第13話 確かに迫る刑事の足
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来栖の左手首で銀色に輝いている腕時計は、午後五時を指し示した所だ。
先日、容疑者を取り逃がした地点からまた聞き込みを開始したのだが、あまりの人数の中、手間取って思わぬ時間を食い、終いには聞き込みすらも困難な時間帯になってしまった為に、止む無く出直す事にした。
今はようやく容疑者の予測される次の進行ルートをかなり絞り込んだ上で割り出し、西K郡N町に位置する、古びた商店街のアーケードの前に辿り着いた所であった。
この辺りは近年目覚ましい発展を見せ、ひと昔前まで荒地や田畑ばかりであったのが信じられないといった程に賑わいを見せている、賑やかで煌びやかな店が立ち並ぶこの様子は、世間からA1県の第二の都市と言われる程だ。
しかし、そんな煌びやかな地域とは対象的に、この商店街からはどこか閑散とした印象を受けた。顧客のほとんどは近くのデパートモールに取られてしまったようで、まだ夕方の五時だというのに、シャッターが降りている店がちらほらと見える。
――容疑者はこの商店街の下を歩いた可能性が高い。
閑散とした商店街の中、一様に熱気を張り上げる店が一軒。『肉屋の遠藤』と大きな看板を掲げ、ジュージューと揚がるコロッケの香りを商店街に漂わせていた。客の入りもなかなか良い様で、この商店街の命の綱とも見えた。
来栖は客の出入りが落ち着くのを待ってから、コツコツと靴をならせて近付いていった。
「はい、いらっしゃーい」
少し丸々とした感じのおばさんの飛び切り元気の良い、人の良さがにじみ出る笑顔が向けられた。すると来栖は「コロッケを一つ」と買う予定も無かったコロッケを一つ、注文してしまった。
おばさんは、「コロッケを一つね、ちょっと待っててね」と言って奥に引っ込むと、片手にコロッケを持って直ぐに出て来た。
「はい、お兄ちゃん70円」
熱々の出来たてのコロッケを受け取ってから、茶色い折り畳み財布を取り出して、百円をおばさんに手渡した。
「はい、ありがとう」おばさんは既に左手に用意していたらしい三十円を来栖に手渡した。
ジーと来栖が手元のコロッケを囓るのが先か、聞き込みをするのが先かを考えていると「食べていいよ」と頭先から声がした。
来栖はなんだか子ども扱いされている様で少し恥ずかしくなったが、勧められた通りに手元で湯気を上げているコロッケに噛り付く事にした。
「……おいしい」
口に入れた途端に溢れ出した熱々の肉汁に、少しのたうった。肉屋のコロッケだというのでやはりメンチカツなのだが、来栖が今まで食べたメンチカツのどれよりも肉肉しく、それでいてポロポロと口の中で零れ落ちるように柔らかく、そして溢れんばかりの熱々の肉汁が口内に押し寄せて来て、思わず舌鼓を打った。
おばさんは来栖から受け取った百円をレジに入れながら、和やかに来栖を眺めていた。
「こんなにおいしいコロッケ、始めて食べた」
来栖はおべっかでは無く、思った事をそのまま口にした。
「あらあら、昨日もそんな事言ってくれたお嬢さんがいたわ、ありがとね」と言っておばさんは頬の肉をせり上がらせた。
「……所で、一つ聞きたい事があって今日ここを伺ったのですが」
コロッケを平らげた来栖は、いよいよ本題を切り出す。
「なにかしら?」
真剣な表情の来栖とは対象的に、目前に未だニコニコとした顔があるので調子が崩れる。
「髪の異様に黒く、長い髪の人を見ませんでしたか?」
来栖がそう問うと、おばさんの瞳が少し大きくなった。
「あら、さっき話してたうちの店のコロッケを美味しいって言ってくれた子の事だと思うけど。とっても綺麗な黒髪に白い肌と大きな瞳で、まるで日本人形のような子だったわ」
「えっ、それじゃあ……昨日その子はこの店に!?」
来栖の表情に緊張が走った、流石におばさんも来栖の真剣な眼差しに気付いたようで、居住まいを正して真剣な顔付きになった。
「え、ええ。とてもお腹を空かしていたようだったから、コロッケを一つずつあげました」
「どこに向かうのか言っていましたか!?」
「えっ、……そんな話しもしましたけど、確か……太陽の唄って所に行くって」
「太陽の唄」
来栖はその言葉を反復して、犯人に大幅に近付く重大な証拠を手にした事を噛み締めた。
「あの……お兄さん、失礼ですけど、何者なのかしら?」
「あっ、遅れて申し訳ありません。私はこういう者です」
来栖が懐から出した警察手帳を食い入るような眼差しで見つめたおばさんは、いよいよギョッとして顔をしかめた。
「とてもそんな風に見えなかったんだけど……あの子、何かしてしまったんですか?」
そう尋ねるおばさんに「それは答えられません」と来栖は瞳を下げて詫びた。
「気になるわねぇ……無事だといいけれど大丈夫かしら」
狼狽するおばさんを他所に、来栖は今こうして話している時間すらも惜しくなって来て、早くその太陽の唄という所を調べ、すっ飛んでいきたいような気持ちになっていた。
「それで、その子はいつこのお店に?」
「ええーと……昨日の夜八時頃かしら?」
来栖は左腕に巻かれた銀の腕時計に視線を落とす。
「八時ですか。その子は歩いていましたか?」
「ええ……歩いてましたよ、随分疲れているようで、少し足を引きずってましたけど……」
「それならここからまだ遠くへは行っていないな……わかりました、ご協力感謝します」
来栖は置いていく様にそう言い残して、軽く頭を下げると、人数の少ないアーケードの下を走っていってしまった。
「あっ、あの……気になる事が……っ」
そう呼び止めるおばさんの声は、風を切って駆ける来栖に届くはずが無かった。