第29話 不可解
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「よかったのか? 日寺さんを一人で置いて来て……?」
車内には緊迫した空気が張り詰めている。その状況下で来栖の問いに答えたのは橋沢だった。
「日寺さんは、局長を失えば我々アンス東海部隊が近い未来、壊滅的状況に陥る事を危惧してた。だから私たちに太陽の唄に籠城してるシスターの強制連行を任せ、一人残ったのよ」
「だけど、たった一人じゃあ」
思案げな表情を浮かべる来栖を一瞥もせずに、運転席の橋沢は続けた。
「ターゲットの気を局長から剃らせる事は出来るわ。そしてターゲットは目的地へと急いでいる。局長を救出出来る可能性も充分にある」
「でも、日寺さんは――」
言いさした所で早乙女が来栖を睨んだ。それ以上は言うなという事らしい。
「……っ」
来栖は口を噤んだ、そして自らの膝下に視線を落とした。膝下に落とした視界の隅に、長く黒い髪がパタパタと揺れているのが見える。すぐ隣を見ると、幼い少女が、膝を揺らして楽しげに頭を揺らしていた。
「くそ……っ! 俺が怪我なんてしてなけりゃ!」
腹部と胸部に包帯をぐるぐるに巻かれ、椅子に横になっている鷲巣は、拳を壁に叩きつけた。
横になった鷲巣のすぐ隣に腰を下ろした早乙女が、マガジンを確認しながらなだめる様に言葉を返している。
「バカね鷲巣。あんたが万全だったとしても、日寺さんがあんたを連れて行くと思うの?」
「でも、早乙女さん……っ」
「お前はうるさいし、作戦をかき乱すからついて来るな……って日寺さんいつも言うでしょ?」
鷲巣がそう言った所で、先まで厳しい表情を見せていた早乙女が、僅かに微笑んだのがわかった。
「……」
その早乙女の微笑みに諭されたかの様に、鷲巣はそれ以上何を言う事もなく、拳を握り締めていた。
――その時であった。
破裂音の後、走行中の車が大きく道を逸れたかと思うと、突然の急ブレーキ。そして次の瞬間、前方からの衝撃が来栖たちを襲った。
「――うわっ! あっ!?」
突然の急停車。何かにぶつかった激しい音と共に投げ出された身を咄嗟によじって、来栖は隣の少女を抱き止めた。
「うぅ……っ!!」
胸に抱いた少女を見ると、怯えた様な表情こそしていたものの、怪我などはしていない様子であった。
来栖は何が起きたのか確かめるべく、少女を地面に座らせてから起き上がった。
「こんな時に……」
見ると来栖たちの乗っていたワゴン車が、道路脇の大木に向かって正面から衝突していた事が窺えた。
「鷲巣……っ!」
来栖は思い出したかの様に投げ出された鷲巣に駆け寄った。
「いてて……なんなんだよ、ったく……!」
床に転がっている包帯男は案外何ともなさそうで、来栖は胸を撫で下ろした。早乙女も、受け身でも取ったのか何なのか、倒れ伏してはいるものの、何にせよ無事な様である。
「うっ……」
しかし前方で呻き声が聞こえた。身を乗り出して運転席を覗くと、橋沢がエアーバックに埋れていた。
「あんた、大丈夫か……っ?」
手を伸ばそうとする来栖を、橋沢は左手を挙げてその動きを止めた。
「大丈夫……。ただ、右腕が折れちゃったみたい」
エアーバックから起き上がった橋沢は、右腕を抑えて苦痛の表情を見せた。
「本当に大丈夫か?」
「ちょっと右腕が痛むだけよ。それより、早く太陽の唄に向かわなきゃ」
心配の表情を浮かべる来栖に笑みを向けて、運転席から降りた橋沢。皆がその動きに連動する様に車内から外に出ていった。
一足早く車外へ出た早乙女が、運転席から右腕を抑えて出てきた橋沢に走り寄った。
「橋沢っ」
しかし橋沢は来栖にしたのと同じ様に、左腕を挙げてそれを静止させた。
「大丈夫……それにしてもなんで突然パンク……? 恐らく右前輪と左後輪だと思うけど」
言われてワゴン車のタイヤを見てみると、右前輪と左後輪が破裂した様に弾けていた。
早乙女は、怪訝な顔付きでそれを眺めながら眉間にシワを寄せた。
「このタイミングでの不自然なパンク……でも、今は……」
早乙女は故意にパンクさせられた、とでも言いたいかの様な口調で顎に手を当てていた。
クルリと向きを変えた橋沢が、早乙女に代わって二の句を次いだ。
「その問題は後よね。私たちは、局長に命じられた通り太陽の唄に向かわなきゃ。それが局長からの命令なんだから」
何者かに狙われているかもしれない、そう思うと、来栖は右腕に抱いて車外へと連れて出た少女の肩を、反射的に自分の胸にぐいと寄せていた。
次に口を開いたのは、早乙女に肩を貸してもらう形で前を見据えた鷲巣だった。
「ここにいても直ぐに、ターゲットがここまで来ます……。太陽の唄へ、行きましょう」
「……」
不安げな表情で固唾を呑んでいる来栖に、早乙女が近付いて来た。
「来栖、あんたはその子を頼んだよ」
早乙女は鷲巣に肩を貸したまま、ホルスターから出した拳銃を構えて辺りに気を配り始めた。
「あ、ああ……」
来栖がふと後方を振り返ると、幽雅と日寺が交戦しているのか、闇の中に火花が散っているのが見えた。直ぐ目前で命を賭して闘っている日寺を置いて、先へと進む他の隊員たちは、誰一人後ろを振り向く事はしない。
「おい、本当にいいのかよ……すぐそこで日寺さんが――」
言いかけて止めた。
来栖の隣で辺りを警戒している早乙女の執拗に固く噤んだ唇から、血が流れ出て来たのを来栖は見たからだ。
「さぁ走るよ」
早乙女の号令で皆が駆け出す。来栖も隊員たちと同じ様に、振り向きたい気持ちを押さえ付け、前を向いて走った。