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第28話 老人と少女

   *

 母から借りた白いコートの右腕の部分が、銃や刃物のせいで見るも無惨な格好になってしまった。切り裂かれた無数の箇所からは、微かに血が滲み、黒く変色した肌が見える。

 ――紺色の制服を着た人たちも、刀の女も全部やっつけた。みんなこの右腕で触っただけで簡単に倒れてしまった。

 ――脆くて呆気なかった。

 ふらりふらりと、疲弊した足に鞭打って工業地帯を抜けてから、少し横に逸れて、ちょっとした雑木林に囲まれた坂道を歩いている。

 真っ直ぐ緩やかに続く道の先に、車のヘッドライトが見えた。

 溜息を着く事もせずに、だらりと垂れた前髪からそれを覗き、幽雅は近付いていった。

 突然乾いた音がしたかと思うと、右腕が一人でに動き出し、胸の前でガキンと音を立てた。顔を上げると、先程車のライトが見えた地点から、逆光で影になった一人の男のシルエットが近付いて来るのに気が付いた。

「お人形さんを、返して」

 幽雅は足を止め、その影を凝視した。

「あれは人形じゃない、お嬢さんと同じ人間じゃ」

 シルクハットを被った老人もまた歩みを止めた。

「でも、お父さんもお母さんもお人形さんの事をお人形って言ってたし……」

 局長が俯いて首を横に振った。その動きに連動した様に、辺りの木々たちが風で揺れる。

「いんや、人間じゃ。お嬢さんと寸分たがわぬ、可哀想な人間じゃ」

「……お人形さん、返して」

「あの子は保護しとる。お嬢さんもおとなしく観念しなさい」

「……だめ」

 ずさりと砂を巻き上げて、幽雅は一歩局長に近付く。

「行かなきゃいけない所があるの、もう少しなの……だから邪魔しないで、もう私、疲れたから」

「そこには何があるんじゃ? 何故そこを目指す?」

「あそこに着いたらね、私……」幽雅は言った。静かに、それがさも当たり前の事かの様に。

「また前みたいに幸せに暮らせるの。妹と、シスターと、お友達沢山と、昔みたいに幸せに暮らせるの。昔幸せに暮らしてた事を思い出したの。だから私はあそこに帰るの。そこにお人形さんも連れて行くの」

 垂れ落ちた前髪の隙間から見える疲弊した表情の中に、一筋の屈託の無い微笑みが射した。幽雅がなんの保証も無く、その未来を信じて疑っていない事が窺い知れる。

「不憫じゃ……」

 局長は胸ポケットから大型のナイフを取り出し、右手に持った。そして左手には既に持たれていた拳銃がある。

「ここから先は通せん。お嬢さんの右腕ももう制御が出来んくなっとるようじゃしの」

 すると幽雅は垂れ下がった前髪を傾げた。

「せいぎょ……ってどういう意味?」

「もうその右腕はお嬢さんの思い通りに動きはせんだろう?」

「え?」

 幽雅は自分の右腕に視線を落とす。自らの黒く変色した右腕が真っ直ぐ前、局長に向かって腕を伸ばし、物欲しそうに指をグニャグニャと動かしている事に今更気が付いた。

「あれ……? 本当だ、なんで? なんで……っ?」

「もうそれはお嬢さんの腕じゃない。目指す場所にある大切な人の事も傷付けてしまう」

「……うそ」

 目を丸くした幽雅は、苛立ちと共に徐々に徐々に頭を揺らし始め、遂には錯乱したかの様に長い髪を激しく乱し振り回し――ピタリと止まった。

「うそだ……っ!!」

 その声は闇の寒さに溶けゆき、一陣の風が幽雅の長い髪をかき上げ、表情を明らかにした。

「うそだあぁっ!!」

 激昂したその表情はすぐに隠れ、幽雅はその髪を激しく揺らしながら局長に近付いていった。

「実戦は久しぶりじゃの……」

 局長は左手の拳銃と右手のナイフを握り直した。

 幽雅と局長の距離が縮まっていく。その距離はあと僅かで幽雅の右腕の射程圏内となる程まで迫っている。

 局長は動じない。至って冷静でいて、表情も変えない。左手の銃口を幽雅に向け、右手のナイフを繰り出すべく後ろに引いた。

「……」

 先に繰り出したのは局長であった。右手に握り締めたナイフをただ真っ直ぐに幽雅に目掛け、突いた。

 しかしそれでは、弾丸の速度にすらも追い付くその黒い右腕で当然防がれる。どころか、ナイフを握り締めた拳ごと突き破り、局長を抉ってしまうだろう。

「い……ッ!」

 しかし、ガキンと言う、鉄を弾いた様な音がした後、体に触れていたのは、局長のナイフの方であった。何故だか幽雅の右腕は見当違いの、右半身の方に残っていた。その斬撃により、幽雅の左腕のコートの生地は切れ、そこから生白い人間の肌が覗いた。そこに赤い血と切り傷が出来ている。

