第6話
昼食のための休憩を挟みつつも、馬車は予定通りに目的地に到着した。周辺は保養地と知られていて、別荘らしき素敵な外観の綺麗な建物がたくさん集まっている。その中では最も大きなお屋敷の前に、二人は降り立った。
他の訪問客はいないようで、敷地内は静かだ。レヴァンスの馬車を操っていた御者が取次ぎをお願いしに行っている間に、簡単な打ち合わせをしながら景色を眺めて待った。
「ようこそいらっしゃいました。大奥様がお待ちですので、こちらへどうぞ」
そこへやって来た若い執事が、柔らかな物腰で応対してくれて、二人は本邸を通り過ぎた先へと案内された。しばらく歩くと、裏手に小さな別邸らしき建物が見えてきた。
「……大奥様のお加減はいがかですか?」
「お元気でいらっしゃいますよ。今年は暖かくなるのが早くて、過ごしやすかったのが大きいのでしょうね」
コーディからの質問に丁寧に応じながら、彼は扉をノックした。レヴァンスのご令嬢とご友人の方がお見えです、と中へ声を掛ける。
別邸は蔦に覆われているが、決して廃墟のように荒廃しているわけではない。古い建物だが、屋根も壁も綺麗に保たれている。入り口に並んだ幾つもの鉢植えは手入れが行き届き、季節の花が咲いていた。まるで、絵本の中の小さな隠れ家の佇まいである。
親切で不思議な魔法使いが、訪れる者のためにこっそりと存在しているかのようだ。コーディとロランが若い使用人の後ろに続いて中へ入ると、年季の入った外観とは違って、内装は比較的新しい。
通された部屋のベッドの脇に腰かけているのが、コーディの会いたがっていたナタリー奥様だろう。ゆったりとしたドレスを着て座っているのであまり患者、という感じはしない。ちゃんと化粧もして、血色も悪くは無さそうだった。眼鏡を掛けていて、小さな綺麗な石が連なった紐で首にかけられている。彼女の銀色の髪は、年齢を重ねた品の良さを感じさせた。
「おや、コーディ。よく来たね。私の事なんて、すっかり忘れたかと思っていたけど」
「それがですね、ナタリー様。私が思っていたより、聖女ユニス様役の準備はたくさんあるんです。なかなか時間が取れなくてごめんなさい」
いきなり、どことなく棘のある発言だが、横の女の子は特に気にした様子のない笑みで応じている。持って来た鞄から手帳とペンを取りだしながら、以前よりお元気そうですね、とにこやかにやり取りを始めた。
診察はものの五分ほどで終了である。さっき脈拍数百二十という異常値を記録してしまったロランとは違い、老婦人は八十という正常値だ。彼女は数値を手元に書き込んでいる小さな子供に対し、どこか面白がっているような、興味深そうな視線を眼鏡の奥から送っている。
昨日の晩御飯は何を食べたとか、最近変わった事は、何時に寝ているか、よく眠れているか、など。コーディは世間話を交えながら、相手の話に相槌を打ったり笑ったり喜んだりしながら、話を途切れさせる事はない。家に帰ったら父親で医務官でもあるレヴァンス先生に、詳細に報告するのだろう。
一通りのやり取りを終えると、ナタリー奥様は後ろで様子を見学しているロランに視線を移した。
「……ジョシュは見ない間に随分印象が変わったじゃないか」
「ジョシュじゃありませんよ。こちらが手紙に書いておいた、今年の剣士様役。今日は無理を言って来てもらったんです」
「ロラン・セクターです」
へえ、と言わんばかりの表情を浮かべた老婦人はしばらく、眼鏡のレンズ越しにロランの事を観察した。決して険のある目つきではないが、静かに眼差しを向けられれば、自然と背筋を伸ばして対応しなければならないような、そんな気持ちになる。
「こんな天気の良い、男の子達が外で遊ぶのに最高の日に、わざわざ連れて来なくても」
「彼女がどんな事をするのか興味があって来ました。僕はただの付き添いですので、どうかお構いなく」
ロランは馬車を降りてから、頭の中で何回も練習しておいた台詞を、どうにか滑らかに口にできた。
「それで、祭事の事を教えてくれるんでしたよね」
「思ったよりも熱心じゃないか、コーディ。まあ、良い事ではあるね」
