第1話
「良く似合うわ、コーディ。今日のあなたは世界で一番可愛い女の子よ」
屋敷の一室では、女性達が談笑する賑やかな声が響いている。中心にいるのはもちろん、この家の女主人であるレヴァンス夫人だ。近々予定されている春の神殿のお祭りで、娘が着るための衣装がようやく完成したところである。今日は神殿から女性祭司を二人呼んで、簡単なお披露目と確認の最中だった。
「そうかな?」
「そうよ。コーディはね、もうちょっと自信を持つべきだわ」
母親は十歳になる娘の肩を後ろから抱いて、正面に設置された鏡を一緒に覗きこみながら、自信満々にそう告げた。しかし当の本人であるコーデリアこと、コーディはどこまでも冷静だった。とりあえず素直に、自分の姿に感心している風を装っておいた。しかし心の中では、いつも通りの格好の方が似合うなと、冷めた感想を抱いていた。
「……可愛いとか、可愛くないとか、それよりジョシュが冗談半分で、女の子の格好をしているみたいだ。グレンでもいいけど」
コーディは取り澄ました顔で、大人しく鏡の前の椅子に座りながら、こっそりそんな事を考えていた。レヴァンス一家は両親と男女の双子、それから二つ下にもう一人男の子、という構成である。三人の子供達は性別の違うコーディも含めて、まるで鏡に映したようにそっくりな見た目をしている。体格が一回り違う弟はともかく、兄とは並んで立った時、直感以外の理由でどちらかを言い当てられた人は今まで誰もいない。
男の子として見るならそこそこかっこいいのだが、女の子として可愛らしさには欠けているのは明白だ。その事実は兄弟の顔を見ておけば十分なのもあって、コーディは世間一般の女の子に比べると、鏡を覗き込む時間は極端に短い。信仰上、鏡という道具は特に女の子にとっては重要なため、あまりよろしくない傾向であると言えるだろう。
春に、秋の収穫祭と並ぶ神殿の大きな行事がある。長く厳しい冬に耐え、国土が緑に覆われる穏やかなこの時期、五月の半ばから半月ほどの期間が、神殿主催の祭事として定められている。毎年、十歳から十四歳くらいまでの少年少女が一人ずつ選定されて、特別な役回りを演じなければならない。
今から五百年前に実在したとされる救国の聖女ユニス様と、彼女の巡礼の旅に同行した護衛騎士様。二人の姿を模した格好で山間にある、普段は入る事のできない特別な神殿に足を運び、上級の祭司様のお話に耳を傾け、その後は街を馬車で一周して、沿道の人々に祝福を分けて回るのである。
確かに衣装は素晴らしい。衣装は毎年、役に選ばれた家が用意する決まりになっている。色は水色で、繊細な花の刺繍が施されている。首飾りと腕輪は神殿が一年に一度の祭事のために大切に管理しているそうだ。それから純白のベールには白い造花が取り付けられて、まさしくコーディの思い浮かべる、女の子の喜びそうな一揃いだった。
「……ねえ、この衣装の名前は何だったかな。最初の文字しか思い出せない」
「カシュクールですよ、お嬢様」
母親が離れた隙に、コーディは近くの侍女にこそこそと耳打ちをした。周囲に気づかれない声で答えをくれた彼女にありがとう、とウインクをしつつ、お上品に見えるように椅子に座り直した。
「さあ、汚していけませんから。名残惜しいでしょうけど、当日までのお楽しみという事で」
近付いて来た女性祭司に、コーディは素直に頷いた。椅子から立ち、大事な衣装をそっと脱いで、一つずつ色々な大きさな箱にしまわれていくのを確認した。
「今日はわざわざご足労頂いて、ありがとうございました」
レヴァンス夫人とコーディ以下、着替えを手伝ってくれた女性使用人達も、神殿から来た客人にお礼を述べて、屋敷を辞していくのを見送った。
「お母さん。お父さんはもう出かけられたんでしょうか? 追いつけそうならベールだけでも見せてあげたいな、って」
「ああ、それは良い考えですこと。いってらっしゃいな」
