第2話
コーディはセクター親子に続き、父を乗せた馬車が見えなくなるまでその場に留まっていた。いってらっしゃい、としばらく手を振ってから、持っていたベールを抱えて敷地内に引き返した。衣装合わせをしていた応接室には戻らず、玄関先で侍女の一人を捕まえてベールの返却をお願いしておく。彼女は、快く引き受けてくれた。
「なんだかお腹空いちゃったな」
祭事のための神殿関係者との顔合わせは、早めに軽めの昼食を食べて行われていた。簡単な手直しと装飾品の選定をしているうちに、今は午後の三時を過ぎたところだ。小腹の空いたコーディは厨房で何か食べさせてもらおう、と途中で手を洗ってから向かう。
食堂へ近づくと、隣接する厨房では夕食の支度が進行中のようだ。使用人達が忙しく動き回って、包丁で何かを刻み、水を流している音が聞こえる。忙しそうな一室に繋がった食堂には見慣れた後ろ姿が二人分、並んで座っていた。双子の兄のジョシュ、そして二つ下の弟のグレンだ。兄弟との見た目の違いは、コーディが髪を伸ばして銀の輪状の髪留めでまとめているのに対し、二人は短く切り揃えられている、以外には見当たらない。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
「コーディも終わったか。やれやれだな」
兄のジョシュが果物の載った皿を寄越して来た。季節のブドウとモモが綺麗にお皿の三分の一ほど残されている。
「リンゴはない?」
「それは冬の果物だろう、我慢しろって。な?」
コーディの好物はリンゴである。保存用の乾燥させた物でも大好きだが、できれば収穫したばかりの新鮮な状態が一番好きなのだ。しかしそうなると、暑い季節はどこにも売っていない。以前に住んでいた北の王都だと、もう少し先の季節まで流通していたのに、とコーディは大人しくブドウを摘んだ。
レヴァンスは古くから王家に仕えていた医務官であるが、二年ほど前に一家は父の異動に帯同して、国土の南に位置する王都に次ぐ規模を誇る街へ移り住んでいた。ここでは新しい技術や知識だけではなく、古き良き習慣も大事にする気風であるらしい。かつては勇敢な騎士を数多く輩出している地域のため、男の子の間では剣術が盛んなのだそうだ。医官の息子である兄も、最近は新しい友人達と一緒に、軍が子供向けに開放している訓練に参加するなど、この場所に馴染みつつあった。
「ああ、疲れた」
食堂には、双子の声が重なった。兄が顔を出している軍の剣術教室は子供向けに午前中のみの開催だが、やはり内容はお遊びではなく本気の訓練らしい。以前は帰宅してそのまま夕食までずっと眠ってしまっていた。今日は起きておやつを食べているところを見ると、多少は身体が順応しつつあるのだろう。
体力的な負荷のかかったジョシュと、精神的な疲れがどっとやって来たコーディは、このままテーブルに突っ伏して眠ってしまいたい。唯一、元気な末子のグレンはそんな上の二人の様子を窺いながら、外遊びに誘うタイミングを見計らっているらしい。今日は何時に終わりそう? と、コーディは弟から朝方に何回も確認されたのだ。
「さっきこっそり覗いたんだけどさ、お姉ちゃんはあの、ひらひらとした衣装を本当に着るの?」
「ああ、そうだよ」
コーディが深刻な口調で弟の疑問に答えると、彼はおかしそうに、笑うのを我慢しているらしい。同じ顔の子供のくせに失礼な話だと思った。それでも、茶化してくれる方がいくらかマシではある。
「……グレンが代わりに着たらいいよ。どうせ見た目は一緒だし、ベールも被るから絶対にばれない。途中で入れ替わろう」
コーディはほんの軽い気持ちで言ったのだが、弟は本気に受け取ったようだ。笑顔は一転、冗談じゃないとばかりに首を横に振った。その反応が面白いのでお願い、ともうひと押しして見たが、とんでもないと言わんばかりの表情である。弟は兄の向こう側へ逃げ込んだ。
「さっき、セクター家の子息殿に会ったよ。気が合いそうで良かった」