「い、いたいっ!」

 すぐさま左腕付近、自分の右腕の射程圏内にまだ残っている局長の体を、幽雅の変色した右腕が襲う。

「むっ」

 しかしその迫り来る右腕を横目に見ながらに、局長は左手の拳銃を放った。必然的に、幽雅の右腕はその弾丸を防ぐべく攻撃を中断し、胸の辺りに迫って来た銃弾を防いだ。そして局長はその隙に幽雅の射程圏外へと後退した。

「同時攻撃では、よりダメージのデカい方を優先する。その右腕には学習能力でもあるのかもしれんな」

 局長は緊張感が無い様に、ナイフを持ったままの右手で危なっかしく後頭部をぽりぽりと掻きながら、顔に無数のシワを寄せる。

「つまり攻撃は当たる」

 局長は右手のナイフと左手の弾丸が同時に幽雅に襲い来る様に攻撃を放ったのだ。無論どちらかを防ぎ、どちらかを防ぎ切れないという事になる。しかし弾丸に追い付く程の右腕を翻弄するそれは、一瞬でもタイミングを違えばかなわない。局長の緻密なコントロールと度胸があってこそ成せる技であった。

「二十年前の怪人に比べれば、お嬢さんなんぞ可愛いものよ」

 両手に拳銃を携え無かったのは、大型のそのナイフこそが、長年愛用して来た信頼出来る武器であり、昔からの局長のスタイルであったからだ。

「血……血だ……っ、血が……血がいっぱい! 血がぁあああ!」

 幽雅はパニクった様に声を上げながら、瞳に涙を溜め、左腕を押さえてしゃがみ込んだ。

 ――しばらくして、ぐすん、ぐすんと伏せた頭が断続的に揺れ始めた。

「お嬢さん、そう泣かないでくれ……わしだって心が痛い」局長が慰める様に声を掛ける。

「い、いたい……いたい、熱い……熱い」

「熱いじゃろう? 人はの……切られると熱いんじゃ」

 局長はシルクハットの頭を摘み、足元に落とした。その露わになった額には、ばっくりと切り裂かれた大きな古傷があった。

「すぐに終わらせてやる」

 局長が幽雅に近付く。コツコツと靴を鳴らして、躊躇も無く幽雅の間合いへと入りいく。

 同じ要領でまずはナイフを繰り出し、同時に左手の拳銃を放つ。やはりガキンと言う弾丸を弾く音と共に、強制的に幽雅の右腕は右のわき腹辺りに移動した。

「うあっ……っ!」

 しかし咄嗟に身を縮めた為に、その攻撃は幽雅の頬を掠める形になった。

「っ」

 そして更に拳銃を放ち、間合いの外へと後退する。幽雅は未だに地面にへたり込んでしまったままだった。

「や、やめて……いたいよ、もうやだよ……いたいよ……」

 幽雅は切られた頬に手を当てて、ガタガタと震え出し、怯えた。その姿は、理不尽な暴力にただ耐える、子どものそれであった。

「……くっ」

 局長の顔が苦痛に歪む。悲哀な少女への同情の気持ちが良心を襲う。

 ――しかしそれでもやらなくてはならないのだ。

 長い年月で心に染みつけた、一本の芯がそう言っていた。

 幽雅は、「熱いよ……熱いよ」と言って蹲った。

「怨むんならわしを怨めば良い」

 局長は右手のナイフを強く握り直し、一歩近付いた。

「おっと……っ!」

 しかしそこで先に攻撃を放ったのは幽雅の方であった。なぎ払う様に横一線に右腕を振り切ったのを、局長は一瞬早く察知し、後ろに飛んでそれをかわした。

「……まぁそうじゃろうな」

 幽雅は立ち上がり、長く垂れた前髪の隙間から、痛烈に局長を睨め付けた。先程までの震えは止まり、異様に腰を曲げ前屈みになって、怨念の籠った様な瞳で局長を睨め付けるその有様は、最早別人の様でさえあった。