先ほど、医者をやっている父が、昼食のために家に戻って来た姿を窓から見かけたのである。母親は娘が、大人しく衣装を身に着けた事である程度満足したらしい。拍子抜けする程簡単に、退出する許可が出た。コーディは母親の気が変わらないうちに、ベールだけそっと抱えて部屋を抜け出す。そして、扉の後ろ手に閉めた瞬間、できるだけ急いで階段を駆け上がって自室へ飛び込んだ。
コーディはお花のワンピースから、いつものシャツと動きやすい男の子用のトラウザーズとブーツに素早く履き替えた。それから祭事のために伸ばすように、と言われている黒髪を、銀の筒状の髪飾りで後ろにまとめる。
その恰好で部屋の鏡を覗くと、レヴァンス家の子供のうちの誰なのか、自分でも判別の難しい姿が一人映っている。母はともかく、父は屋敷の中では好きな恰好で構わない、という大らかな性格だ。やっぱりこれが一番似合うよね、と鏡の自分に向かって苦笑しながら部屋を後にした。
レヴァンス一家は二年前、もともと住んでいた王都からこちらへと移って来た。新天地は自然が豊かで、新しい屋敷も庭も広々としている。以前のような屋敷がひしめき合っていた一画よりも、三人の子供達はずっと気に入っていた。それから街並みも、橋や神殿をはじめとした大きな建物も、古くからの造りを残していて、素敵な景観だ。観光地としても賑わっている。
「風が気持ちいいこと」
春風は穏やかで、コーディの髪や足元の芝生をやわらかく撫でて通り過ぎていく。夏のからっとした風や、秋冬の冷たさも好きだが、やはりこの季節が一番楽しい。コーディはひとり言を呟きながら、父に見せるためにベールを被ってみようと試みた。しかし、ひらひらと薄く繊細な一枚布の構造がよくわからなくなってしまった。
「……どうするんだったかな。忘れちゃった」
うっかり破いたり皺にしたり地面に落としたりしては悲惨だ。興味の薄い分野は覚えられない、とも言う。父には文字通り、手に持ったベールを見せるだけになりそうだ。
「……お父さん!」
とりあえず庭を一直線に、コーディはベールを掲げて小走りで駆け抜けた。風はふわふわと、花と連なった薄布を潜るように吹き抜けていく。
コーディは父親が門の近くに止めた馬車にちょうど乗り込むところに駆け寄った。レヴァンス家は代々、王族に仕えている由緒正しい医務官の家系である。こちらに拠点を移してからは、街の診療所の他に、動けない患者のところにも出かけて行く。今日の行先は、商家のまだ幼い跡継ぎのところだ。冬の間、猩紅熱に苦しんでいたのが、春になって快復に向かっているらしい。今日の診察が最後になるだろう、と父の見立てで、直接会った事のないコーディもほっとしていた。
「ああ、ついに完成したのか」
「うん、せっかくだから見せようと思って」
ふむふむ、と父親が、娘が風にひらひらと遊ばせているベールに目を細めている。医者らしく、患者に会う前から白衣姿だ。コーディは父が冗談混じりに、兄や弟と間違えないかと期待したが、父は眩しいのか何なのかこちらを見下ろして、目を細めている。よしよし、と小さな子供を撫でるみたいな手つきで、髪を触った。
「おや、お嬢様。よくお似合いですよ、当日はきっと華やかな聖女様になるでしょうね」
「……そ、そうかな。ありがとうね」
一家がこちらへ移って来たのに伴って、使用人の大半は顔ぶれが変わってしまった。そんな中でも残ってくれた、父の助手のシルバが手放しに褒めてくれたので、コーディは相変わらず手元のベールをひらひらさせながら歯切れ悪く応じる。陽気な彼こそ今日くらい、てっきりジョシュ様かと思いましたよ、なんていつもの冗談を口にしてくれそうなのに、こちらも空振りである。
そこへ、馬の蹄の音が近づいて来ていた。のんびりと馬車を引かせるのではなく、勢いよく走らせているらしい。
「……失礼!」