兄はさっきのロラン・セクターに毎回のように勝負を挑んでいるという話だが、彼を相手に勝利をおさめたという報告は聞いた事はない。なかなか手強い相手なのだろう。
「……ロランってさ、同い年の中なら誰かに負けた事がないけど、それで少しも嬉しそうにしないから、何を考えているかよくわからない」
そもそも全然喋らないし、とジョシュは付け加えた。兄は気さくで、こちらに来てすぐに友人を作るのにも苦労した様子はなかったが、それでも上手く行かない相手はいるようだ。
「そのロランさんに代わってもらえば? 聖女様の役」
「ああ、それ持ち掛ければ良かった。体格もそんなに変わらないし、結構可愛い感じの子供だったから」
コーディはどうしてさっき思いつかなかったのだろう、ともったいない気持ちだ。その横では呆れかえった顔で可哀想なロラン、と兄と弟は呟いている。
「止めておけコーディ。奴は冗談が通じないタイプだぞ」
忠告されたコーディはそうか、と諦めた方が良さそうな流れである。じゃあグレンに、と話を戻すと、弟は許して下さい、と空になったお皿で顔を隠した。
「そもそも、何でコーディなんだろうな。やりたい子はいっぱいいるって話だったのに」
「しょうがないよ、お兄ちゃん。だって神官長様が女の子達の名前を書いた札を水に浮かべて、最後まで残っていたのにコーデリア、って書いてあったんだから」
「……それ多分嘘だよ。神殿に払う寄付の額が高い家か、お祝い事のあった家の子から選ぶんだって。お父さんがこっちに来たばかりで、相場をよくわからないまま寄付金を決めちゃったらしいよ」
できるだけ丁寧に説明したつもりだったが、弟はきょとんとした顔で、相場とは何かを訊ねてきた。大体このくらい、という目安、と更に付け足しを加える。神殿という機関は信仰の管理の他、各地域における慈善活動も担っている。裕福な家には社会への奉仕が義務付けられており、神殿への寄進は手間が少ないので手っ取り早い方法の一つとして認知されていた。
しかし、とコーディは考え込んだ。父は人付き合いに支障をきたすような人ではなく、友人も多い方だ。レヴァンス先生のおかげで、と元気になったお礼を兼ねて訪問して来る人は以前からたくさんいた。その父が、確かめればすぐに判明していたであろう事柄を果たして本当に見逃したのだろうか、と少しだけ気になった。
その考えを兄と弟に話してみよう、と口を開きかけた時、ちょうど屋敷の侍女長が食堂へやって来た。テーブルに広げるための大きな布を手に持っている。彼女は王都から一家について来てくれた、ベテランの使用人である。
「まあ、可愛らしいわんぱくが三人じゃなかった、可愛いお嬢さんも一人いらっしゃるわ! そろそろ夕食の支度をしますからね。お外へ行ってもらいますよ」
彼女は三人の子供に威勢よく声を掛けた。それから後ろを振り返って、誰かおやつをもっと出してあげて、と呼びかけている。食堂から追いやろうとする彼女に、同じ顔をした三人は声を合わせ、だーれだ、と悪戯を仕掛けた。
しかし流石に年季が違うようで、こちらをほとんど見る事もなく、右から順番にグレン様、ジョシュ様、そしてコーディ様、と見事に正解を言い当ててしまった。勝負に負けた三人の子供はおやつのお皿を受け取って、とぼとぼとその場を後にするしかない。
「ねえ、リンゴはないかな?」
「リンゴはですねえ、もう時期を過ぎてしまいましたよ」
三人が撤退する時に厨房から顔を出し、グレンに追加のおやつを渡した料理長にコーディは改めて尋ねてみたが、やはりもう瑞々しいリンゴは冬まで我慢のようだ。でもこの屋敷の使用人は親切なので、王都に用事がある奴に探してもらえるように頼んでみますよ、と快く約束してくれた。
三人は追い立てられるままに屋敷の外へ向かい、庭木の近くに腰を下ろした。枝の具合は木登りをするのにちょうど良い高さで、昼寝用のハンモックも吊るしてある。
