第14話
翌朝、コーディは雨の音で目を覚ました。流石に、まだ降っているのかという落胆する気持ちは抑えられなかった。雨の中、湖に向かって泳ぎ出すという案も頭に入れておかなければならないかもしれない。
「ロラン起きた……?」
コーディは身体を起こして隣を窺ったが、ところが横の寝台はもぬけの殻である。被っていたシーツはきちんと畳まれていて、枕の上に少し剣の練習をするという、伝言を書いた紙きれが置いてあった。こんな時でも鍛錬か、とコーディは半ば呆れつつ感心しながら自分用のベッドを下りた。これが彼の普通なら、自分の兄がいくら剣の練習をしても、一向に打ち勝てる様子がないわけだ。
コーディは目を擦りながら、昨日の夜の暗い中、ロランと話をした事を思い出した。彼が養子だという話は初耳である。もしジョシュが知っていたら事前に、万が一に彼を不快にさせるような事を口走るのを避けるため、という名目で教えてくれていたはずだ。それが無かったので、知らない人間の方が多い情報なのだろう。
それを、コーディには教えてくれた。秘密を打ち明けられた事で、自分の胸の中には不思議な気持ちが生まれていた。彼がこちらを信用に値する人間だと判断してくれた事を、どうやら自分は嬉しいと感じているようだ。
その気持ちのまま、ロランの事を考えた。口数が少なくて、軍人の家の子供として剣の稽古に励み、しかし、コーディのお願いはちゃんと快く応じてくれた。今もこうして、一緒に神殿を出る手段を探してくれている。昨日、コーディがとても動きにくい祭事用の衣装だった時は、階段を降りる時は手を貸してくれた。
「剣が強くてすごいのは置いておいて、優しい事がもっと広まれば友達なんてすぐできるよね、ロランは」
コーディはロランが同年代の大勢の子供達に、人気者として囲まれる様子を思い浮かべてみた。しかし彼はいつも通りの生真面目な顔で、じりじりと周囲から距離を取りそうな様子しか想像ができなかった。
仕方がないのでその隣に、よし行けそこだロラン、と応援する自分を追加してみたのだが、彼に怖い顔をされてしまいそうである。
そんな事を考えつつ、コーディは礼拝所の鏡を見つめた。誰か、ここを脱出するヒントをくれそうな誰かが映らないかと期待したが、やはり誰の姿もない神殿の中が映されているだけだった。
そのためロランが戻って来るまでに、どうやって身だしなみを整えるのかを思案しなければならなかった。
「鏡が使えないと、結構不便だよね」
これで、お化粧が欠かせない年ごろであれば、大変難儀していたに違いない。コーディは試しに礼拝所を出て食堂へ行き、水を張った盆を色んな角度から覗き込んでみたのだが、やはり自分の姿は素通りして天井が映っている。ため息をつきながら、髪を濡らしていつもより丁寧に整えて、最後に手で触ってどこにも寝癖がついていない事を確認してから戻った。
回廊へ顔を出すと、もうすっかりおなじみになりつつある、彼の綺麗な紅茶色の髪が見えた。ロランはもう朝練をしっかりこなした後らしく、腕で汗を拭ってからまた剣を振り回しているので、コーディは声を掛けず、そっと踵を返した。邪魔をしたら悪いだろうと、とそう思ったのである。
コーディは礼拝所へ戻り、荷物の中を漁った。もしかしたら雨が降るかもしれないから、と屋敷から本を持ち込んでいた本を広げた。勉強していた指文字が、なんと鏡の向こうの誰かとやり取りをするために役立ったのである。これからも真面目に覚えよう、という気合が入っていた。
十数頁を読み進めたところで、足音が近づいてきた。やれやれと稽古を終えたらしいロランに朝の挨拶をして、コーディは本を閉じる。
「ロランは何か食べた?」
「いや、まだ」
「昨日、私の部屋にリンゴがあったからさ、今から皮を剥くから色が変わらないうちに食べよう?」
「わかった」
