第23話 無様な空想はうち壊されて
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距離が空いてしまったが、相手は子ども、そう早くは無い。情け無い事に、始めての緊迫した状況に足がぎこちなくなり、上手く動いてくれないが、それでも少女との距離は縮まっている。
コンクリートと鉄骨、人通りの無い無骨な大橋の上を二つの人影が走る。
「とまれっ!」
「……っ……!」
来栖の呼び掛けに少女は一言も応じず、その長い髪を激しく揺らして一生懸命に来た道を引き返していく。
しかし、程無くして少女は足をもつれさせ、前のめりに転んだ。
「……っ……う」
小さく呻きながら、それでも必死に起き上がろうとしているその少女の背中に飛び乗り、小さな右腕を後ろにひねり上げた。
その右腕はまるで氷のように冷たく、そして細く、抵抗する力はあまりに弱かった。生白い肌は露わになり、そこには痛々しい無数の打撲跡が見えた。
「園山夫妻と警察官二名、計四名の殺害の容疑で逮捕する!」
そんな疑問を捨て置く程に、少女の拘束を達成した瞬間に、来栖の中に途轍もない喜びと達成感が、高波の如く一挙に押し寄せて来た。
――捕らえた、あの大事件の犯人を、俺は捕らえたのだ!
自分の挙げた巨大なホシと、事件の終結を歓喜し、警察組織の遠からぬ未来を妄想した。
これをきっかけに、腐り切った警察は一躍する。わけのわからない国家秘密組織など、もう必要の無い世の中に変えてやるのだ! いや、元の通りに戻すだけだ……!
とめど無く脳内物質が分泌される。大量のアドレナリンが、鉛の様に重かった来栖の体に翼を与えた様な心持ちだった。
――――なにしてるの……?
ふいに頭上から声がした。
女の声だ。足元からじゃない。
つまり今取り押さえている女の物では無い。勿論鷲巣のものとも声質が違い、早乙女の声とも違う。
そろそろと顔を上げた。
「私のお人形に、なにしてるの……?」
上質な純白のダッフルコートを着ている女を下から見上げていると、女のフードが風でめくれ上がった。
同時に、膝の下まで届く漆黒の黒髪が、パサリと来栖の顔の前にまで落ちて来た。
「どうして? どうしてみんな私たちをいじめるの……?」
――気付かなかった。
否、見えてはいたのかもしれない。しかし気付けなかった。完全に意識の外だった。始めての実践に、過剰にアドレナリンが分泌され、まるで夢の中にでもいる様な心地で、周囲の音すらも聞こえていなかった事を思い出した。
緩々と、来栖を見下ろしている女が右腕を挙げた。めくれた服の袖から黒い掌が見えた。
黒い掌は、来栖の額に緩々と近付いて来た。
――動け……動け!
黒い掌。目前の女がただ者では無く、危険な事は感じ取っている。園山夫婦と警察官二名を死に追いやったのはこいつだと直感が言っている。しかし体が動かない。ろうで固められた様に、ぼろきれを着た少女の上に乗ったままの形で、ただ静止しているだけだった。
――ガギン!!
耳を覆いたくなる様な、金属が強烈にこすれ合った様な音がしたかと思うと、女は来栖に近付けていた右腕を自らの胸の辺りにまで戻していた。
「伏せろっ!」
ガギンガギン! と続けざまに鉄と鉄をぶつけたような音がする。それが何の音なのかわからないのだが、物凄い音だった。その音に合わせて、女の右腕だけが、あり得ない速度でもってあちらへこちらへと移動していた。
「立てっ! そいつを連れてこっちまで来い!」
鷲巣の声だ。パニック状態から多少精神を立て直した来栖は、言われるがままに足元の少女を引き起こし、ずるずると後退した。
「なにこれ……、こ、怖い」
先程まで頭上にいた女が狼狽えている。肩を竦ませて、今にも泣き出しそうな声を漏らしていた。
「チッ……! やっぱりもう自律してるか!」
鷲巣は横で腰を抜かしている来栖の襟首を掴み、無理矢理に立ち上がらせた。
「だから素人は邪魔だっつったんだよ!」
状況の未だ飲み込めていない来栖に、鷲巣は続けて指示を出した。
「いいか? 俺がこいつの足止めをしとく、その間にお前はそれを連れて後退しろ」
パンッ、と鷲巣の手元から乾いた音がした。先程からの音の正体が、銃弾の放たれる音だったのだと、来栖はその時理解した。
「撃つなっ!」
咄嗟に叫んだ頃には、ガキンと凄まじい音と火花が散って、女の右腕が腹部の辺りに移動していた。
女に外傷は認められなかった。
「弾を、弾いているのか……っ?」
――どうなっている? この女は何者だ、何故掌が黒い、何故弾速に反応している?
「走れバカ! いつまで足止め出来るかわかんねぇ!」
そしてまた、サイレンサーを装着した拳銃は乾いた音を上げる。しかしまた同じように弾かれる。
「もう、やめて……お人形さんも、返して」
泣きそうな声を出しながら、女が一歩鷲巣に歩み寄る。鷲巣は更に弾を放つが、結果は同じだった。
「走れっ!」
しかし走り出したのは来栖では無く、その女の方だった。
「……っ!?」
急激に近付いて来る女に鷲巣は弾を乱射するが、その全てが生き物のように柔軟に動き回る右腕に弾かれた。
長い髪を翻しながら、女は鷲巣の元にまで走り寄り、右腕を振り下ろした。
鷲巣は寸での所で後ろに飛び退き、それをかわした。
「これなら……っ!」
鷲巣は、スムーズな動作で脇に差した鉄製の警棒を左手で取り出し、女の先の攻撃モーションが終わり切っていない隙をついて、左の横腹に向かって横一直に警棒を繰り出した。
「……あ、……がっ……!」
対人であれば、回避の不可能なタイミングで攻撃を放ったはずであった。しかし結果から言えば、女の右腕は人間の反射神経ではおよそ不可能なタイミング、動き方でその警棒を捕らえ、破壊し、そのまま鷲巣の脇腹を抉り取った。
ボタボタと鷲巣の脇腹から足にかけ、真っ赤な血が垂れ、落ちた。
「鷲巣っ!」
あまりに突然にかけ離れていく現実に、衝撃に、来栖の膝はガクガクと痙攣し始める。
やはり来栖は、どこか甘く考えていたのかもしれない。
命のやり取りなどありはしない。ドラマのような修羅場などありはしない。傷付けられる事も無く、傷付ける事も無く、ただ後ろから捕らえて素っ気なく終わる。
――事件の解決をそんな風に考えていたのかもしれない。
しかしそれは、猟奇的事件に携わった事の無い来栖には、実動経験の無い来栖には、危機感の無い世界で育ってきた来栖には、仕方の無い事だった。いくら口先で否定しようとも、来栖もこの嘘だらけの世界に染まりきっていたのだ。
――そう言う事だ。
目前に死が立ち構えた時に、何も出来ないでいるのがその証拠だ。
「うっ……はや、く……!」
――それ故に。
重症を負い、血を流しながらも、膝も着かずに今一度拳銃を構え直した鷲巣の覚悟と、来栖の想像上の覚悟には雲泥の差があると言えた。
女は右腕を横に広げて、再度鷲巣に走り寄って来た。
満身創痍の鷲巣の手元で放たれた、乾いた音が大橋に反響し、それが弾かれるガキンという音もまた、同じように反響した。
「は……走れ、ばか……っ」
その長い漆黒の髪を振り乱し、近付いて来る女の右腕が、鷲巣を射程範囲に捕らえた。