弟が運んでいる追加のご馳走は、パンの残りを小さく切って、バターで炒めて砂糖がまぶしてあった。甘ったるくて香ばしい匂いがしている。
「あ、チョコちゃんが来たぞ」
そこに、屋敷で飼われている黒と褐色の毛並みを持つ大きな犬が、尾を大きく振りながら近づいて来た。一家が飼っている番犬である。ぴんと尖った三角耳がチャームポイントだ。この犬の兄弟や親戚には、軍用犬が何匹もいる優秀な血統らしい。いかつい見た目に反して人懐っこい番犬である。
「グレンはどーれだ!?」
全く懲りない三人は、この番犬にも勝負を仕掛けてみた。しかし彼は特に迷う様子もなくグレンに鼻をくっつけに向かう。
「えっ、すごい。どうしてわかったんだろう?」
犬の接近に、弟は慌てて口の中のパンを飲みこんだ。そして手に持っているお皿を犬から遠ざけようと腕をできるだけ突っ張る。
「ダメダメダメダメ……」
何のことはない、単純にグレンならおやつを分けてもらえるかもしれない、という打算だった。犬に人間の食べ物をあげてはいけない決まりで、特にカカオと玉ねぎは絶対に駄目、と言われている。犬を引き取る際、訓練士からこの家の子供達に、一緒に暮らしていくための数々の助言があった。
まず犬、という生き物は集団の中の順位を重んじる生き物らしい。ちなみに猫にはない習性だそうだ。犬という生き物は甘やかし過ぎると勘違いして、命令を無視して好き勝手な行動に出る事もあるらしい。相手が小さな子供だと、特にその危険が大きいという。
勿論、ちゃんと訓練をしているので、飛びついて奪うような乱暴な真似はしない。ただ静かに真横に佇んで、分けて欲しいという熱烈な視線を浴びせるのみだ。標的にされたグレンは犬が良い子にしているように見える分、心が揺らいでいるらしい。
「パンの耳をバターで炒めたやつくらい、良いんじゃないのか?」
「あげちゃうと欲しがるでしょ。ちょっと骨をとってくる」
兄は犬の様子を見ながら、お皿から一つ、二つと悠々と口に入れた。弟がジョシュにお皿を渡していなくなると、犬は残りの二人から分けてもらう事は不可能だと理解しているらしい。つまらなそうに地面に伏せた。
「チョコちゃん、お手入れの時間ですよ」
そこにコーディが声を掛けると、犬は目を輝かせてぱっと立ち上がった。よしよし良い子、とコーディも正面に屈んで、愛犬の毛並みを整える作業に取り掛かった。身体のあちこちに触るのは、健康上の問題が身体のどこかに現れていないか、毎日点検するという重要な役目がある。まずは目やにがついていないかをじっくり確認した。それから口を開けさせて歯茎や、その後は全身を撫でて痛がったりしないかをゆっくりと観察した。
「毎日毎日、熱心だな」
「犬の世話は遊びじゃないって訓練士さんが言っていたでしょう。チョコちゃんは痛いって言えないからね」
ちょっと神経質なくらいで丁度良い、と一日でも長生きして欲しいコーディは、医者の娘らしく飼い犬の健康状態に敏感である。
「……それにしても、今日は調子が悪いな。誰も僕とコーディを間違えないぞ」
「引っ掛かったのは今のところ、セクターのロラン君だけだね」
そうなのか、と兄に尋ねられたので、コーディはさっきのやり取りを兄に話してきかせた。一応、あんまりからかわないであげてね、と釘をさしておいた。
兄は最近、悪戯の調子が悪い事を気にしている。当たり前だが、成長すればそのうちに見た目の違いは出て来るだろう。それに伴っていつもの愉快な事ができなくなると思うと、コーディもなんとなく寂しいような気分になった。
戻って来た弟は、犬におやつを分けてあげられない事を詫びながら、代わりに骨を渡した。それからは歩き回って、そこら中に生えている野草の綿帽子を一つ残らず吹き飛ばす遊びに興じている。その様子を眺めているうちに夕日が森の向こうへ少しずつ沈み始め、風が少し冷たくなった。それでも上着を取って来なくても平気な季節で、むしろ涼しく過ごしやすい。