「…………」

「やがて精神も飲み込まれる……か」

 局長は首をポキリと一つ鳴らした。

「邪魔しないで……誰にも傷付けられない、優しい世界に行くの」

 ギョロリと開いて、瞬き一つ忘れた瞳が髪の隙間から一つ覗く。そして今、幽雅は一歩局長に歩み寄り始めた。

「どいてぇえっ!!」

 幽雅が吠え、局長に向けて一直線に走り始めた。局長は腰を落とす事もせずに直立したまま、幽雅が自分の目の前にまで来るのを、ただ冷めた瞳で待っていた。

 ――目にも留まらぬ速度の攻撃が、局長の左から襲い来る。

 しかし攻撃に入る一瞬前に局長は右に飛んで、幽雅の間合いの外にまで移動し、鼻先すれすれでそれを避けた。

 幽雅は空振りに終わった右腕をそのまま返すが、局長はそれも後ろに飛んでかわす。

 闇雲に放たれる連撃は、モーションの丸分かりな素人のそれである。それでも放たれる攻撃は尋常では無い速度で猛威を奮う。局長は後ろへ横へ飛び、その全てをいなしていた。

「うあぁあっ!!」

「速度が目にも止まらんでも、足の踏み込む位置とモーションで大概どこに来るか位見えるわ。関節の位置が変わる訳でもあるまいし、それでは当たらんよ」

 一つ大きく後ろに飛んで間合いを空けると、局長は武器を持った両腕を大きく広げて腰を落とす。

「ほら行くぞ」

 激しく迫り来る幽雅の右腕の間合いがこちらに触れる僅かに早く、局長は自ら前に踏み込んで間合いに入った。すると、予測していたタイミングとズレて、幽雅の右腕が一瞬の遅れを見せた。

「うぅっ! ……ああぁあっ!!」

 ガキンガキンと二発の弾丸が弾く音がしたかと思うと、局長は既に攻撃を終え、幽雅の間合いの外へと飛んでいた。

 幽雅の着ている白いコートの、最初の斬撃の時に裂いた左腕が更にばっくりと開き、かつてない程にべっとりと赤が滲んでいた。正確に同じ箇所に斬撃を入れたのだ。

「熱いぃ……っ! あ、熱いよおおぉおっ!!」

 切られた左腕を抑えて涙をこぼす幽雅。

 圧倒的なまでに幽雅を凌駕する局長は、右手に持ったナイフを振るい、血を払った。赤い血が、足元のアスファルトにべチャリと音を立てる。

「わざわざ脅威である黒い右腕を相手にする事は無い。悪いが左腕を落とすぞ。人間は突然片腕を失えば、平衡感覚を失い、倒れ、失血とショックで気絶する。……まぁ死なんようにはしたる。

 ――ただその代わり、目覚めた時には、その右腕も切り落としておく」

 局長は覚悟を決め、冷酷な漆黒の瞳で幽雅を射抜いた。

 物騒な事を言いつつも、和えて幽雅を人間と表現したのは、局長なりの優しさか。

「ああ、熱いぃいっ!! 熱いぃい……っ!! ああぁぁあああ!!!」

 しかし局長の言葉を幽雅は聞いていなかった。ただひたすらに切り裂かれた左腕を抑え、髪の隙間から怨嗟の瞳を覗かせて、熱い熱いと繰り返して転げ回っていた。

「……これで終わりじゃ。すまなかったなお嬢さん」

 睫毛を沈ませた局長は、右腕を大きく振りかぶり、再び幽雅の左腕に切り込まんと、風の如き速さで踏み込んだ。

 同時に――ガキンガキンガキン、と三つの音が轟いた。先程切り裂いた幽雅の左腕の傷口に繰り出した斬撃は、幽雅から切り離され、ぼとりと地面に落ちる――はずだった。

「な、に……っ?」

 局長が右手のナイフと同時に放つ銃弾、そして間合いの外へと出る為に放つ銃弾。しかしもう一つしっかりと轟いた――ガキンという鈍い音。その不可解な一つ多い音は、幽雅の先程まで生身であった()()が、局長の繰り出した渾身の斬撃を防いだ音だったという事を直ぐに理解した。新たに黒く変色した左腕は、掌で掴んだ局長のナイフを破壊し、そのまま凄まじい速度で局長に迫って来た。

 即座にバックステップをした局長だったが、それを超える速度で幽雅の左腕が迫り来ている。咄嗟にもう一発弾丸を放つが、それを防いだのは、同じく黒く変色した幽雅の右腕であった。

「……が……っ……あっ!」

 どさりとその場に崩れ落ちる局長。それを長く垂れた髪の隙間から見下ろす幽雅。

「ゲホッ……左腕も、変色じゃと……早過ぎる、何故こんな……に……がッ」

 幽雅は何も答えない。局長の言葉がまるで他人事であるかのように聞いてもいない。

 足元に転がる局長を見つめ、幽雅は右腕を振り上げた。

「――局長っ!!」

 前方から声がし、二発の銃弾が放たれた。ガキンガキンと、幽雅はその右腕と左腕でもって、難無くその銃弾を弾き飛ばした。

「日、寺……っ」

 局長が僅かに頭をそちらに向けると、両手に拳銃を携えた日寺がこちらに一人走って来るのが見えた。

「馬鹿者……来……るな……っ!」

 局長の見上げる、すぐ頭上にあるだらりと下げられた幽雅の変色した両の指が、グニャグニャと動き出して、日寺の来訪を悦んでいる様で不気味だった。


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