表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/21

エピローグ 上


「コーディ先生! わたくしはついに、先生の旦那様という方にお会いしたの」

「……左様でございますか」


 美しいと名高い公爵家所有の庭園入り口にて、当主の客人という立場にある幼い少女が、コーディに向かって目を輝かせた。半時ほど前にお昼寝から機嫌よく目を覚まし、彼女の母君を追って庭園の奥へ赴く道連れに、お気に入りの医務官を指名したところである。


 旦那様、というまだ少し気恥ずかしい呼称を耳にして、コーディは生真面目な仕事の顔を意識して取り繕った。結婚自体は同年代の女性達より、お互いの仕事を理由として遅くなったが、婚約自体はコーディが十六の時に両家で取り交わし、その時に盛大に婚約式を執り行っている。

 


 本当はそろそろ、父をはじめとした医務官が集まって今後の方針の話し合う予定の時刻だが、後で議事録を見せてもらうしかないだろう。しかしこれも大切な仕事、と切り替えたコーディは進んで彼女の小さな手を取って、庭園の中へと足を踏み入れる。

 コーディはてっきり、いつも通りに女官達を大勢引き連れて向かうものだと思っていた。しかし彼女はどうしても聞かれたくない秘密のお話、とやらがあるらしい。そのため木立の影にちらほらと、最低限の護衛の方達の姿があるだけだった。



 夏の盛りの思わず汗ばむような、暑い時間帯にも拘らず、木々の下に入れば途端に空気はひんやりとしていた。彼女の母君と公爵家の女性陣達が、午後のお茶をする場所に選んだのも納得である。


「……そのロラン・セクターという方、立ち姿がいかにも軍人さんで素敵だったの。格好良さなら先生と良い勝負ね、きっと」


 コーディは一番近い身内に対する裏表のない称賛に、どう反応したものかと迷った結果、曖昧に笑っておくに留めた。次にロランに会う時には、今のありがたいお言葉を伝えなければならない。


 大人になったロランは立ち姿だけでなく、彼の父親のような戦士と呼ぶに相応しい体型に憧れて、日々訓練に励んだものの、身体つきに関しては同じ職種の中ではやや細身の部類に入るかもしれない。今のままで十分じゃないかとコーディは慰めたが、本人は残念な結果として捉えているようだ。


 一方のコーディは成長した後も同性の平均と比べるとずっと長身で、顔立ちを含めた容姿はご婦人の患者には大変好評な形に落ち着いた。欲を言えばもう少し可愛らしい女性にも憧れたのだけれど、ロランは好きだと言ってくれるので特に不満はない。

 ジョシュやグレンとは未だによく似ており、医務官の制服は黒を基調にして下は男性と同じ服装。そのため初めて顔を合わせる相手の混乱が少しばかり面白かったりする。

 


「……先生の御兄弟にも、公爵殿が会わせて下さったの。先生のお家はとても優秀な方々が揃っていらっしゃるのね」


 なるほど、とコーディはようやく話の状況に察しがついた。数年前に公爵家も代替わりして、コーディとロランが迷子になった際、散々お世話になった先代は惜しまれつつも役目を息子に譲って引退をした。代わって当主になったかつての令息は、コーディの兄弟達も子供の頃に参加していた訓練の発案者であり、顔を出していた子供達との関わりが未だに深いのだ。


 結局、兄はロランを打ち負かすための剣術訓練に参加した縁なのか、レヴァンスの跡継ぎとして医師の資格を得た後も軍に所属する形になった。弟のグレンは軍馬と軍用犬のお世話がしたい、という理由で本当に軍人として入隊し、動物に囲まれ毎日仕事が楽しくて仕方がないらしい。


「それからね、もっと先生の重大な情報を手に入れたの。この庭園が、旦那様と初めて出かけた場所なんでしょう、ナタリーおばあ様から教えてもらったの」

 

 あのお婆さん随分とお喋りだな、とコーディは肩を竦めて笑って見せた。確かに公爵家先々代の夫人となったナタリー様はお淑やかな女の子より、お転婆の方が好きなのは周知の事実ではある。少女はコーディの手を離し二、三歩先を、てけてけと子供らしい可愛らしい足取りで進んで行った。

 

