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第15話


「お母さん」


 額と視界を覆う、母親の手の平は冷たくて心地よかった。大好きな声が、先ほど頑張って飲み込んだ苦い薬が効いているのだと慰めてくれた。幼かった頃のコーディが高熱を出して寝込むのは、冬の間は、特に珍しい事ではなかった。


身体を起こしてコップをもらい、飲み込んだ水の冷たさが喉から身体のもっと奥の方へ、ゆっくりと降りて行くのを感じながら、再び横になった。随分汗をかいたようで、髪の毛や背中がべとべとしている。


「……ジョシュは? グレンは元気?」

「ジョシュはよくなって、さっきグレンと一緒に、コーディにお手紙を置いて行きましたよ。後で読んであげるからね。お父さんもさっき帰って来て、顔色が良くなったのを見て行かれましたよ」


コーディは熱のせいで潤んだ視界で瞬きをしながら、身体の向きを母親の方へ変えた。すぐ傍には今の言葉の通り、折り畳んだ紙切れが重ねて置いてある。

 

 母は、身の回りの事を使用人に委ねるのに抵抗はないが、自分の子供を看病する事に関しては、少しも時間と手間を惜しまないでくれた。そのおかげでコーディは、目が覚めた時に寂しい気持ちや心細い思いをほとんどしなくて済んだ子供だった。

 

 双子はどうしても、身体が小さいまま生まれる事が場合が多く、その分病気に罹りやすい面もあるという知識はまだなかった。暇さえあれば父親の書斎に忍び込むようになるのは、もう少し成長した後の話だ。

 他にも男女の双子は特によくない、嫁の行先が無くなる、という俗説も聞いた事があった。その意味を知るのも、もっとずっと後になってからだ。



「お父さんが、生で食べるのは良くないかもしれないからって、料理長が美味しく煮てくれましたから。さあ、口を開けて」


 一体どんな風に作っているのか、匙に掬い上げられた大好物は、砂糖と少しのお酒でゆっくり加熱して、味や香りはあまり普通のリンゴと変わりはない。コーディが、本当は皮を剥いてそのまま食べるのが一番好きなので、レヴァンス家の果物の甘煮はさっぱりとした味付けになっている。


「お母さんは大丈夫? ちゃんと、おやすみになった?」

「医官の妻ですもの。このくらいはどうって事ないのよ、コーディ」


 コーディが心配すると母親は一層優しい手で、まだぼんやりと熱を持ったままの額を撫でてくれた。









 コーディは何度目かの寝返りを打って、これ以上目を閉じていても、どうやら眠れそうにないだろうと結論付けて、身体を起こした。どうやら子供の頃の夢を見ていたようだ。

 ある程度暗闇に目が慣れて来たようで、隣の即席の寝台ではロランが、こちらに背を向けて確かに寝息をたてているのが見えた。早起きの彼がこの様子なら、今はまだ夜中の時間帯だろう。コーディはそっと起き上がって寝台を抜け出し、できるだけ静かに靴を履いた。

 

 ブーツの紐を結んで立ち上がると、コーディの視線の先には神殿の鏡が置かれている。しかし、やはり薄暗い室内が映るだけだった。

 コーディは、鏡の中にいた不思議な少女の事を思った。美しい、幼い娘がコーディに似ているような気がしたのは、鏡という自分の顔を見るための道具、という前提で見つめたからなのかもしれない。それともロランが会ったという他の誰かが、何かここを出て行くためのわかりやすい手がかりを示してくれないだろうか、と期待したが、やはりそう上手くはいかないらしい。



 コーディは鏡に一番近い椅子に腰を下ろして、昼間のロランとのやり取りを思い出していた。お互いの絵を描き合うなんて、どんなに仲が良い間柄だとしても、なかなかできないやり取りである。時間が経った今でも、まだ少し恥ずかしい。

 しかしこんなに仲良くなれるとは、ロランという少年について、事前に兄から聞いていた話からは、とても想像できないだろう。



「……コーディ?」  

 

