第16話 ロランの剣
「僕は養子になった時に、母上と軍の行事を観に行ったんだ。そこで父上が騎馬隊を率いている姿を見て、それがすごく格好良かった。ああいう大人になりたいと思えたから、それで救われたと思う。でも、コーディが、……お母さんの事を」
ロランはコーディに掛ける言葉を探している様子で、しばらく逡巡していた。見つからなかったのか、それとも口に出すのは止めたのか、長く長く、息を吐いた。
「……それは、辛いと思う」
ロランはやがてそれだけを苦い声でつぶやいた。コーディが自分の我儘で悩んでいる事を、ロランはまるで自身の問題であるかのようにように重く、深く受け止めてくれたらしい。彼の優しい部分をまた一つ知って、コーディはそれだけでも救われたような気がした。
そんな風にしてまるで鏡の自分に向き合うように、手を取り合ったまま迷子のように、二人はしばらく立ち尽くしていた。ロランは目を閉じて何か考え込んでいて、コーディはそんな彼の事をじっと見ていた。
「ロラン、私の話を聞いてくれてありがとう」
コーディは、両親も兄弟の事も大好きだ。それは嘘ではない。父の背中を尊敬しているのに、母の華奢な身体に抱き着きたいのに、兄と弟と他愛のない遊びがしたいのに、今は何故か無性に悲しくて、悔しくて、妬ましい。そのせいなのか行き着くべき姿も、戻りたい場所も見つからなくなってしまった。
「ねえ、コーディ」
「な、に」
泣き出さないように、コーディはゆっくりと返事をする。喉元までせり上がっている感情を下に押し込めてから、顔を上げた。
「話し相手が欲しい人をわざわざ尋ねたり、指文字なんて勉強してみたり、お父さんの書斎の難しい本を読んでいるのは何のため?」
ロランが問いかけて来た言葉に対する答えは明快だ。父と同じ医者になりたかった。母を元気づけられるような知識や技能が欲しかった。コーディの将来の夢は、他の世の中の子供達とそう大差ないように思えた。だから否定されて、叶う事はないだろうと薄々わかってしまって、悲しかった。
彼の声に促されて、コーディはゆっくりと言葉を返すための気持ちを探した。それは、泣きたい気持ちでいっぱいになってしまった心の中にゆっくりと手を伸ばして、大切な欠片を探し出すようだった。家族に言えなかった心の中を吐き出した事で、今は少し落ち着いている。他の誰でもない、ロランがいてくれて良かった、と思う。
「僕は、コーディの事を尊敬してる。だから、諦めて欲しくない」
「……うん、ありがとう」
ロランにはコーディの心の内が手にとるようにわかっているみたいだった。素直に褒められると恥ずかしく何も言えなくなるけれど、コーディは頑張ってお礼の言葉を口にした。
「それから、僕達はもうすぐ子供じゃなくなる」
ロランは話を続けた。子供から大人になるという事、自分が何者かを知る事である。コーディが思い出した言葉は、父が何かの折に口にしたのか、それとも神殿で耳にした説話の一部なのか、定かではなかったが。つまり子供染みた我儘は、もうすぐ許されなくなるという事だ。
それは、なりたい自分もなるべき姿も見失いつつあるコーディには途方もなく恐ろしい事に感じられた。まるで夜の暗闇に身体一つで問答無用に放り出されて、これからどうしたらいいのか、何かが潜んでいるのではないかという不安に襲われるような感覚に似ている。
「祭司様達は神殿に来た子供に、『親に従いなさい』って教えてくれる。だとすれば、大人になった人には何て助言するのか、コーディは考えた事がある?」
「……大人の人に?」
「だって、ここは神様と聖女ユニス様に一番近い神殿だから」
「……ああ、なるほどね」
