おまけ:ロランとアイスクリームを食べに行く話
本編とエピローグの間のお話です
ロランは学院の食堂ホールで昼食を食べていた。揚げた鶏肉に酸味の効いたソースを掛けた日替わり定食セットは、夏季試験終わりのご褒美として量が三割増しとなっている。食堂の職員と雑談しながら料理がどっさり盛り付けられるのを待って、ホール内の好きな席に腰を下ろした。
ロランは現在、公爵領にある先進的な教育が行われている施設に、父と同じく優秀な軍人になる事を目指して所属している。午前中まで行われていた夏季試験の最終日は、長距離走とプールでの遊泳に腹筋背筋腕立て伏せ懸垂を規定の時間内に終わらせる、という全科目の中で最も過酷な内容となっていた。
しかし体力勝負はロランの得意とするところなので、一番乗りに終わらせてから既に汗を流し、さっぱりしてから終業ベルの鳴る前に食堂に入る事ができた。教官にも新記録更新だと褒められてすっかり上機嫌である。
正午になって終業のベルと共に他の建築や芸術関係の学生達がそれぞれの試験を終えて、歓声を上げながらほとんど駆け込むようにして入って来た。それを横目に酷使した身体に肉を補給していると見知った顔が二つ、近づいて来るのが見えた。
「よう、ロラン」
やあ、とロランは椅子の位置をずらして、やって来た二人の友人が座れるように場所を開けた。同い年のジョシュと、その弟のグレンである。
ジョシュは医務官の息子らしく、医療者の養成課程に所属している。グレンの方はロランと同じ科の後輩だ。彼らとは子供の頃から家族ぐるみの付き合いが続いている。試験はどうだった、と話を振ってみると、どちらもそれなりだったという返答だ。
「それで、ロラン先輩は週末に姉さんと一緒に牧場へ行ってアイスクリーム食べるんでしょう? お土産お願いしますね」
「……いいけど、家に帰り着く頃には融けてただの甘い牛乳になっているんじゃないかな」
ロランが試験終わりの週末に、コーディと一緒に行く約束をしているのは、近くにある観光に特化した牧場である。牛や馬や羊が放牧してあるほか、庭園や農園、とれたての食材を楽しむレストランやカフェテリアも併設されて一日楽しむ事ができる。飼い犬を放して遊ぶスペースも確保されていて、子供の頃から家族や、この兄弟達とは何度も足を運んでいた。
「一緒にアイスクリーム? コーディと? 君達、もうすぐ二十歳で婚約者同士なんだからもっとこうさあ……大人っぽいお付き合いをしたまえよ」
「……別にどこへ行こうと自由だろ。暑くなる前にアイスを食べて、夏に備えないと」
ロランにはなんと婚約者がいた。そのコーディはこの学院には所属していないが、いずれは女性初の正式な医者を目指し、場所は違えど忙しい日々を送っている。コーディも学院に興味はあったけれど、ここには女子生徒がそもそもいないので更衣室などが整備されていないのである。医者の資格は医院に勤めて実務をこなしながら知識と技術の習得を重ねる事で試験を受ける事ができるらしい。
たまには息抜きでも、というわけでロランの期末試験が終わった週末に、一緒に出掛ける予定になっていた。
「それならお洒落して集まりに行けばいいだろ」
一般的にこの時期、あちこちで催される夜会は様々な交流の場として、年齢を問わず楽しみにしている人は多い。未婚者にとっては、良い結婚相手を見つける交流の場としても広く浸透していた。
「僕の家にパーティの招待状なんて届かないよ。父上が昔に全部断ったから」
ロランの父は軍人としての職務に励み、功績は領主である公爵がわかっていてくれさえすればいい、という考えらしい。母も教会での奉仕活動に熱心でその方面ではそれなりの繋がりがあるらしく、どちらも夜会に積極的に繰り出す社交的な性分ではない。そんなわけでセクター家にはその手の招待状は届かないのであった。
「それなら、個人宛てで招待状は来ないの? 『ユニス様の愛し子』なのに。有名人じゃん」
「……問題はそれなんだよ」
ロランとコーディはかつて子供の頃、春の祭事で特別な役回りを請け負った。それ自体は毎年男女一人ずつの子供が選ばれているので何ら特別な事ではない。しかし本番当日、二人は意図せず伝説上の存在であるユニスの神殿へ辿り着き、特別な祝福を受けた『愛し子』として世間では通っていた。
実際に何が起きたかはともかく、普通ではない場所に入り込んで二日ほど行方不明になって大騒ぎだったのは事実である。だからと言って今のところ、目に見える形の祝福や加護という、何か自慢できるような特典があるわけではない。