前触れなく現れたのは、青毛の逞しい軍馬である。父を頼る急患だろうか、とコーディが突然の訪問者の様子を窺った。若い男は馬を降りて、セクター家の使いを名乗った。その名前にコーディは反応して、その先を見守る。
彼は軍人らしいきびきびとした口調で不躾な訪問を詫び、そして自分の主人がすぐ近くにいて、そちらへ挨拶に伺いたいが果たして、と父に尋ねた。
レヴァンスの当主は手元の時計を確認して、診療の予定も入っているので挨拶程度の短い時間になってしまうが構わないだろうか、という意向を伝えた。彼はもう一度お詫びとお礼の言葉を述べてから、再びひらりと馬に乗って、自分の主人の元へと戻って行った。
「……若いですねえ」
シルバが感心したように、去って行く馬の背中を見送った。父がいつも連れている助手は子供の頃から仕えているので経歴は長い。また、のんびりとした人柄でもあった。今しがた去って行った人とは主人に対する方向性が違うのだろう。
「お父さん、それなら私は着替えて来ましょうか」
コーディは家では好きな恰好をしているが、それが家の中だから許されている話である。外出時はあまり似合わないのは承知の上で、仕方なく女の子の格好だ。客人が尋ねて来る時も、同じルールである。
「……予定外の訪問をする方に問題がある。まあ、顔合わせをしておくに越した事はないだろう」
父はコーディの格好を上から下まで眺めたが、中に入っていなさいとは言われなかった。それは、セクター家の子息が、もう一人の祭りの主役だからだろう。聖女様役と護衛剣士役は祭事の間、常に一緒に行動しなければならないらしい。コーディは今から初顔合わせだが、兄は軍が子供向けに門戸を開いている剣術教室で、よく顔を合わせている。
幾らもしないうちに、父が乗り込もうとしていた馬車より一回り大きな姿が近づいて来た。セクター家は確か、古くから武人の家系である。また、この土地を治めている公爵家からの信頼が厚い人物だと、何かの折に父が教えてくれた。
先に姿を現したのがセクター氏だろう。並んでみると父より肩幅が広く、実際の背の高さは同じ位なのに、ずっと大きく見える。実際に武器として採用されているかはともかく、仕事中は長い槍か斧でも振り回していそうだ。
父親同士がコーディの頭上で挨拶を交している間に、馬車から降りたのが、年齢からして祭事の時の相棒だろう。目を引く鮮やかな紅茶色の髪の持ち主が、ロランという名前だと知っている。兄の参加している軍の訓練にも出席しているので、挨拶をしたいから帰りに連れて来て欲しい、と頼んだのだが難しい顔で、あいつはまだ友達じゃないのでダメ、と断られた。
気さくな兄は新しい土地でもあっという間に友人をたくさん作ったのだが、何事にも例外はあるらしい。話によると、子供同士の剣の模擬試合で勝ちぬけても少しも笑わず、同年代の子供達の輪に加わる事もないそうだ。兄は毎回のように彼に挑戦しては、敢無く返り討ちにあっているらしい。
「……」
彼はコーディを凝視して、何度か瞬きを繰り返した。こちらも兄の、仲間内では一番強いという話から、勝手にもっと体格に恵まれた少年を想像していたが、彼はコーディとほとんど変わらない目線で、身体つきもまだまだ子供らしい。
「……ジョシュアかと思った」
ようやく口を開いて何を言うのかと注目していると、どうやらコーディなのか、それとも彼も兄の方なのか、見分けがつかなくて困っていたらしい。
子供達の視界に入りきらない上の方では、セクター氏と、それから居合わせたそれぞれの家の従者達が、初対面の女の子に言う事がそれか、と視線を泳がせている。父はいつもの如く、どこか超然とした表情のまま娘の反応を窺った。
男の子と間違えるなんて酷い、と繊細な少女だったら泣き崩れる子もいたかもしれないが、残念ながらコーディである。おそらく本日、誰もが自分に気を遣って口にしなかった事をよくぞ言ってくれた、と軽く感動すら覚えた。
「……そうだよね! 実際、私の兄が女の子の格好をしているみたいだ! ってずっと言いたかったんだ」