高い石造りの壁と天井、静かな礼拝所。自分達の他には、誰の姿もない。神様も、聖女ユニスも護衛剣士様も、自分達のやり取りに耳をそばだてているかもしれない。否、きっと聞いているはずだ。
「……大人の人になら、きっと良心に従いなさいとか、正しい事柄を常に探し続けなさいとか、かな。はっきりとは言わずに、背中を押すような言葉にするんじゃないかな」
コーディは声に出してみて、いつか父に言われた、自分で答えを出しなさい、という言葉を思い出した。選択を尊重する、と続けてくれた声が脳裏に甦る。つまり大人になる、という事は身体の成長の事ばかりではないのだ。
自分で決めて、自分で責任を取る。それは人生を決めかねない重い決断だから、自分の母はあんなに、コーディの心配をしているのだろう。
「コーディが自分の夢も、お母さんの事も同じくらい大切なら、方法は一つしかない。……叶える手段を考えるんだ」
コーディが延々と考え続けても答えが出なかった事に、ロランは実に彼らしい答えを出した。コーディが母の事が大好きなのと同じように、父の仕事を強く尊敬している。私ならできるのではないか、と夢を抱いた日の事を思い出した。
ねえ、とロランは顔を上げたこちらを様子を見ながら、一度繋いだままだった手を放した。何をするつもりなのか、一歩だけ後ろに下がって距離を取る。
「この辺は、騎士をたくさん輩出した土地だから、今でも軍人には古風な入団の儀式があるんだよ。領主様と神殿の偉い人も呼んで、自分の在り方を宣言する」
こんな風に、と彼はその場に膝をついて、儀礼用の剣を鞘ごと腰から抜いた。刀身なのか鞘なのか定かではないが、擦れて硬質な音を立てた。彼は右手だけで剣を石の床と平行に持って、コーディをこれ以上ない程、真剣な眼差しで見上げた。
「僕は、コーディが未来を憂いているなら、必ず力になると約束する。僕は君を尊敬する。力になりたい。そのための努力を惜しまない。医者になっても、別の道を選んでも」
彼の声は落ち着いていたが、石造りの神殿の礼拝所に重く、そしてはっきりと響いた。ずっと聞こえているはずの雨音が気にならなくなるくらい、ロランの誓いには強い意思が込められているのを感じた。
「僕は、あなたを守る剣になる」
コーディは女の子なので、彼のように剣を手に持った事は、ふざけて兄の練習剣を借りた数回程度だ。思ったよりずっと重かったのをよく覚えている。今、ロランの気迫に促されて、コーディはおそるおそる、彼が差し出した黒い鞘と柄を触った。
「もう一度、真剣に、お母さんに打ち明けるんだ。興味本位でも我儘でもなく、自分の未来の話として、医者になるって。夢を叶えてお母さんを支えて、一つでも多く幸せになるためだって。お母さんも君の事を愛しているから、絶対に無碍にはできない」
コーディはゆっくりと頷いた。母は母で、少々どころではなく変わった娘の事を、誰より心配してくれているのだ。いつか結婚して家を出たらもう守ってあげる事は難しくなる、と父に詰め寄っていた声の必死さを、思い出した。
「もし、コーディのお母さんがそれでも結婚相手が将来が心配だって言うなら、大人になったら僕が、ロラン・セクターが結婚して大事にするって聖女ユニス様に誓うのを確かに聞いた、って啖呵を切ってもいいんだ。『私は必ず幸せになるって、正しい道を選択できる』って。だって、自分の未来だから」
ロランのどこまでも真面目な宣誓を聞きながら、そんな説得の仕方があるのか、と我に返ったコーディはしばらく言葉を失っていた。今のはどこまで本気なの、と問い質す空気ではない。彼はどこまでも真剣な様子で、もう一度口を開いた。
「君が大人になった時に、僕も一番格好良い男になる。迷わず、僕を選んでくれるように。レヴァンス夫妻に是非、って言ってもらえるような。だから僕を信じて、コーディ」