けれど世間はそうは思っていないようで、大きくなって社会に出るにつれ、ロランは自分達がいかに注目される存在であるかをしみじみと思い知っているところである。
新しい授業の教官は必ずと言っていい程その話題を一番最初の授業で持ち出し、同科生に至ってはロランの好成績はユニス様のご贔屓、と揶揄する始末だ。
周囲の大人達は、まだ幼い自分達が普通の生活を送れるように守ってくれたが、いずれは上手く立ち回って行かねばならない。招待された夜会も一つ顔を出せばこっちにもあっちにも、となって勉学に支障をきたすのは目に見えていた。だからロランがコーディを誘って社交の場に出て行く話は、今のところ考えていない。
「そっか。やっぱりロラン先輩も大変なんだね。牧場はきっとあれだよ、『あーん』て食べさせあうんだよ。僕、仲睦まじい間柄の人達がやっているの見た事がある」
「……うーん」
グレンの言う通り、ロランもその、浮ついた恋人同士にのみ許されたやり取りを想定しなかったわけではない。しかしよくよく考えてみれば、自分がコーディにあげるとなると、むこうもロランに分けてくれるだろう。
まるで親鳥が雛に給餌する光景は、小さな雛だから可愛げがあるのだ。自分の間抜けな顔を晒す事になるので、それはなるべく避けたい。恰好いいところを見て欲しいのである。
「……コーディといる時のロランなんて終始間抜けな顔をしているような気もするけどな」
ほっとけよ、とロランは食事を再開する。二人の興味津々な視線は無視して、酷使した身体のための栄養補給に集中した。
そうして週末、ロランはコーディを迎えに馬を走らせた。ちょうど待ち合わせ時刻間近に屋敷に到着するように途中の景色の良い場所で少し休憩していると、この季節特有の気持ちの良い風が、子供の頃の記憶を強く想起させた。コーディと初めて会った日もこんな穏やかな午後だった。
一緒に馬車に乗って出掛けた事、緊張しながら祭事に臨んだ事。彼女は自分にとって、初めてできた友人と言える存在でもある。
それから迷い込んだユニスの神殿で一体何があったのか、色々な人に訊ねられた。ごく近しい相手以外に喋った事はないが、本当は誰もいない古い建物の奥には一枚の鏡があった。そこに映し出されたあの厳しい眼差しを思い出すと、ロランはいつも身が引き締まる思いがした。
必ずコーディの力になる。そう誓って、まだ約束は果たされる途上にあった。そしてこれから先の長い道のりが終わる時まで続く事になるのだろう。
十歳だった子供の言葉を、大人になった自分が引き継いで行かなければならない。コーディは父のように立派な医者に、という目標を掲げている。夢を実現させる事と、幸せな人生を楽しむ事。そのどちらも叶えると約束したのである。
乗って来た馬がまだ行かないのか、とそわそわした表情で乗り手を窺った。ロランは時計を確認して、そろそろ向かっても良い時間だろうと再び手綱を取る。
現在、同い年の女の子達は既に適齢期を迎えて、社交の場にも続々と繰り出しているらしい。どんな相手と結婚するのかを慎重に見定める大切な時期でもある。それが人生の全てではないが、重大な局面である事は間違いない。
コーディにとっては最も勉学に集中するべき時期とも重なってしまう。家柄もよく、『ユニス様の愛し子』として神殿や公爵家との繋がりもあるため、それはそれはたくさんの良いお話が来たらしい。
それは由々しき事態、とロランは父に今後の話の進め方を相談した。すると自分の要領がよろしくないのはわかっているだろうから各所に十分に根回しを、と助言をもらった。
そんなわけでロランは自分の家族とレヴァンス一家の面々を前に、いかに彼女を愛しており大切であり、同じくらい彼女の夢を応援していて力になりたいかを力説する羽目になった。死ぬほど恥ずかしかったのは否まないが、これも試練の一つと覚悟すれば後回しにできる案件でもない。演説の最後に正式な婚約を許してほしい、と申し出ると了承してくれた。実は元からそのつもりだったと先方に言われたのでもっと恥ずかしかった。
その後で割と大々的に婚約式をしたので、ロランとコーディの関係は領内では広く知れ渡っている。ちゃんと結婚するのはどちらも無事に希望の仕事に就き、落ち着いてからの話になりそうだ。
だから今は、目の前の課題に集中すればいい。ロランは少し気持ちの余裕があった。コーディも同じ考えでいてくれると嬉しいと思う。
「あらーロラン君久しぶり」
