第5話
「こんにちは、今日はよろしくお願いします」
予定の時間きっかりにセクター家を訪ねてやって来たコーデリア・レヴァンスことコーディは、今日は女の子の格好をしている。髪を水色のリボンで耳の下のあたりで結んで、お淑やかなお嬢さんに見えた。玄関先で待っていたロランには彼女がどちらの格好をするのか、法則性はいまいちわからなかった。曜日で違うのかもしれない、等と考えているうちに、妹を抱いて現れたロランの母親が、コーディに話し掛けている。
「この子がロラン君の妹さんですか。……すごく可愛い」
妹のシャーロットは母の手から、目を輝かせているコーディへと移動した。ロランは赤ん坊がこの家に誕生した時に、父と一緒に抱っこの仕方などを色々と勉強したのだが、コーディは手慣れた様子である。妹は見知らぬ相手に抱き抱えられ、きょとんとした表情で彼女を見つめて、何度か瞬きをしつつ大人しくしていた。相手によっては持ち方が気に入らないのか突然泣き出す事も多いのだが、今のところその兆候はない。
「シャーロットちゃん。……あなたのお兄ちゃんを少しだけ借りて行くね」
「それじゃあ二人共、気を付けて行ってらっしゃい」
彼女は名残惜しそうに、ロランの母と妹にお別れの挨拶をしている。ロランが受け取った、侍女に持たせていた小ぶりなかごを覗き込むと、二人におやつに用意してくれた焼き菓子が並んでいる。頼んでおいた通りに、リンゴの良い匂いがしていた。コーディもおやつの中身に顔を輝かせた後、にこにこと愛嬌のある笑みを浮かべて、ロランを馬車の中へと誘った。
「やあ、今日は悪いね。ありがとう」
しかし馬車が走り出した途端、彼女はあっさりと相好を崩した。肩が凝ってしょうがない、と腕を前に伸ばしている。この良い事を思いついちゃった、みたいな笑い方は彼女の兄とそっくりである。
「……外では女の子の格好なの?」
「そうだよ。そうやってお行儀良くしているから、家の中で多少の事は許してもらえる。あの、ロランと会った日はたまたま着替える暇がなかったんだよ」
なるほど、とロランはようやく合点がいった。レヴァンス先生は確かに優しそうな男性だったので、その方向性で好きな恰好をする事には、何も言わないのだろう。それにしても、仕事の切り替えの早い父の使用人といい、ロラン以外は誰も彼も要領の良い事この上ない者達ばかりだな、と思った。
「今日は、公爵閣下のお屋敷の一つに行くんだったよね?」
「そうそう、庭園が有名で綺麗な場所。芸術家の人達が作品のために是非見せて欲しいって、尋ねて来るんだって。来週に今年のお庭のお披露目をする前に、特別に見せてくれるらしいよ」
ロランもこの土地に住んでいるので、公爵家自慢の素敵な庭園の事は知っていた。コーディの言う通り、この新緑の季節に貴族の友人を招いて、集まりが催されるのは有名な話だ。それから、母とよく出かける教会や美術館にも、その場所を題材にした緑の絵画が何枚も飾られている。
「なんか、ロランは絵が好きなのかもしれないって噂を聞いたから、一緒にどうかなって誘ってみたんだけど」
「……だ、誰から?」
「多分だけど、ジョシュの友達かな? いつかの展覧会で見掛けたからそうなんじゃないかなって話だった」
「……ああ、そういう。……確かに、母上は観に行くのが好きだから、多分僕も好きだと思う」
コーディから今日は祭事の話を聞きに行こう、という主旨で誘われたと思っていた。そのため、そういう方向から気を遣ってくれたという事実に少し驚いた。どう答えたものかと迷っているロランの返答をコーディも待っているようで、会話は途切れてしまう。しばらく沈黙が続いた後で、あの、と二人は同時に喋り出そうとして、結局また同じタイミングで黙り込む。どうぞ、とコーディが譲った。
「その庭園は誰が見せてくれるの?」
「ああ、言ってなかったかもしれない、ごめんね。今の公爵閣下のお母様。父の患者、と言っても今はお元気だけど定期的に診察に通うから、そこからお知り合いに」