手を洗って来る、と彼は練習剣を壁に立てかけてその場を離れた。その間にコーディは食堂から拝借した小さなナイフを使い、りんごをくるくると回しながら赤い表皮を外した。大好物なので、このくらいはお手の物である。半分、四分の一、と割って芯を外している頃合いになって、ロランが戻って来た。
「夏前なのに、リンゴ」
「これは差し入れのつもりなのかな、ユニスの神殿からの」
季節感のない赤い実をやや不審に感じつつ、しかしお腹を空かせた子供達はくし型に切ったリンゴを一口食べて、やがて異常はなさそうだと判断して本格的に食事を開始した。
コーディの部屋として割り当てられていた場所には置いてあったのだが、ロランの方にはなかったそうだ。それなら他の好物が準備されていたかと思いきや、そういうわけでもないらしい。二人は何とも釈然としない気持ちで、引き続きリンゴを口に運んだ。
「……美味しい、けどこれは本当に冬の一番美味しい時期のリンゴだよね」
丁度いい甘酸っぱさと瑞々しさ。いい匂いがして、思わずリンゴにほおずりしたくなるような。一番いい季節のとっておきのご馳走だ。ご丁寧に蜜まで入っている。そうだね、とロランも難しい顔で咀嚼しながら頷いた。
「……それでね、コーディ」
どうしたの、とロランを見やると、彼はいつも通りの真面目な顔つきである。一呼吸置いてから、彼は先をつづけた。
「午前中はまた、神殿から帰る方法を探すとして、もしそのまま午後になってしまったら。……協力して欲しい事がある」
何かを思いついたのか、とコーディは尋ねてみた。しかしロランはその時に言うよ、と内容は教えてくれなかった。
「……絵の道具」
そうだ、とロランが落ち着き払った様子で言う。特に収穫もないまま午後を迎えた二人は、礼拝所でロランの父が用意してくれたという二人分の道具一式を前にした。彼のこの話し方は、意図的に何らかの動揺を抑えている時だ、とコーディにはもう何となく察せられた。
「もし祭事が長引いた時のための時間つぶしに、父上が荷物の中に入れてくれたんだと思う」
コーディは彼の父親の事を思い浮かべた。見るからに頑強な戦士、という見た目の男性である。ロランの事は家を継がせる存在として、軍人一筋に育て上げたい意向なのだと思っていたので、絵の道具を荷物にこっそり入れておいてくれた、という行動は意外だった。
ロランは昨日、絵を描くのは嫌いではないと言っていた。その言い回しはきっと、彼が父親のように強い男になりたい、という願望とはまた別に、彼が絵を描くという行為を大切にしているのだと解釈した。
「いいね、それ。何を描くの?」
コーディは、ロランの描く絵を純粋に見てみたいと思った。長椅子に並んで座っていた状態から、身体を向きをロランの方へ向けた。彼は何となく、恥ずかしいから見せたくない、と言い張ってもおかしくはなさそうな性格である。しかしこの調子ならコーディには進捗なり、完成品を見せてくれる気に違いない。
ロランはこちらの予想通り、何か言い淀んでいる。彼らしいな、と思いながら返事を待った。
「コーディを、描きたいなって」
「……うん?」
聞き間違えかと思って相手の顔をまじまじと見返してしまった。ロランはこちらと目が合うと一瞬、目線が泳ぎかけたが、瞬きをゆっくりして、こちらを見返しながら、同じ提案を繰り返した。ちょっと声が何だか微妙に上ずって聞こえたような気もしたが。
「コーディの絵を、描かせてほしい」
ロランが硬直したコーディの前で三回目の提案をしてきたので、慌てて止めた。
「いや、それは流石にちょっと……、何というか。恥ずかしいような」
神殿の景色でも描かないか、とコーディはロランに提案した。彼はその選択が、画題としては適していると賛同した。雨が降っているが、滅多に足を踏み入れる事はない古い石造りの神殿である。記録を残して置く事は大事な作業である。
でも、と彼は先を続けた。