レヴァンス邸に予定通りに辿り着いたロランは、出迎えてくれたコーディの母親に礼儀正しく挨拶をした。用意しておいた手土産を渡し、夕方に予定されている両家揃ってのお楽しみ食事会の簡単な打ち合わせをする。
「ロラン君も会う度に男ぶりが増すわね、感心感心。ところで今日のコーディはとびきり可愛いのよ」
「……ちょっと、お母さん」
うちの可愛い娘をしっかり褒めるように、と言わんばかりの圧力を感じつつ談笑していると、家の裏手から飼い犬を引っ張ってコーディがやって来た。
空き時間を狙って会う時は助手として白衣を着ているので、久しぶりに女の子の方の格好を見たような気がする。母親の声はしっかり聞こえていたらしく、恥ずかしいと文句を言った。
衣装自体は本人が好む、女物の中では飾り気の少ない部類に入るが、その分帽子は新調したらしくお洒落で、さり気ない装飾に力が入っている。
行ってくるね、と母親に手を振って、二人は御者に預けておいた馬を引き取りに行った。
「最近、お父さんの仕事を手伝う時は男の子みたいな格好だから、こういう時にみんな張り切り過ぎるの」
軽快に動き回る必要があるから仕事中はなりふり構っていられないんだ、とコーディは言う。内容はともかくまんざらでもなさそうな調子である。子供の頃のコーディは男の子の格好や振る舞いを好んでいた記憶があるが、その辺りには何とか折り合いはついたらしい。
「コーディは馬に乗らなくていいの?」
「今日はいいよ。いつも気分転換に乗せてもらっているからね」
コーディも基本的にはお転婆なので乗馬も得意である。てっきり自分の馬を出してもらって乗るのだと思っていたが、というわけでよろしく、と今日に限ってはロランの前に女性らしく横座りして出発した。
よかった、ちゃんと婚約しておいて。ロランはいつもより近い位置でお喋りできる特権を享受した。これが恋人や友達という関係止まりであれば、こんな距離まで近づくのは周囲が許さないだろう。
「レヴァンス先生の助手は最近どう?」
「まあ、順調かな。でも今のところはコーディ『ちゃん』だから、いつか『先生』って呼んでもらうのが目標」
ロランも試験は一番だったんでしょう、と褒めてくれたのでロランはすっかり気をよくした。コーディが持っているリードの先で、てけてけと飼い犬のチョコちゃんが先へ先へと歩いていく後ろ姿を見ながら手綱を握る。
「コーディ、お土産はどうしようか。あそこは確か養蜂もやっているから、ハチミツでも買って帰ればいいかな」
「ハチミツねえ。この間、シャーロットが怒ってたよ。ロランが瓶の蓋を開けられなくしたって」
「……あれは父上が不在なのがまずかったんだよ。父上がいれば開けられたのに」
ロランも齢の離れた、寝ぼすけな妹に嫌がらせしたわけではない。ロランもジャム等の瓶に入っている食べ物は密閉が大事と言われればそれなりの力で蓋をするのだが、そうすると後から誰も開けられなくなるらしい。今朝はロランの手でまた閉められてはたまらない、とジャムの瓶はさりげなく使用人が下げて行った。
うーん、とロランは自分の右手を握ったり開いたりしてみた。コーディが笑いを堪えるようにわざとらしく咳払いした。鍛錬に力を入れ過ぎたのか、どうも最近は世の中に想定されている手の力を超えつつあるらしい。今のところは役に立つよりも日常生活に支障をきたしつつあるが、かと言って弱めるのも難しいので、難儀していた。
以前にコーディとお揃いで購入した陶器製のマグカップの取っ手がぽっきり壊れたのはロランもショックだった。慌てて工房に修理を依頼して、最初から持ち手はなかったような風に修理してもらった。上から指先で掴むようにして使用している。
「……それだと熱い物飲めないんじゃない? それか木製のを買う? 流石にそれなら壊さないでしょう」
「いや、いいんだ。あれは自分への戒めなんだ」
「じゃあ、練習しよう」
「……柔らかいって知っているのに壊したりはしないよ」
コーディは本当かな、なんて言いながらロランの手綱を握っている手にちょっかいを出し始めた。陽射し除けのための薄手の手袋を嵌めているので直接触れ合っているわけではないが、それでも何だか変な気分になってしまう。
コーディはわざとくすぐるみたいに指先でロランの手をつんつんしてくるので、平静を保つのに集中力が必要だった。最終的には手首ごと握り込む事で動きを牽制したが、それこそ力加減を間違えないように集中力である。
「いいね、このいつも固くて重い物を振り回しているって感じの手が。ビクともしないよ」
婚約しておいてよかったよね、とコーディがこちらの心の内を見透かしたように言った。