ロランの知っている公爵家は、今の当主が父とそう齢の変わらない男性だ。領主として尊敬を集める存在である。それから息子が一人いる。その令息は何年か前までは王宮に出仕していて、今の王太子殿下やその弟君から兄のように慕われている、という話だ。こちらに戻って来てからは、領地の運営や軍にも携わっている。ロラン達が参加している軍の訓練も、その令息が発案したという話だ。父親達がほとんど主従に近い関係でもあるので、友達はできたのかと会う度に気さくに声を掛けてくれる。
しかし先代の奥方様、というのはロランも見た事はなく、噂もあまり耳にした事はなかった。
「……しばらく体調を崩していらっしゃったから、それで父が呼ばれたの。前は『私のお迎えはいつ来るのか』が口癖だったけど、最近は元気になったから言わなくなったよ。とりあえず私が先に様子を窺っておいて、父が明日改めて往診に行く予定」
「……それは、レヴァンス先生の仕事を手伝っているという事?」
「まさか」
とんでもない、という風にコーディは否定しながら、席に座り直した。
「そんな大層な役割じゃないって。ただ、向こうとそのご家族の希望で、とりあえず先代の奥様は話し相手が欲しいらしくて。とりあえず注意事項が、齢相応の気遣いをしようとすると怒って臍を曲げる」
「……」
「お呼びする時はナタリー様、これで統一」
「……わかった、ナタリー様だ」
コーディの話を聞く限りでは、何だか気難しそうな老婦人をどうしても想像してしまう。けれど自分達にわざわざ庭園を見せてくれるのだから、実際は心優しい方なんだと思いたい。
「ナタリー様が聖女様役をなさったのはもう随分昔の話だけど、やっぱり公爵家の方だから、色々と参考になりそうな話をしてくれると思ったんだ」
コーディは王都からこちらへ移ってきたので、この地域だけの神殿の祭事の事をもっと知りたいらしい。あちこちに声を掛けているそうだ。
「なるほど」
「ロランの周りで、主役で参加した本人か、詳しい話を聞く事ができそうな人はいないかな?」
コーディに尋ねられたが、ロランは首を横に振った。セクターの家はほとんど外との付き合いがない。とは言っても、ずっとここで暮らしているので、コーディよりは大体の流れを理解しているつもりではある。
「……それで、祭事の話の前に、診察をするの?」
簡易な検査と質問、後は楽しくお話しながら庭を散歩して終わり、とコーディが説明をしてくれたが、初めて立ち会うロランには、それがどのくらいの難易度なのかは不明である。
「コーディは、お医者様になるの?」
ロランの知っているコーディは饒舌だが、しかしこの質問には虚を突かれたのか、なかなか答えようとはしなかった。何とも複雑そうな表情で視線をしばらく泳がせている。
「……なりたいって、思っているのは事実。なれるかどうかは別だけど。本当に先生って呼ばれるためには時間を掛けて勉強しないといけないし、難しい試験を受けないといけないから、大変でしょ」
なるほど、とロランはコーディが勉強と試験の難易度に躊躇していると受け取ったので、神妙な面持ちで頷いておいた。ロランはおそらく将来このまま軍人になるだろうが、上の階級を目指すのには並々ならぬ努力が必要だ。
「えっとね、まずは脈拍から」
コーディは話題を変えるように、先ほどより饒舌に説明を始めた。ここだよ、と左手の手首の、親指の下あたりを軽く示した。ロランは剣の稽古をしているので生傷は多いが、ありがたい事に身体が丈夫である。そのため、病気が理由で医者にかかった経験自体が少ない。小さい頃はあったかもしれないが、詳細な記憶はなかった。外傷に関しては、清潔な水でよく洗い、場合によっては軟膏を塗って、というが大半だ。
「……えっと?」
「このあたり」
ロランが自分を覗き込んで手首に気をとられている間に、コーディが前触れなく横に座った。そのまま予告なしで手首を触って来るとは思わなくて、ロランは固まった。