「絵は、鏡以外の方法で、自分の姿を見るためにあるような気がして。描いている人の見え方が反映されるから、正確じゃないのはわかっているんだけど。それに、このままだと」
「う、うん?」
「このままだと、何も変わらないまま、ここにずっといる事になると思う。僕は人と接するのが苦手な臆病者のままだ」
そんな事ないよ、とコーディは慌てて否定したが、彼は意見を変えるつもりはないようだ。
「『己と対話せよ』って、そう言えば父上が前に言っていたのを思い出したんだ。剣の稽古は腕前を上げるだけじゃなく、何が自分に足りないのかを見極めて、できれば対処する方法を考えるところまでやる事に意味があるんだって」
「……なるほど」
コーディがロランのお父さんの持論に、状況を忘れて素直に感心した。レヴァンス家では自分が何を考えているのかをはっきりしなさい、までで止まっていた。
「僕は正直、人と話すのは本当にやりたくないくらいに苦手なんだけど、そこを改善するべきだって言われたら、今は頑張らないといけない時だと思う。コーディに絵を描かせてって頼めるなら、他の人に話し掛ける事は、そんなに難しい事じゃないって、考える事ができるようになるかもしれない」
「……うん、なるほどね。ロランの言いたい事はわかる、その通りだと思う、うん」
コーディはうん、うん、と無意味な時間稼ぎを続けた。こんな不思議な建物を描かないなんてもったいない、等の反論をしようとした。幾らでも理由は作る事ができるだろう。
「コーディ、お願い」
たとえば、神殿の風景を絵に描く事は、頭の中に記憶として焼き付けておくのとはまた別の、この不思議な場所へ足を踏み入れた事の記録になるだろう。きっと大人はあれこれと問い質される事になるだろうから、その時に上手くわかりやすく説明するためにも。しかし、コーディはどうやら覚悟を決めるしかないようだった。
「わかった、うん。……やろう」
コーディはたっぷり、時計の音が一周分回ってしまうのと同じくらいの間、黙った末で、ロランの考えに乗る事にした。別にもったいぶっていたわけではなく、単純に、その言葉を口にするのにそれくらいの時間がかかった。
コーディが今、顔を上げられないほど恥ずかしい気持ちでいる事より、ロランが成長の証としたいのだと、決意した頼みを断る罪悪感が勝ったためだ。
それにしても、とコーディは石の飾り気のない床を見ながら思った。たとえばの話としても、普通に好き、と意中の相手に伝えるより、仕事や課題でもないのに、絵を描かせて欲しいと頼む方が余程恥ずかしいと思った。
ロランは果物用のナイフより更に一回り小ぶりな刃物を持って、鉛筆を二本削っている。折れたら言って、と向かい側に椅子を動かして座ったコーディに片方を渡して来た。
「コーディは、絵の先生に指導してもらった事があったんだっけ」
「優しい先生は上手って、褒めてくれたけどね」
レヴァンスの三兄弟は課題、として制限時間内に、紙に好きな絵を描くように指導された。コーディは母親の絵を描き、それならと兄のジョシュは父の絵を描いた。弟のグレンは僕の考える一番かっこいい動物、として馬と狼とカラスと山羊が混ざったような化け物を得意げに描いた。その絵ですら先生は独創的、と絶賛していたので、どこまでアテになるのかはわからない。
これも聖女ユニス様が自分達に与えた試練なのか、それともただ偶然迷い込んでしまっただけの話なのか。とにかく、たとえば垂直な高い壁を登り切りなさいとか、固い岩を真っ二つに切り落とせとか、そういうわかりやすい事項を帰るための条件にしておいて欲しかった。
しかしもう、やると決めた以上、コーディも絵を描いてもらう覚悟は決めた。何かポーズを決めるとか、ロランの作業が終わるまでじっとしている必要はない、と彼は言った。そのおかげで、コーディの気分は幾らか楽になった。とにかく、自分の手元に集中していればいいのだ。