 目が覚めたらしいロランが、鏡の前に膝を抱えているコーディを見つけて、やれやれと息を吐くのが見えた。こちらがいなくなったのかと思ったようで、咄嗟の習慣なのか、彼の手には祭事のために用意された、綺麗な鞘に収まった剣を掴んでいた。


「……ごめん、眠れなくって」


 ロランは寝台を下りてこちらへ来ると、コーディに体調が悪いのかと尋ねて来た。考え事をしていただけだから大丈夫、と返答すると彼は剣を持ったまま横に座った。もう少し寝てて、とコーディは言ったけれど、彼はそばを離れようとはしなかった。


「いつもならもう、起きている時間だから」


 ロランにそう指摘されるまで、コーディはてっきり夜中のような気分でいた。しかし、貸してもらった懐中時計を確認すると、確かにもう早朝の時間帯である。


「……何を考えていたのか、聞いても大丈夫?」


 彼はどうやら心配してくれているらしい。コーディは、小さい頃の夢を見てしんみりとした気持ちになった、と正直に答えていいものかと考えた。ロランに、子供っぽいと思われたくはなかった。



 だから、別の話題を口にした。


「……私は、鏡を見る時はどんな顔だったかなって」


 コーディとそっくりな容姿の兄弟ではなくて、本当に自分の顔を見るのなら鏡を使う以外に方法はないように思う。

 それだけではなくて子供、特に女の子は、鏡を真剣に見つめなければならない。そうしている時に、聖女ユニス様は特別にその子の事を気にかけてくれている、と両親や神殿に言い聞かされて育つからだ。


「朝起きた時ってまだ眠いし、身支度はやってくれるから真剣に鏡を見ていないなって。それじゃあダメなのはわかっているんだけど」


 コーディは椅子に座らされて、後は人任せである。時には本当に寝てしまい、お嬢様、と苦笑交じりに肩をとんとんと叩かれる事もしばしばだ。しかしそのうちに化粧を欠かさない年頃になるし、夜会等に顔を出すようになれば、出先で使用人の手を借りられない場面はいくらでも出て来るだろう。


「……可愛い衣装を着せてもらって鏡の前に立つと、皆は似合うって気を遣って言ってくれるよ。けど、自分の顔を見ると、作り笑いしているのはわかるから」


 コーディは鏡の中の自分と目が合った時、目をそらすようになった。こちらへ移って来てから、この祭事の準備が始まってからは特に、そうするようになった。

 聖女ユニス様が鏡の中から見守って下さっているというのなら、名前を一時的に名乗る子供でありながら、と親のいう事を聞こうとしない子供にお怒りだったかもしれない。



 ねえ、とロランが口を開いた。


「……すごく、今更な事を話してもいい? コーディ」

「何?」

「……初めて会った時に、ジョシュと間違えてごめんなさい。今思うと、すごく失礼だったと思う。本当にごめん」


 ロランが物凄くバツが悪そうな顔で謝罪した。しかしコーディは本人には悪いとは思いつつ、その本当に申し訳なさそうな声が、可哀想で少し可愛く思えてしまった。


「コーディは笑ってくれたけど、きっと内心はすごく怒らせただろうから。僕も父上もどうしようかって馬車の中で反省会していたんだけど」

「……ロランには悪いけど、私はあの日のうちで一番愉快な出来事だと思った」


 二人はお互いの認識が全く食い違っていた事に、しばらく口を閉ざしていた。先に我慢できなくて、笑ってしまったのはコーディの方だった。


「ロラン、あれこれ何でも悪く受け止めると、身体に悪いよ。大体さ、レヴァンスの子供が三人とも同じ顔なのを利用して、おやつを二重どころか三重取りを目論むなんてよくあるし、名前を交換していつまで隠し通せるか競い合う遊びもよくやったし。それに……」


 もっと子供だった頃は、楽しい記憶に溢れている。両親は優しかった、コーディが男の子の格好をした程度では、むしろ見え見えの演技にわざと引っ掛かって、笑ってくれた。病気もよくしたけれど、無事に大人になれる事を疑うほどではなかった。