兄は知っているよね、と聞いてみるとやや面食らった表情で小さく頷いた。コーディは上機嫌でベールを片手で持ち、空いている方で相手の少年に握手を求めた。兄の話ではセクターの子息は気難しい、という話だったが、なんだか上手くやれそうな気がしてきた。これで祭事の相手、初めて会う少年と仲良くできるのか、という懸念が一つ消えた。
「私はコーデリア。せっかくだからコーディって呼んでね。儀式の時はどうぞよろしく」
彼は恥ずかしがりやなのか人見知りなのか、目が点になったまま握手に応じてくれる。辛うじてロラン、と自分の名前を呟いたのが聞こえた。
「……コーディ。そのあたりで」
握手を止めるタイミングを失っていた二人の子供は、割って入った父の声でようやく、手を離した。
「……レヴァンス卿によく似た、聡明なお嬢さんだ。至らぬところの多い息子で、儀式の際には迷惑を掛ける事になるかもしれないが」
よろしくお願いしたい、とロランの父親に頭を下げられたので、コーディも慌てて礼をした。初対面の立派な大人の男の人で、子供に対してこんなに丁寧な態度で接してくれる人も珍しい。コーディもこんな格好でごめんなさい、ととりあえず謝罪しておいた。今日は色んな人が褒めてくれるので、何だか落ち着かない一日である。
「……とても強そうなお父さんでしたね」
予告通り親子は挨拶だけで、時間を取らせてしまった事を詫びながら、再び馬車で去って行った。またね、とコーディが手を振ると、彼は困ったように会釈だけを返した。
「……ロラン君は手の平が、最近剣を習い始めたお兄ちゃんと一緒の感触だったから、男の子は似たような事に熱心なのでしょうね、お父さん」
兄もロランも、きっと空いた時間には一生懸命に剣を振り回しているのだろう。それを繰り返すと、マメができて固くなるのである。仲良くやれそうだな、と父が呟いたので、コーディは頷きながら、しばらく自分の手の平をいじっていた。
「……初対面の相手に気を遣われるとは情けない。しかも相手の容姿をけなすとは、一体何を考えているんだ? それも、子供とはいえ女性だぞ」
「……けなそうと思ったわけでは、なくて」
レヴァンス邸を後にした馬車の中では、くどくどと小言が続いていた。ロランも事前に、今度の祭事での相手役がコーディという名前である事は知っていた。基本的な家族構成は双子の兄と下に弟がいて、という情報も得ている。
しかし、双子の兄妹のうちのどちらが、あそこに立っていたのかがわからなかった。ロランが実際に会った事があるのは一番上のジョシュアだけだが、男女の双子であそこまで似ているのは反則だと思う。あの格好はどう見ても同年代の女の子ではなく男の子だった。どうしてスカートやワンピースを着ていてくれなかったのだろう。
それから自分が馬車から下りた場所も良くなかった。髪を後ろでまとめているのか、それとも短いのかが判断できなかった。風が吹いてようやく、後ろでまとめている髪を揺らしたのが見えた。
横にいた父親は服装に何か言わないのだろうか、とロランは先ほどの光景を思い返していた。あの場にいたのが本当にコーディの方だというなら、とてもよく似ている。全く見分けがつかなかった。
「それにしても、あれは怒らせたな」
「……」
握手を求めてきたコーディの表情も声も楽し気ではあったが、たった今ロランの目は節穴であると露見してしまったため、その前提で行けば怒らせた事は間違いない。今になってみれば色々と言葉も思い浮かぶし、父のように男女関係ない褒め言葉の語彙を増やしておけば、レヴァンスの双子の見分けがつかなくても、適当に切り抜けられただろう。
「己の自信の無さが言動に現れるのだ」
父の小言は結局、馬車がセクター家の屋敷に到着するまで続いた。ロランは先ほど握手を交わした手の平の事を思い出しながら、次は絶対に間違えないようにしようと心に誓った。