天気が良いから外へ行こう、と彼女は杖を頼りながら立ち上がった。公爵家ご自慢のお庭だよ、とゆっくり歩き出した。コーディに目線で促されたので、ロランも了解の意を示すために頷く。建物の外へ出た時、二人は奥様の両脇にぴったりとくっついた。先ほどの若い使用人はいなくなっており、代わりに庭師らしき恰好の壮年の男性が、こちらに軽く会釈を寄越しながら、少し後ろをついてくる。
「……それで、ユニス様役の衣装の形が、ちょっと変わっていまして。名前は忘れてしまいましたが」
「カシュクールだろう。しっかりおし」
「……ああ、そうだった。何回聞いても忘れてしまう」
二人が女性らしく、衣装の話をしている横を、ロランはあちこちの景色の眺めながら追った。何しろ足取りはゆっくりなので、自慢の庭を眺めるのには最適だ。
少し歩くと庭園の中に小さな川が流れていて、せせらぎの音が庭園い静かに響いている。水の中では、まだ孵ったばかりらしい小さな魚が泳いでいた。彼らの影が透明な水の底に影を作って、静かに揺れている。
「何を隠そうこの私が、その昔に聖女様の役をやったのさ。当時は公爵家の血筋の者が、都合の良い相手を指名するやり方だったんだが。……なんだか懐かしくなって来た」
老婦人はすぐ横のコーディと言葉を交わしながら、しかしその目はどこか遠くを見ているようにも感じられた。何か、昔の記憶を思い出して懐かしんでいるのだろう。
「別に、役割自体はそう難しい事をさせられるわけじゃない。神殿の、……大祭司様だったか、そのありがたいお話を聞いて、後は屋根のない馬車に乗って街をゆっくり練り歩いておしまいだよ。花を沿道にばら撒き続けるのはまあ、少々骨が折れるかもしれないが」
ロランが二人の話を聞きながら、庭園のあちこちに走らせていた。木の高さや陽光の当たり方が計算されているらしく、どこを切り取っても見事な光景である。そこへ老婦人が自慢気に、悪くない場所だろう、と話し掛けてきた。
「はい、とても綺麗な場所ですね。絵画の中みたいです」
「他に自慢するところもない、つまらない家になったものだよ。庭師に高い給金を払って、恥ずかしくない出来栄えにしてもらっているのさ」
老婦人の説明に一番最初に反応したのは二人の子供ではなく、黙って後ろに控えている男性だった。くつくつと押し殺した笑い声に、老婦人は振り返ってふん、と息をついた。
「おじさんは庭師なんですか?」
「コーディ。使用人なんかに余計な事は言わなくていい」
それは失礼しました、とコーディは笑いながら引き下がった。後ろの男性使用人も、微かに笑みを浮かべただけで、元通りの真面目な表情に戻る。
「それで、コーディのお守役はどこの家の子供だ? 父親は何をしている人なんだい?」
「ロランのお父上殿は軍人さんですよ」
ね、とこちらを振り返ったコーディに、ロランは小さく頷いて見せた。老婦人はしばらく考え込んだ後で、あのセクターか、老婦人は合点がいったらしい。いつも騎馬隊の先頭にいるはずだ、と聞かれたのでロランは頷いた。
「私の息子が、頼りになるって自慢していた男だね。あの生真面目な彼の息子なんて、お転婆コーディにはぴったりじゃないか。しっかり手綱を握ってもらうんだよ」
「お転婆なんて言葉を使うと、なんだかすごくかわいい女の子って感じがしますね」
老婦人はそれでいいのか、とばかりに大仰にため息をついた。話を振られたロランはどう答えたものかと困りつつも、精一杯務めさせて頂きます、と返答した。
「良い子じゃないか。こういう子が一番だよ」
「ええ、兄のジョシュとも、たまに訓練で一緒になるけど真面目で一生懸命で、他の子供が全然勝てないって、いつも悔しそうです」
そんな会話を続けているのが聞こえた。ロランは次々飛び出す褒め言葉を前に居心地が悪くなって、周囲の風景に集中しようと試みた。コーディの話しぶりでは、単純に他の子供と馴染めていないだけだとは、ばれていないらしい。
三人は庭園の中心部に近付いているらしく、花が増えてきた。ロランは草花の名前にはあまり詳しくはない。しかし、赤や黄色、橙に青に桃色、と知っている大抵の色は見つける事ができた。この時期に特に力が入れられているのはやはり、色とりどりの薔薇と、白と紫のライラックが目についた。
「……私も昔はあちこち走り回るお転婆だった事を思い出したよ。風を、私が作っているんだ、という懐かしい感覚」