彼女は特に気にした様子もなく、一分で計測した回数を年齢別の平均値と比較します、と得意顔で説明している。緊急時には十五秒での回数を四倍するよ、と詳細な解説を付け加えた。心拍数との差があると要注意でね、と更に詳しく説明してくれているのだが、あまり頭に入って来なかった。
「……百二十は、ちょっと多過ぎるような。大丈夫? やっぱり今日は止めておく?」
コーディによるロランの検査結果はあまりよろしくないようだ。体温も計ろうか、と彼女が心配そうに尋ねてきたが、ロランは大丈夫だからと向かいの席に逃げた。
そっか、と席が入れ替わった彼女はロランの反応を気にする事なく、足元の黒い革の鞄を漁っている。しばらくごそごそと探って、やがて何かを取りだした。今度は小さな皿の反対側に棒をくっつけた形状の器具である。
「これは聴診器。これを当てて、喉、お腹、それから心音に異常がないかを見るんだ。まあ、ナタリー様にはやらないけど」
「……じゃあ誰が診せてくれるの」
「飼っている犬だけだね。名前はチョコちゃん」
レヴァンスで飼われている犬、といえば黒と茶色の大きい個体である。ロランが先日コーディを尋ねて行った時も、番犬らしくこちらへと不審そうな視線を送って来たのだ。
理由が定かではないが、訓練にもジョシュアが連れて来ていて、いつも近くの木に繋いでいた。散々しごかれた後の、子供達の人気者でもある。
「犬を譲渡してくれた訓練士の方がね、身体をしっかり撫でていると、病気を早めに見つけられる事あるって教えてくれたんだ。だから一緒に、聴診器を使う練習もしておこうかと思って」
よくぞ聞いてくれました、とばかりにコーディは犬の話をしてくれた。健康チェックが毎朝の日課になっているらしく、ご飯を持って彼の小屋に行くと、お腹を見せて撫でさせてくれるらしい。目や耳、口の周りに病気の兆候が現れやすい、とコーディは動物を飼った経験のないロランにもわかるように噛み砕いて説明してくれた。
「どうしてジョシュアはあの犬をわざわざ訓練に連れて来るの?」
「それはね、犬は身体大きいと、犬種にもよるけれど、長い距離を運動させないといけないんだって。犬を馬車と並走させればちょうど良いだろうって。一応、チョコちゃんは尻尾振って走っているみたいだから、多分体力的には大丈夫だと思う」
コーディは犬が好きなようで、子犬の可愛かった頃の事も色々と教えてくれた。それから途中に昼食を挟む事になって、馬車は街道の一角、緑の木陰に馬車を停めた。荷馬車みたいに、後ろの部分を開放できる構造になっているらしい。涼しい風が中まで入って来た。二人は座席ではなくそこに並んで腰を下ろして、外の景色を眺めながらお昼ご飯を食べる事にした。
「やっぱり男の子はお肉が好きだよね」
神様とユニス様と大地の恵みに、と食前の祈りの言葉を簡単に唱えて、二人は食事を開始した。レヴァンス家が用意してくれたバスケットの中身は、薄切りにしたパンと野菜とお肉が綺麗に並んでいる。彩りに気を遣ってくれたのか、時々卵も挟まっていた。食べてみると味付けは塩味か、コーディ曰くレヴァンスの料理長特製ソースで、酸味が効いてどちらも美味しかった。
「うちの料理長が、ハーブ系は好みがあるからって昨日の夜から悩んでいたっけ。口に合いそう?」
一口食べたロランにとっては初めて食べる味付けだったが、美味しい事に変わりはない。コーディのランチボックスはロランの分より一回り小さい。彼女の中身はフルーツサンドである。お互いの中身を確認して、しばらく沈黙した後、少し交換しよう、という二人の意見が合致した。
「ありがとう。誰かが美味しそうに食べていると、やっぱり欲しくなるね」
ロランは剣の稽古で身体を動かしたわけでもないのに、何故だかとてもお腹が空いていた。あっと言う間に食事を終えた二人は少し休憩してから馬車の後ろ扉を協力して閉める。
目的地までもう少し、とコーディが明るい声を合図に、馬車は再び動き出した。




