すると同時に、来栖の全身は冷水でも浴びせられたかの様にびっしょりと濡れた。