 コーディがロランを誘ってこの場所に足を踏み入れた時には既に十歳で、目の前にいる少女よりはずっと大きかった。けれど子供時代を想起させるのには十分なようで、懐かしい記憶をあちこちから刺激されながら、彼女の後を追った。


「先生が、今の旦那様から最初にもらった贈り物は何?」


 お菓子、お花、特別なお手紙、と彼女は贈り物の定番を幾つか列挙したが、正解はなかなか上がって来ない。

 普通なら一番初めにそんな贈り物はしないんだぞロラン、とコーディはここにはいない夫に指摘をしながら、懐かしさに思わず口元を綻ばせながら、当時の事を話す事となった。


「……絵姿ですよ。お互いに描き合って、交換して今でも大切に」

「……先生の旦那様は軍人なのに?」

「ええ、子供の頃から大切にしている習慣で。今でも年に数枚ですけれど、完成させては見せてくれるのです」


 現在のロランは軍の士官学校を出て、正式に公爵領の軍人として身を立てる事になった。けれどやっぱり絵を描く事、それは彼にとっては短くとも大切な時間のようで、暇を見つけては少しずつ作業を進めている。ついに油絵具にも手を出して、セクターのお屋敷の一室をアトリエに改装して使っていた。


 彼女はどういう想像をしているのか、頬を赤らめて素敵、と呟いた。こんな齢でも既に女の子らしさの片鱗を既に覗かせている。コーディがこのくらいの齢の時は、ジョシュとグレンと走り回って遊んでいた腕白だった。身近な比較対象は、ロランの妹のシャーロットの方がずっと相応しいだろう。セクターの両親から優しい気質を受け継いだ、コーディにとっても大切な妹である。



「……ところで、どうして私にそのようなお話をなさるのでしょうか」

「あら、コーディ先生。わたくしは王女ですもの。いつかは国のために結婚をするんですから、あくまで後学のためです」


 そう、公爵家に王妃陛下と共に滞在しているエレノア王女殿下は、こちらに向かって取り澄ました顔で返事をした。

 現在、第二子を身籠っている王妃陛下は国王陛下の勧めで、公爵領に滞在している。出産後に体調が落ち着くまではこちらで過ごす予定になっていた。この土地は夏が暑いのだが、むしろ王妃陛下が生まれ育った国の気候に近いらしく、故国から連れて来た女官や護衛達も含めて平然と過ごしていた。



 現在国内は安定しており、必然的に人々の関心は跡継ぎの誕生へと向けられている。隣国から迎えた王妃陛下に圧し掛かる心理的な負担を軽減するために、一時的に公爵領に身を移す事を、国王陛下が決断したのである。


 王族が本来の居城である王宮を離れて出産に臨む事には反対の声も多く、医療の水準も理由の一つに挙げられた。しかし国王陛下曰く、十年も前に優秀な王宮医務官の一人を公爵領に派遣しており、必要な態勢は既に整っている、とおっしゃったそうだ。そういう経緯で、現在の公爵領は医師も、警護に人手を割いている軍も、そして役所も大忙しである。


 暗に名指しされた父はもちろん、当初の目標だった女性初の医師の資格を得たコーディは、公爵からの要請で王妃陛下付きの医務官の一番下に名前を連ねている。主な仕事は王妃陛下の体調に目を光らせて、他の医務官達の迅速な処置に繋げる事。

 他には、王宮から来ている女官達との公爵家との橋渡し役である。後者はあまり医務官は関係がないのだが、若い公爵は一人でも多く、自分の息のかかった人間を王妃陛下のなるべく近くに配置しておきたいらしい。向こうの人間関係をはじめとした大量の知識に翻弄されつつも、こちらにも反論の余地はなかった。

 

 せっかく結婚したばかりなのに、という気持ちは心の奥底に留めて、コーディは時折警護のために屋敷にやって来るロランを見つけるのを楽しみに、無事もなくこの仕事が終わる日を待ち望んでいる状態である。 


「それからわたくし、先生の旦那様にはある恐ろしい噂が出回っていると耳にしたのですけれど。先生の腕はちゃんと肩とくっついていらっしゃる?」

「……」


 どうして王女殿下が知っているのやら、とコーディは頭を抱えたくなった。恐ろしいというよりは馬鹿馬鹿しい噂話で、ロランは握手した相手の腕をねじ切るというとんでもない特技の持ち主だと、まことしやかに囁かれているのである。