「白状するけど、ずっと子供のままでいられたら、って最近ずっと思っていたんだ」

「……僕は早く大人になりたいけど」


 コーディとは違い、ロランには彼の父に認められるような立派な男になるという輝かしい目標があるのだ。剣を手に、大人になった彼なら、きっとその願いを実現させるだけの実力を身につけるはずだ。

 ロランは憮然とした表情を崩さない。コーディは、彼が黙っているのを良い事にこの際だから、と前置きした。


「私だって、本当は。……本当は男の子に生まれたかった」


 コーディにとってこの気持ちを口に出すのは、決して初めてではない。少なくとも兄と弟は知っている。冗談交じりに何回も聞いてもらっている。


「……やっぱり、そう思っているんだ」


 ロランは、どうしたって覆らない事実を嘆くこちらを、咎めている口調ではない。声は静かだったが、目は明らかに不本意だと言外に告げている。


「そんなに悪い?」

「……わからない」


 わからないけど、とロランは同じ言葉を繰り返した。


「……それは、なんて言うべきかわからないけど……苦しくはない?」


 そんなのはおかしい考えであり振る舞いだ、とコーディはロランに頭ごなしに否定されるつもりで打ち明けた。だから、むしろ心配するような口調で尋ねられた事が、かえって喉の奥が苦しくなった。


「……そうだよ。そうしたらお母さんだって、私にはお父さんみたいな立派な医官を目指せって、絶対に言ってくれるはずだった。応援してくれて、味方になってくれたのに。わざわざ女の子なんかにした神様は意地悪だ、ジョシュとグレンと顔は同じにしたくせに、性別だけ思い付きみたいに、変えなくたって」


 鏡の中にいた誰かはロランに向けて、己と対話せよと助言をくれた。けれど一緒にここへ連れて来たはずのコーディには、どうしたらいいのかは何も教えてはくれない。


「私は、お父さんみたいなお医者様になるのが夢だった」


 ロランと一緒に出掛けた馬車の中で、彼に話した事を、あの時と違うのは、普段は奥の方に隠して考えないようにしている事柄に、踏み込もうとしている事だ。


「この国にはまだ、女の人のお医者様はいないけれど。私なら一生懸命勉強して、そうしたらなれるんじゃないかと思った」


 コーディにはやる気があった。父は優秀な医務官であるし、理想的な条件が揃っている気がした。市井に出れば、親や近所の手伝い、神殿の仕事として先生、と呼ばれている女性はきっといるだろう。けれど、正式に国に認められるには、決められた学校に在籍して学ぶか、弟子入りでもして経験を重ねる必要がある。そのための学校は現在、国の中に二つある。一つは王都の一番大きな大学、そしてもう一つはこの領地内に存在している。両親も娘が本気である事をわかってくれれば、何より大きな力になってくれると思った。


 最高の思い付きだと思った矢先、父が仕事の都合で王都を離れる事が決まった。近い親類がいるわけでもない、それまで縁の薄かった場所だ。王都ではもう仕事をしないのか、と聞いてみると、父はそうだと答えた。しかしやる事は変わらない、と続けた通り、医者としてむしろ以前より精力的に働くようになった。  

 結果として、父はこの新しい土地の人々に受け入れられた。先生のおかげで、と屋敷を訊ねる人は嬉しそうに、またある人は目頭を手巾で押さえながら、父への感謝の言葉を口にしていった。



 一方、こちらへ来てから、母親は少し変わったように見えた。環境も気候も違い、友人知人も少ない土地へ来て、気を張り過ぎているのかもしれない、と思った。使用人も、父母を慕って付いて来てくれた人より、王都へ残ってお別れになった人の方が多い。それは仕方のない事だけれど、コーディのような家の中にいるばかりの子供が比較にならない程、母には負担が掛かっていた。


 だから、お医者様になりたいの、とコーディは母に言った。記憶の中の母親は、医官である父を尊敬していた。その広い見識や、患者に寄り添う姿勢に、尊敬していたと思う。


「でも、お母さんは」


 だったら、もしコーディが医者になったら、同じように母の助けになれるかもしれないと考えた。愛してくれた分を、返さなければ、と思っていた。


「『女の子のあなたに、できるわけがないでしょう。我儘を言わないで』って」


 まさかそんな理由で反対されると思っていなかったコーディは呆然として、対する母親も似たような表情を浮かべた。今日はもう部屋に戻りなさい、とその日の会話はそれきりである。