コーディが少し目を離した隙に、番犬はグレンと木の棒を投げては取って来る、という遊びを始めていた。しかし勢い余ったのか、すっころんだ弟に犬がじゃれついている。
「お鼻が濡れてる! うわー!」
上の兄姉は一応様子を窺ったが、どうやらべろべろと弟の口元を舐めまわしているらしい。まだバターの匂いがついているのだろう。先ほど分けてもらえなかったおやつの恨みなのかもれない。コーディとジョシュはしばらく弟の様子を見ていたが、あまり深刻な事態でもないようなので、そのまま放置しておくことにした。
あのさ、と横に座ってぼんやりしていた兄が、妹に声を掛けた。
「祭事は頑張れそうなのか?」
「もちろん、選ばれて引き受けた以上は真面目にやるよ。やるけどね……」
少しくらい頑張ろうと思える要素が欲しいとコーディはこっそり思っている。美味しい物を食べられるとか、もう一人の主役と楽しくお喋りして過ごせる程度で十分だ。しかし、少し前にコーディが会った、何年か前に祭事の聖女様役を務めた女の子が言うには、緊張している上にベールを被っているのでほとんど飲まず食わずだった、そうである。ちなみにその時の剣士役の男の子は、そんな隣の様子には頓着せずよく食べていたらしい。このままではコーディも、ロランがむしゃむしゃ食べている横で、恨めしい気分のまま過ごす事になるだろう。
それを兄に零したところ、相変わらず食い意地が張っているな、という大変に失礼な言葉をもらってしまった。腹を立てたコーディは思わず、弟とじゃれている番犬を手元へ呼び寄せた。
「チョコちゃん、ゴロンして、ゴロン」
「何だその命令……って、うわっ!」
飼い犬はコーディの指示通りに、座ったままのジョシュに向かって身体を擦りつけ、そのまま後方へ押し倒した。ぺろぺろと顎のあたりを熱心に舐めている。
「……コーディの気持ちはわからないでもないが、祭事中は大人しくしておけよ。ロランだって、本当に気が合う良い奴かは、まだわからないし」
そうだね、とコーディは犬にじゃれつかれているの兄からの忠告に頷きながらも、膝を抱えてもう一度深く息を吐いた。
「お兄ちゃんがさっさとロラン君と友達になって、紹介してくれたらこんなに苦労していないのに」
「あいつは誰とも仲良くしようとしてないぞ。訓練終わったらさっさといなくなるから」
「……どうせ毎回勝負勝負だって、それじゃあ避けられるよ」
「……男は大変なんだよ」
コーディはそっくりな顔の兄弟が不貞腐れたように起き上がって、番犬にぎゅうぎゅう抱き着いているのを眺めた。たとえ兄が言うようにとても大変だろうとしても、コーディはどうせなら男の子に生まれたかったと常々思っている。
「女の子だって大変だよ」
「……そうだな、知っているよ」
コーディが兄に、他にロラン・セクターに関する情報はないのかと尋ねると、しばらく考え込んでいた。やがてそう言えば、と何か思い出してくれた様子だ。
「……確か、絵の展覧会をやっている美術館で、親子揃って見かけたって話があったような」
「……美術館?」
絵、と言えばレヴァンスの子供達はまだ王都にいた頃に、教養の一つとして絵の先生に描き方や鑑賞について教えてもらった事がある。しかし、先生とは父が仕事の都合で引っ越す事になってそれきりになってしまった。
おそらくはもう、会う事のなさそうな相手の事を考えると、他にも同じような別れ方になってしまった人達の事が次々と思い浮かんで来た。友人もいたのだが手紙のやり取りは絶えて久しく、使用人も大半が入れ替わった。コーディには家族がいるので普段は寂しいとは思わないのだが、夕暮れの薄明かりのせいか、何となくため息をついた。
「……わかった、絵ね。何か考えるよ」
夕方の風が時折、春に芽生えたばかりの眩しい緑や、コーディたちの髪や手の平を撫でて通り過ぎていった。ご飯とお風呂の支度ができましたよ、と使用人が呼びに来るまで、レヴァンスの子供達は大人しく、夕陽が沈んでいくのを眺めていた。