 おそらくはロランが購入したばかりの新品の懐中時計の手回し螺子を誤って壊してしまった話や、ジャムの入った瓶の蓋を衛生上の理由から力いっぱい締めたおかげで他の誰にも開けられなくなった話が誇張されているに過ぎない。

 細かい作業であれば問題はないのに、力仕事になると急に加減がわからなくなる、とはロランの言い訳だ。

 そこから派生した与太話を信じている人間が多いらしく、夜会等でロランと握手する事になった紳士の皆様方は総じてロランの顔を心配そうに凝視しながら手を握り合っている。


 一体誰がそんな話を広めたのだ、とコーディが真っ先に思い当たったのはセクターの家の使用人のケニーである。しかし彼は必死に否定したため、真相は闇の中となった。そして一番腹立たしいのは、当の本人が噂を特に訂正する動きを見せない事だ。


 本当のロランは絵描きが趣味の優しい好青年なのに、とコーディは微妙な空気の中で握手が交わされるのを見ている事しかできないのだった。



「……それでね、コーディ先生、わたくしは下の子のお手本になるような良い姉君にならないといけないんですって」


 コーディが頭を抱えている間に、彼女は庭園の奥へ向かう途中で寄り道をして、小川のほとりへやって来た。きらきらと揺れる水面を覗き込んで、小さな手を水の流れに差し入れて遊びながら声を潜めた。コーディも制服の上から着込んでいる白衣の裾を汚さないように気をつけながら、一緒に川面を覗き込んだ。

 

「わたくしは弟でも妹でも早く元気に生まれて来て欲しいって、毎日聖女ユニス様にお祈りをしているの。けれど皆は跡継ぎを望んでいて……。ねえ先生、もし弟が生まれたら、わたくしは本当に良いお手本として振る舞えるかしら」


 どうやら本人がコーディに聞かせたかった話に、ようやく差し掛かったようだ。王女殿下の美しい銀の髪は王族の特徴で、幼い彼女が既に背負っている重責の象徴でもある。ゆらめく水面は鏡の役割を果たし、微かに自分達の姿が映っていた。


「……お祈りとは、どういう形で?」

「ちゃんと、毎朝鏡を見てやっているの。聖女ユニス様は鏡の中から見ていらっしゃるって、お母様がおっしゃっていたから」

「……それなら殿下が姉君になった後でも、毎朝鏡をご覧になる時には、大切なご自分の気持ちをきっと思い出すでしょうから」


 コーディ自身は鏡を見る事が嫌いな子供だった。今でも鏡を見る時に真っ先に思うのはその時の苦い感情である。当時はそれなりに将来にも悩んで、挙句の果てには『ユニスの神殿』に迷い込んで大騒ぎになるような事態を引き起こした。

 

 けれどその時に一緒になって、ロランが剣を鞘ごと引き抜いて、必ず傍にいると約束してくれた真面目な声が頭の中にはっきりと聞こえて来る。今のコーディは医者として、セクターとレヴァンスの両家からの理解を得て仕事をしている。決して一人ではない事を考えると、不思議と落ち着いた暖かい気持ちになるのだ。


「ここへ来ると、彼と初めてここへ来た時の懐かしい気持ちを自然と思い出します。記憶と気持ちは繋がっているのですよ」


 あの時はまだ、少なくとも庭園の中にいる時点では、まさか将来夫婦になるとは思っていなかった。けれど間違いなく、ロランの事を意識するきっかけになった場所である事も確かだった。


「……もし喧嘩をなさっても、眠る前にはお休みのキスをお忘れになりませんよう。もし何か悪戯をして怒られていたら、黙って横にお立ちになって下さいませ。きっと、殿下のお気持ちは伝わる事でしょうから」


 コーディが自身の経験を交えながら伝えた言葉は、少しは王女殿下の心持ちに影響を与えたらしい。こちらを振り向いた幼い少女の瞳には、先程までとは少し違う色が浮かんでいる。

 それはコーディがあの不思議な神殿でロランと向き合った時に、彼がコーディに分けてくれたものと、おそらくは同じだろう。


 子供らしい屈託のない笑顔で、エレノア王女の寄り道はどうやら終わりらしい。コーディの大切な記憶によく似た小さな子供の手の平が、庭園の奥へ向かうために差し出された。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