第1話 「あれがオリオン座」
凍てつく様な十一月の寒風が、白い少女の生白い頬を朱く染め上げた。
黒いコートの襟を立てて寒さに耐えながら、夜の工業地帯を歩く。
夜は好きだ。太陽が出ていないし人も少ない。
暗闇が好きだ。この闇に紛れて誰にも見つからずに生きていたい。
外はとても寒い。だけどそれも嫌いじゃない。冷たい風が頬にあたって、感覚を麻痺させるのが別段苦痛でも無く、むしろ好きだ。
「あれがオリオン座」
空を見上げると、星が綺麗に散らばっていた。四角く位置した星達を見上げ、咄嗟に星座の名が口から出た。
なんで知っているのだろう……。
――あぁ、そうだ、昔絵本に書いてあった星を、夜空を見上げて姉と一緒に照らし合わせた事があった……。
静かな、静かな夜道を、天使の様な白い少女は、星に照らされて歩いた。
「…………」
静まり返る、静寂と闇が支配する世界。人っこ一人いない。街灯もまばらで、闇に独占されている。
この深い闇が自分の存在までも侵食し、光から隠してくれる様で、少し愉快になった。
「オリオン座……」またそう囁く様に呟いて、空に指をなぞる。
少女はこうして時折、ひと気の無い時間に、ひと気の無い場所を選んで夜道をひた歩く事があった。
ひとときの現実からの逃避、それが幸福であり、生きる糧だった。それ位に、日常の何もかもに締め付けられて生きていた。
夜風が吹いて、顔に白い髪が纏わりつくのを手で抑え、白い息を吐く。
「ん?」
飴玉を貰った子どもの様な笑顔が、途端に苦虫を噛み潰した様な表情へと変貌した。
工場に囲まれたアスファルトの一本道、点々と広い間隔を開けて点灯している街灯の、少女から見て四本目、およそ百メートル先の街灯に人影を見たからだ。
少女は目が悪かった。それでもそこに、静まり返ったこの闇に、一人ポツンと照らされる、赤い服を着た人影が浮かび上がっている事はわかった。
その人影はピクリとも動かずに、こちらを向いたまま、一人某然と佇んでいる様だった。
――その人影は少女を見ていた。
それがわかったのは、人影を認めて踵を返した少女を見て、時が止まった様に静止していたその人影もまた、歩を進めたからだった。
コツコツとブーツを鳴らせて引き返す。
それでも少女は、最悪の事態などは微塵も考えてはいなかった。
それは何故かと問われても、きっと少女は小首をかしげるだろう。その様な危機感の無い思考は、今のご時世、彼女に限った話しでは無いのだから。
単純に、人が居た事にうんざりした心持ちで、一度振り返った。そこに人影は見えなくなっていた。
ほっと一息つこうとすると、三本目の街灯に、赤い服の人影が照らされ、現れた。
追って来ている。とその時になってようやく、少女に僅かな危機感が芽生えた。
コツコツとブーツの音が早くなる。その音は無機質な工場に溶けて無くなっていった。
しばらく歩いて、再度振り返ってみると、闇の中、二番目の街灯に照らし出された男の姿が見えた。妖しい笑みを浮かべていた。
徐々に距離を詰められている。もう三十メートルも無い位だろうか?
――その時、背後からカスンと乾いた音がした。何かと思って振り返って確かめるよりも先に、男の凄まじい叫び声が耳を突いた。
少女が振り返ると、目前に先程まで忍び寄って来ていた男とは別の、見覚えの無い男が、背中越しにその髭面だけをこちらに振り向けていた。手元にはエアーガンを持っている様だ。それが先程の乾いた音の正体らしかった。
「もう大丈夫だ、君、走れるかい?」
突然の事態の突然の質問に、少女は咄嗟に首を縦に振った。そうしてそのまま顔を上げず、視線を避ける様におずおずと俯く様にした。
「じゃあ行ってくれ、このまま真っ直ぐ、全力でな」
髭面の男はそういうと、正面を見直して手元のエアーガンを両手で構え、眼前の闇の中に赤い服の男を探った。
「ん……」
髭面の男は、自分が先程の男をすっかり見失ってしまった事に気が付いた。途端に緊張した表情に変わり、耳に取り付けたハンズフリーのイヤホンに話し掛けた。
「小鉢、すまねぇ見失――――」
『――――二時の方角から来てますッ!!』
意表を突かれた髭面の男は、咄嗟にエアーガンを闇に向け、標準もへったくれも無いまま放った。
先程と同じカスンという乾いた音とほぼ同時に、凄まじい速度で闇から赤い服の男が光へ這い出して来て、髭面の男に力任せの前蹴りを喰らわせた。
少女は走り去りながら、唐突に足元まで吹っ飛んできた髭面の男にビクリとして立ち止まった。髭面の男は虚空を眺めたまま、うんともすんとも言わなくなっている。
「……っ」
先、髭面の男が蹴られたのであろう腹が、べコリと不自然に凹み、黒々とした血が溢れ出しているのを見て、少女は瞳を戦慄かせた。
振り返ると、すぐ目前の一本目の街灯の下に、赤い服を着た男が立っていた。髪は逆立ちボサボサで、ベッタリと浴びた顔の返り血を拭おうともしない。正気ではない視線はおぼつかず、揺れていた。
男が一歩少女に向かって歩み寄って来た。左腕を負傷しているのか、そちらの肩をだらんと下げたまま痛みに呻いている。
男は誰にとも無く咆哮し、凄まじい勢いで少女に組みかかった。
少女の流麗な白髪が、夜の黒いキャンバスに躍った。
男の咆哮は、辺りの無骨な鉄の集合体に吸収され、反響する事無くかき消えた。