第24話 恐怖する少女
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繰り出された右腕は鷲巣の腹を少し掠めただけにとどまった。女が途中で攻撃を外したのだ。
女が攻撃を外したのには理由があった。鷲巣が身を翻してかわした訳では無い。むしろ直撃コースであり、もしそのままの食らっていたら、命は危うかっただろう。その証拠に、掠っただけだと言うのに、鷲巣の胸部からはだらだらと、大量の血が足元に流れ出ていた。
朦朧としていく意識の中で、鷲巣の耳元の無線に小鉢の声が届いた。
『鷲巣さん! 先のターゲットと交戦した女が逃走し、そちらにむかっています! 現場の混乱に乗じて後退してください!』
――オォォンン。
それは微かな地響きだった。まだ微かなその音に、女は過敏なまでに反応したのだ。
「……ひっ、……あ、」
女は攻撃の手を緩め、両耳を塞ぐように掌を当てた。付着した鷲巣の血液が耳に付くのも気にせずに。
――オオオォォォンン!!
その音は次第に大きさを増していく。
「これは、バイクか……?」
来栖もその音で、何者かがこの場に近付いて来るのを感じた。
「……や、やだ……あいつは痛いから、……いや……」
よく見ると、女の右腕を覆い隠すコートの一部が、何かで切られた様にばっくりと裂かれている事に気付いた。そこには赤い一本の筋となった血液が付着していた。
――切られた……のか? 銃弾でも、ものともしないあの右腕が?
女は緩々とそのまま後ろに振り向き、こちらに背を向けた。
途端に鷲巣は銃弾を放つが、まるでそれだけが別の生き物であるかのような動きで、背にまで伸びて来た右腕に遮られた。
女はまるで興味が無いかのように、鷲巣の方を振り向きもせず、無干渉だ。
――オオオオォォォォオオンン!!
音の正体のヘッドライトが来栖たちの所にまで届いた、かと思うとそのバイクは猛烈なスピードでこちらにまで辿り着き、耳を塞いで怯える女の前で停止した。
「ひっ……!」
女が身を竦めて狼狽えている。恐怖している様に見えた。
逆光で影になっている操縦者と思しき人間は、スタンドも下ろさないままバイクから降りた。必然、ヘッドライトを点けたままバイクは激しい音をたてて転倒する。
「待ーてよぉー」
来栖には、バイクのヘッドライトが逆光になってその正体が見え辛い。だが次第にバイクから降りて来た人間の姿が明確になって来た。
「……あの時に、ちゃんと殺しとくんだった……あの時にちゃんと――」
右腕の黒い女は耳に手をやり、聴覚を遮りながらぶつくさぶつくさと執拗に繰り返した。
バイクの女の胸の所には、吐血したらしい血液が見えた。それどころか、全身ボロボロで、あっけらかんとしたその態度がちぐはぐに感じた。
そして何よりも着目すべきは、女が肩に担いだその『物』――刀。それが女の異様な雰囲気を演出していた。
「なぁ、お前名前なんて言うんだよ」
バイクの女は、来栖にも鷲巣にも、はたまた右腕の黒い女がパニクっている事にも関せずに、不躾に、普段の会話の様なトーンで尋ねた。
「な、なまえ……? お名前……?」
「そうだよ、名前を聞いてんだよ」
そろそろと耳に当てた手を下ろしながら、上目使いでバイクの女を見つめ、おどおどとした様子で、微かに答えた。
「ゆ……幽雅……」
「幽雅か。さっきは油断した」
ニヤリと大胆に笑い、肩に担いだ物を下ろし、鞘を左手にして刀を抜き出した。その刀身が倒れたバイクのヘッドライトに照らされ、煌めいた。
「私は傘紅葉。もう一回だ」
幽雅は大きな瞳に目一杯の涙を溜めて懇願する様に、刀の女――傘紅葉を見つめた。
「やめて、もう……痛いことしないで」
紅葉はそれを受けて取ると、へらへらと笑いながら、左手に鞘、右手に刀と、二刀流のような構えで対峙して言った。
「やだ」
――先に仕掛けたのは紅葉だった。有無も言わさず走り寄り、左手の鞘で殴りかかった。
「つ……っ!」
必然、それは幽雅の右腕で受けられる。呆気なく折れ果てると思われたその鞘は、折れるどころか、鉄を打った様な鈍い音をたてて幽雅に重くのし掛かかる。
「ほらぁぁあっっ!!」
そのまま間髪いれずに右手の刀で幽雅の首元を狙う。しかし幽雅は、ぐるりと手首を返して受けた鞘を掴み、鞘を持ったまま強引に首元への斬撃を防いだ。
「らあっ!!」
紅葉は、受けられた刀を勢い良く手前に引いた。刀を受けていた右腕のコートは無惨にばっくりと開き、その切れ間からは僅かな切り口と新たな出血が見えた。
「いたいっ……!」
幽雅は堪らず一歩後退りした。
「ちっ、全然切れねぇな」
「……やめ、やめて」
そんな戦闘をしばし呆然と見ていた鷲巣が、ふらりと前のめりに倒れそうになった。
なんとか倒れ掛けた鷲巣の脇を支えたのは、いつしか後ろから駆け付けて来ていた早乙女であった。
「さ、早乙女……さん」
「一旦引くよ。……ほら、あんたもその子連れて来なさい!」
早乙女は鷲巣に肩を貸し、来栖は早乙女に言われるがままに捕らえた幼い少女の腕を取って、その場から逃げ出す様に後退した。
幼い少女は未だに一言の言葉も発せずに、されるがままに来栖に腕を引かれていった。