 表面上は、以前と何一つ変わらない。朝、顔を合わせたら挨拶をして、一緒にご飯を食べて美味しいね、と声を掛けて、寝る前はおやすみのキスをする。


 けれど、コーディを、ジョシュとグレンと同じように扱うのは止めて欲しい、と父に訴えていたのを聞いてしまった。あの子の将来の事を真剣に考えて欲しい、と。あの子は女の子じゃないか、と。父はどう返事をしたのか、それもわからない。


 一般的に言えば、コーディは女の子だから、いつかは家を出て行く事になる。結婚相手をはじめとした相手の家が、父のように寛大ではない可能性の方が高い。そうしたら、婚家の中で孤立無援のまま、辛い思いをする事になるのは目に見えている。普通の女の子と同じようになって欲しい、と母はそう言いたかったのだろう。

  

 神殿が子供向けに話をしてくれる時でさえ、まず一言目には両親の教えを守りなさい、から始まる。母の言い分はきっと正しい。子供の感情的な、世間知らずな我儘は一蹴して、正しい選択肢を与えるのが親の役割である。


 コーディは世間一般から見ても、運が良い方の子供だ。優しい両親、仲の良い兄弟、使用人を雇える収入と広い屋敷を父が所有している。そのどれか一つでも欠けたら、大変な思いをして生きていく事になるのはわかっている。

 その認識と、医者になりたいという気持ちを天秤にかけてどちらかを手放すように言われたら、コーディに選択肢はない。けれど本当に医者になるのを諦めた自分を、どうやって受け入れて大人になればいいのか、何もわからなくなってしまうのだ。


 本当に神様がいらっしゃるのなら。どうして一緒に生まれた兄とコーディとで、性別を揃えておいてくれなかったのだろう。

 もし次男だったら、父の手伝いから始めて助手になって、いつの日か医者として身を立てる事に、誰も反対なんてしなかっただろうに。


 でも自分の目標と夢だった、人の役に立ちたい、手を差し伸べられる知識と技術が欲しい。その願いは、女の子に生まれたというだけで否定されなければならないのか。コーディの心の一番奥底は、何一つ納得がいかないと盛んに声を上げていた。


「……女の子である事が、ずっと嫌だった。だけどお母さんの事は、嫌いになれない。困らせたくない」


 そんな事を口に出してはいけない。母のあの優しい手は、コーディの小さい頃の幸せな思い出だ。わかっているのに、医者になりたかった夢を捨て去った時には、自分はこれから何を楽しみに、何を目指して生きていくのか、わからなくなってしまうだろう。

 

 しかし、逃げたところで何が解決するわけではなく、時間だけが過ぎて行く。急に子供が消えてしまったレヴァンスとセクターの両家、そして祭事には領主様も神殿も大きく関わっている。大勢の人が、二人の安否を心配しているに違いなかった。



「コーディ」

「……ロラン?」


 座ったまま俯いたコーディの手の平に、正面に立ったロランが手を伸ばしたのを見た。剣はいつの間にか、彼の腰に提げられている。手を握って、痛くはないがしっかりと、手を胸の高さまで持って来た。つられて立ち上がると、それはまるで祈りを捧げているような奇妙な恰好である。


 目の前にいるのはロランで、兄や弟ではない。けれど子供の頃は、よくこんな遊びをしていた。同時に手を振る、足を動かす、片目を瞑る、耳はどんなに頑張っても、誰も動かせなかった。

 コーディは正面にいるロランの事を見た。彼も目を逸らさないで、ゆっくりと瞬きをするのが見えた。

 

 厚い雲の上では夜が明け始めている時間なのだろうか、少し明るくなっているらしい。彼の綺麗な紅茶色の髪が、いつだって鮮やかに目に映る。

 今、目の前にいるのは似ても似つかない別の人間だ。しかし、コーディには楽しかった記憶のせいなのかもしれないが、少し不思議な感想を抱いた。

 

 まるで、鏡を見ているようだと思ったのだ。


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