奥の休憩場所までたどり着いて、三人は並んで座った。老婦人はさすがにふうふうと息を上げていたが、どこか楽し気でもある。ロランは、広い庭園の中を、自分達の同い年位の少女が走って行く様子を想像してみた。きっと、後ろを必死に乳母や侍女達が追いかけて行ったに違いない。
「……どうして忘れていたんですか?」
「そんなの、この家に嫁いでやって来た当主夫人が走り回っていたら、おかしいに決まっているじゃないか」
老人扱いすると機嫌を悪くする、という前評判はどこへやら、老婦人は庭園の奥で饒舌だった。コーディの話に相槌を打ち、若い頃の話をしては、笑い声が響く。気兼ねする相手がいないせいだろう、一般的な女性が扇子の奥で抑えているような、静かな笑い方とは違った。
「……結局、最後まで付き合ってもらってごめんね、ありがとう」
「……景色が綺麗な場所は好きだよ。絵描きの人がわざわざ、見せて欲しいって頼みに来る気持ちはわかる」
老婦人の帰りは男性使用人を複数呼んで運んでもらうらしい。今日はもういいよ、ご苦労様、また気が向いたら遊びにおいで。との事で二人は庭園の来た道をゆっくりと戻った。辺りには夕方の、少し赤みを帯びた光が入り込んでいる。
移動時間の事も考えると、そろそろ帰途につかなければ、遅くなってしまうだろう。
「それにコーディが何をするつもりだったのか、興味があったから」
「……うーん。何か特別な治療をしに行ったわけじゃないから、期待外れだったでしょう?」
そうじゃなくて、とロランが言いそびれたのは、屋敷の方向から人がやって来るのが見えたためだ。複数の侍女を従えた気品のある女性は、二人を見つけて感じの良い笑みを浮かべた。彼女の事はロランも知っているので、二人は慌てて姿勢を正す。
「あら、今日はご兄妹じゃなかったのね。挨拶が遅れてごめんなさい。お庭はいかがだったかしら?」
やって来た公爵夫人は、傍に控えていた年若い侍女に、お二人にお菓子を包んであげてちょうだいな、と言付けている。
「こちらこそ、一足先に庭園を見せて頂いて。彼と一緒に、一緒に祭事に参加するんです」
「そうよね、それで訪ねてくれたのね。お義母様が、今年の冬はいつもより元気で過ごしてくれて、子供の私達も感謝しているわ。コーディ、貴女が初めてここに遊びに来てくれた時より、若く見えるでしょう? 主治医がレヴァンス先生に代わる前は、なかなか大変だったのよ」
あの老婦人が、前より肉や魚を勧められて食べるようになったとか、何年かぶりに新しい服を新調したとか、昔の友達と連絡を取り始めたとか。本人の口からは語られなかった、そういう話をしてくれた。
「……あの隠れ家みたいな別邸も素敵だったでしょう? それこそ大昔の絵本を引っ張り出してきて『こういう建物にしたい』って、頼まれた庭師達は困惑していたの」
ちょっと小さい子みたいよね、と女性は愉快そうに笑っている。コーディに、新しい友人のおかげよ、と感謝の言葉を添えた。
言われた側は戸惑っているらしく、コーディにしては珍しく、目を泳がせたり、何か口にしようとして途中であきらめるように言葉を飲みこんだりしてから、小さな声で問いかけた。
「……私は、何かしてあげられたのでしょうか」
やや自信のない問いかけを前に、公爵夫人はわざわざコーディに目線を合わせて、侍女が持って来たお菓子を手ずから渡した。もちろんよ、と彼女が選んだ短い肯定は、色々な言葉を尽くすよりずっと、たくさんの感謝の言葉が詰め込まれていたように感じられた。
帰り道のコーディは、往路とは打って変わって静かだった。それは別に、ロランと話題がなくて気まずい、という理由ではない。受け取ったお土産のお菓子の袋のリボンをずっといじっていた。
対して、お腹の空いたロランの方は早々に袋を開けてみた。中身は紅茶の香りの焼き菓子である。口に入れて、上品な香りを一足先に楽しんだ。
「……あげる」
「あ、ありがとう」
コーディは私は自分の分がある、と最初は遠慮した。しかし、美味しいからとロランが進めると、おずおずとお菓子の小さな袋の中に指先を伸ばした。
「今、コーディの脈拍を調べたら、百二十を出せるかもね」
「……そんな事ないって」
しかしコーディは指先で、ささっと素早くクッキーを摘んで口に運んでいた。実際に数えられたら困る、とでも言いたそうな、わざとらしいくらいに取り澄ました表情だった。