戦え、剣をとれ。父親のような立派な軍人を目指すロランが言ったのはつまりそういう事だ。そして、コーディも形はどうであれ、受け入れると決めた。ずっと膝をついていたロランは立ち上がって、一本の剣を共有するように持ちながら、二人は向き合う。
「私も、……うん、頑張る」
「コーディなら、……?」
彼が不意に言葉を切ったので、コーディは不思議に思った。その時にようやくもう雨の音が聞こえない事に気が付いた。
「……もしかして、晴れた?」
その時にちょうど、高く澄んだ不思議な鐘の音が二人の耳に届く。ここへ迷い込んだ時の事を思い出し、二人は明るくなっている礼拝所の天井や窓を見上げて、弾けるようにその場を駆けだした。ここへ来た時とは違って、コーディの足は古い石の床を軽やかに蹴って、ロランにも負けない速度である。途中の小さな段差は身軽に飛び越えて、風がふわりと髪を揺らしていく。走っているせいなのか、それともロランと約束した中身のせいか、心臓がどきどきと大きく脈打つのがはっきりとわかった。
外へ転がり出るようにして目に入って来たのは、神殿を囲むようにしていた霧や湖の水面ではなく、緑の緩やかな丘陵地帯だ。近くにはたくさんの馬車が止まって、繋いでいる馬まで見えた。雲一つない青空の下で振り返った先には、石造りの神殿が静かに佇んでいた。
「……ここどこ?」
「……戻れたんだと思うけど」
ロランは手に持っていたままの剣を腰に収めた。そのきれいな所作に思わず見入っていたコーディの耳に、聞き慣れた低く大きな吠声が聞こえた。それは一つではなく、やがて神殿の裏手から、似たような茶色と黒の三角耳の犬達が大量に、二人に向かって突進して来るのが見えた。ロランがコーディを庇うように前に割り込んだ。
「……なんだ、軍が飼っている犬だ」
「あれ、チョコちゃんも混じっている」
ロランは彼らがお揃いの首輪をしているのを見て拍子抜けしたように呟き、コーディは先頭を切って飛びついて来た個体が屋敷にいるはずの番犬である事に気が付いた。実は父が、二人の捜索に役立ってもらうつもりで連れて来たのである。その経緯は知らないながらも、とりあえず鼻面をよしよしと撫でてやった。他の犬達は二人を取り囲むようにグルグル回った後、誇らしげに朝の空に向かって吠えたてた。
「コーディ、……ロラン君も」
犬達に呼び寄せられ、神殿から大人達が出て来るのが見えた。自分達の父親を先頭に神殿の祭司様、それから大勢の軍人らしき姿がとにかくたくさんやって来るのが見えた。コーディの父であるレヴァンスが、まだ少し呆然としている二人の子供に目線を合わせた。
「……良かった、帰って来てくれて。気分はどうかな、どこか痛いところはないか」
第一声が叱責ではなく、体調を心配してくれている事にコーディはほっとした。会えなかったのはたった数日の話にも拘らず、大勢の目がなければ泣いていたかもしれない。
「……ずっと屋根がある場所にいて睡眠も食事もしっかり、ちゃんと」
こういう時に最小限のやり取りで済むので、自分が医者の娘で良かったと思う。ね、とロランに同意を求めると、彼もまだ状況が呑み込めていない様子ながらも頷いた。それを見て、神殿の前に集まった人々には、安堵した空気に包まれる。
よく頑張った、と父は労いの言葉を掛けながら、少し声を潜めた。
「……疲れているフリをしていなさい。後の事は何も心配しなくていいから」
父は細身な体格とは裏腹に、子供二人を両肩に軽々と担ぎ上げるようにして立ち上がった。皆さんのおかげで子供達が、と父は周囲の人達に声を張り上げた。そして医務官という立場を最大限に利用して、とにかく子供達を休ませるのが先決です、と宣言するのを聞いた。