さあ、と書き始めてすぐに、そっと手をとめて耳を澄ますと、向かい側からは鉛筆を動かす不規則な音がしていた。目線をわずかに上に向けて相手の様子を窺う。ロランは手元に集中していて、コーディの視線に気が付く事はなかった。
彼の目に、コーディはどう映っているのか、それは知りたいような、心のうちに秘めておいて欲しいような、どちらとも決めきれない。とにかく、何か言葉を掛ける雰囲気ではなかった。コーディは自分の作業に戻ろうと無理矢理、頭を切り替えた。
「……僕って、こんなとっつきにくそうな顔?」
「ジョシュが毎回ボコボコにやっつけられている話をよく聞いたから、それが多少反映されてしまったかもしれない」
「……そうなんだ」
コーディはロランが椅子に座って、手元の絵に集中している絵をなるべく見たままに描いた。陰影まで丁寧にこだわると一日では終わらない気がしたので、まだ未完成、という事にしておいた。それから特に深い意味はなく、本当は荷物の近くに置いてある彼の剣を、絵の中のロランの傍に書き足しておいた。
彼はちょっと口元に笑みを浮かべながら、コーディの描いた絵に視線を落としている。いつもその顔をしておけばいいものを、とコーディは思った。しかし、恥ずかしくて言葉にするどころではない。
「ロランの絵、見せて」
「どうぞ、まだ完成じゃないけど」
ロランは引き続き、コーディが精一杯描いた絵を、素直に感心した様子で見入っている。こちらは受け取った自分の絵姿を見るのにも随分勇気が必要で、えいっと気合を入れて目を開けた。
「……これは会った時の絵じゃない?」
「そう」
絵の中のコーディらしき子供は眉と、耳の形は何となく特徴を捉えて描かれてた。今は鏡を見られない上、自分そっくりな兄弟もそばにはいないけれど、そのくらいはコーディにもわかった。まだ途中、という事で鉛筆の独特の陰影はまだあまり描かれていなかった。
それから、目つきは思ったよりやわらかい。孤児院などで父の手伝いをしている時は、こういう表情でいられたら良いな、と思っている。この絵は、ロランの主観と絵の技術による、鏡とはまた別の視点でのコーディという事になる。
コーディが今と同じような男の子の格好をしていて、手にはベールを抱えている、というのはあの日の初めて顔を合わせた時の光景だ。髪の毛と服と腕の中の薄絹が一方向へなびいていて、絵の中に風が吹いているのがわかった。
「確か、私はこの時に髪をまとめていたと思う」
「……いつもその場で描くんじゃなくて、思い出しながら絵の都合で多少は変えているから、そこまで正確じゃない」
コーディがわざわざ向き合う必要がなかったような気がしたが、深くは追求しなかった。絵の描き方はひとそれぞれだろう。なるほどね、とコーディはどこか上の空で相槌を打ちながら、ロランの絵を眺めた。
絵の観賞をする時にはまず、何を描いたものかをしっかりと見極める事から始まる。風景であれば綺麗な庭とか、誰もいない高原と地平線であるとか、あるいは海や湖、それともどこかの建物の中なのかを見極めて、そこに自分自身が入り込む事に成功した時の事を想像してみる。この絵の雰囲気ならばきっと、兄や自分の顔ならこんな風に描かれるんだろうなと思いながら、絵の中に入った気になってみた。
絵の中のコーディはベールを持って、それから風に髪を揺らしている。きっと気持ちがいいだろう、と思った。それなら狭苦しい場所にいるわけではない。あの日は穏やかな風が吹いて、過ごすやすい春の一日だった。
「いいね、風が吹いているなんて」
今の見たままの姿、ではない絵だった事にコーディは少しの驚きが混じった、嬉しいような気恥しいような、不思議な気持ちで視線を下ろした。
絵の中の自分は屈託のない笑顔のままで、あの日の清々しい午後の風に揺られている。それは決して悪くないな、と思った。