「目標があるのも大事だけれど、頑張れるのはこういう時間がちゃんと楽しめる事こそが大切だったんだよ、うん。ロランもそう思わない?」
ロランは集中しているので、うんとかまあとか曖昧な返事をするのに手いっぱいである。ねえねえ、とこちらの苦労なんて知らないとばかりに、コーディは楽しそうに邪魔をし続けた。
「先にアイスクリームを食べよう」
「はいはい」
今日は夕食のために早めに帰路に着く予定である。レヴァンス邸に集まって肉を焼くので、美味しい物は先に食べて早めに消化しよう、というコーディの作戦である。ロランの胃袋の容量としてはあまり関係はないので、彼女に合わせる事にした。
目的地の牧場のカフェテリアの外にある席は犬も一緒に利用できるので、まだ空いている席を二人と一匹で占領した。
「ミルク味のジャンボサイズを下さい。コーディは……」
「私は普通の大きさでお願いします。味はチョコチップで、飾りのついているやつ。この子は犬用ミルクで」
かしこまりました、と店員は下がって行き、まだ混み合う前の時間帯なので比較的早く注文の品も運ばれて来た。それなりの大きさなためか、上手に食べるためのスプーンも一緒についている。
「食べるのもったいないや」
コーディは頼んだアイスにくっついている、ウサギの顔を構成しているクッキー等を先に丁寧に摘んで食べている。
チョコちゃんは牛乳をペロリと飲み干した後は、コーディが絶対に人間の食べ物は分け与えない主義なのをわかっているらしい。ロランの方をちらちらと窺っている。今までに何かあげた記憶はないが、自分のご主人様よりはチャンスがあると思っているのかもしれない。
いいなあ欲しいなあ、という顔のチョコちゃんの圧力に気が付かないふりをしながらロランも自分の分を一口、二口と食べてみた。これを食べると夏が来たな、としみじみと感じるのである。
それからどこを見て回ろうか、なんて話しているうちに、ロランはすっかり油断してしまったらしい。
「あ」
くしゃっと言う音ともにコーンの部分が手の中で潰れ、ほとんど手付かずだった部分が下に落下した。反射的に捕まえようとして、しかし待ってましたとばかりに同じ事を企んだレヴァンスの犬がこちらに突進するのが見えたので、腕は咄嗟に引いた。コーディの愛犬を引っ叩くわけにもいかず、まんまとアイスクリームが口の中に消えるのを虚しく見送った。
「……なるほど、油断するとそうなるんだ」
「そ、そんなに強く持っていない……はず」
コーディがしげしげと、今しがたの攻防の感想を述べた。言い訳に反して手はアイスクリームでべとべとしている。どうもまた力加減を間違えてしまったようだ。
「まあ、今のは不可抗力という事にしておこう。でも本当はだめだからね、チョコちゃん」
犬はアイスクリームの余韻に浸るように、口元をぺろぺろ舐めながら椅子の下に伏せている。申し訳ありませんでしたとばかりに尖った耳をぺたんと伏せて、どうやらそれなりに反省しているつもりらしい。
「……ロラン、なんかごめんね。今、ちょっと雑念が入ったかもしれない」
「雑念て何?」
「ほら、私達って『ユニス様の愛し子』だからさ、たまにこういう事あるじゃん。今晩はこういうのが食べたいなって思うとその通りの物が晩御飯になるし、雨が降る前に帰りたいなって思うと玄関に入った瞬間にざあざあ雨が来る。かと思えば、手伝い終わりにすごく綺麗で大きな月が見えたりだとか、さ」
コーディにあの春の祭事以来、そういう経験はないかと聞かれたが、ロランは首を横に振った。単純に上手く行った時を強く記憶しているだけのような気がするが、彼女は大真面目である。
「だから私のをあげるよ、ロラン」
コーディは一緒に付いて来た木の匙を自分のアイスクリームに突き刺して、見えている部分の半分ほどを掬い取った。
「正直これがやりたくて、話に乗ったんだよ」
はいどうぞ、とたっぷり掬った匙の柄を素直に渡してくれればいいのに、コーディはアイスクリームの部分を差し出して来る。そんなに多いと普通に一度に口の中に収まり切らないのだが、彼女はそんな事はお構いなしだった。
「ロラン、私達の関係は?」
「……こ、婚約者です」
ロランも恋人同士でこんなやり取りを頭の中に思い描かなかったわけではないが、コーディはともかく自分の間抜けな顔を想像して止めたのである。
けれどそのアイスクリームの向こう側、コーディがあんまり嬉しそうな顔をしているので、ロランは割とあっけなく、誘惑に負けてしまったのだった。




