第11話 世界で一番美味しい食べ物屋
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なんだか賑やかで、夢の様に良い匂いのする場所で沢山の人とすれ違った。皆が興味深そうに幽雅とお人形さんの事をじろじろと見るので、幽雅はその都度、フードを深く被り直して頭を俯けた。
そこを抜けてからもしばらく歩き続け、ようやっとほとんど人がいない地域に出て、今はホッとしている所だ。疲れ切った上に靴ズレを起こした自らの足にムチを打ち、閑静な商店街の古びたアーケードの下を歩いていた。
ぐぅ〜とお腹が鳴った。家でもいつもお腹は減っていたが、今はその比じゃない程に空腹だった。
「やっぱり……パンを食べてから来るんだった」
幽雅が言っているパンとは、一つ幾らとしないコッペパンの事である。幽雅はあの家に引き取られてから、たまに貰える僅かな残飯と、コッペパンしか食べた事がなかった。
「……わぁ」
お腹を空かせてとぼとぼと歩いていた所、空腹を刺激する香りが漂って来た。その匂いにつられてそちらの方を見ると、もう少し歩いていった所に『肉屋の遠藤』と、ギラギラと電飾された看板が見えた。開けっぴろげにされた店内の陳列棚には、所狭しと豚肉や牛肉や鶏肉がのピンクの肉が各部位毎に陳列してある。
肉屋の遠藤という看板が何て読むのかも幽雅にはわからなかったが、思わず小走りで近付いていくと、この香ばしい香りの正体はコロッケであった様で、陳列棚の奥に、こちらに背を向ける格好でジュージューと揚げ物をしているおばさんの姿が見えた。
「……っ」
思わず口から涎が垂れて、それをグイと拭った。しかし涎は止まらない。今日までろくな物を食べて来なかった幽雅に、目前でジュージューと音を立て、香ばしい香りを放っているコロッケに目を光らせるな、という方が酷であった。
すっかりと足を止め、口に指を当てながら店内を見ていると、視線に気が付いたか、おばさんが振り返った。
ハッとして視線を落とした。しかし店内を覗いている少女に気が付いたおばさんは、ニコリとして微笑んだ後、コロッケを揚げるのを中断して、こちらに近付いて来た。
咄嗟にその場を離れようと背を向けた時、幽雅のお腹がまたぐぅ〜と正直な声を出した。それを聞いたおばさんは、「あはは」と声に出して微笑すると「ちょっと待ってて」と店内に引き返していった。
幽雅は色々と考えたが、さっきのおばさんの微笑む顔が、母が自分を殴る時に向ける微笑とは違い、記憶の片隅で微かに思い起こされた、かつてシスターが自分に向けてくれていた微笑みと似ている事に気が付いて、思わず言われるがままにそこに立ち尽くしていた。
「はいっ」と言われて思わず振り向くと、ほかほかに揚がった出来たてのコロッケが二つ、別々の包みに入れて差し出されていた。
しばらくそのコロッケを凝視しながら考えていたが、途中でこの香ばしい香りと空腹に負けて、無意識に手が伸びていた。
「…………」
包みにくるまれたコロッケを持ったまま、じーっとおばさんを見つめていると、そのおばさんは合点がいった様な表情をして「食べていいよ」と言って頬にえくぼを作った。
幽雅は夢中になって手渡されたコロッケを頬張った。口いっぱいに広がる肉の味、噛む程に染み出してくる肉汁。熱くて熱くて堪らなかったが、それでも冷ます事もせずに熱々のコロッケに一心不乱にかぶり付いた。
「あら、火傷しちゃうわよ?」
おばさんは心配そうに幽雅の顔を覗き込んだ。
「…………と」
「え?」
「……あ、りがと」
幽雅が途切れ途切れに紡いだ感謝の言葉を聞き取って、おばさんは自分の娘でも見ているかの様な温かい気持ちになった。
「おいしかった?」
「……う、うん。こんなに美味しいもの、始めて、食べた……」
「そう? 嬉しいわぁ」とおばさんは自分のコロッケが他の店より美味しいんだと言われたと勘違いして、頬に手を当てて嬉しそうな表情を作った。
「……それにしても、凄く綺麗な髪の毛ねぇ。日本人形みたいでとっても綺麗だわぁ。お顔もお人形みたいに目が大きくて白いし……」
主婦の習性かは知らないが、先程褒められたおばさんが、今度は幽雅を見ながら、そのフードの下から垣間見える漆黒の頭髪を褒めた。これまでずっと蔑まれて来た幽雅は、褒められた事にどうしたら良いかわからず、「えへへ」とただはにかむだけだった。
「もう……行かなくちゃ」
幽雅がモジモジしながらそう言うと、おばさんは「あら、今日は何処にお出掛けするの?」と問いかけた。
「どこって……場所のこと……?」
問い返す幽雅におばさんは意外そうな顔をして「そうよ? 目的地があるんでしょう?」と胸の前で手を組み、幽雅の顔を凝視した。
「……うん、ある、よ? ……名前はねぇ、ええと……」
下を向いて考え込んでしまった幽雅を見兼ねて「あら、良いのよ忘れちゃったなら。じゃ、気をつけていってらっしゃいね」と言って手を振った。
その手を見ながら、幽雅も嬉しそうに手を振り返すと、その場を後にした。
しかし二•三歩歩いた所でピタリと立ち止まり、まだそこで手を振っているおばさんの方に振り返った。
「……思い出した! 『太陽の唄』に行くの!」
そう言って嬉しそうな顔で振り返った幽雅を、おばさんも同じ様に嬉しそうな表情で「気をつけるんだよ!」と言って見送った。
少し離れてから幽雅は胸を撫で下ろした。
あぁ良かった、あのおばさんが良い人で、殴られなくて良かった。……それにしても、おばさんのくれたあのコロッケの美味しかった事。あんなに美味しい物はこれまで食べた事が無かった。
一つ何百円と言うコロッケが、幽雅にとっては天地をひっくり返した程に美味しく感じられた。
コツコツとブーツを鳴らして、長い長いアーケードを抜けると、視界いっぱいに美しい夕暮れが映り込んだ。
まだ向こうの方はぼんやりと青色で、所々に白い雲が漂っている。無数に並ぶ電信柱、茜色に渡る電線の上に、カラスが止まってカァカァと鳴いていた。子供たちが目の前の十字路を笑いながら走り去っていく。ブロック塀の上にトラ柄の猫が座って、幽雅を見下ろしていた。所狭しと並んだ家の窓が、空を反射して茜色に光っている。
夕映えする黄昏の光景が、何とも言え無いノスタルジックな感覚を呼び、心を打った。
――コロッケも食べたし、まだもうちょっと歩けそうだ。
気持ちの良い風が幽雅に飛び掛って来て、深く被ったフードを捲り上げた。パタリと落ちたフードの代わりに、膝下まで届く、闇の底の様に黒い髪の毛が垂れた。
その髪を隠す様にして、再度フードを深く被り直した。