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少女にラベンダーの香りなんてない。
少女は、血の臭いしかしない。
あなたは夢を見ている。
あなたは無知で盲目だ。
あなたは色のある世界を知らない。
ある晴れた日、少女は丘に行くことができなかった。
次の晴れた日も、少女は丘に行くことができなかった。
あなたは、じっと少女が丘に来るのを待った。
来る日も来る日も待った。
けれど、少女は丘に来なかった。
少女は、丘に来ることができなくなった。
少女はもう、あなたに会うことはできない。
あなたが何と言おうと、少女は『赤い人間』だ。
その前は、『灰色の人間』だった。
少女の身体は煤のように汚れている。
少女は娼婦だった。
少女は自分の身体を売って、暮らしていた。
辛いと思ったことはない。
けれど、楽しいと感じたこともない。
少女には家族がいた。
それが母親だ。
少女が子供のころには姉がいたが、彼女はどこかに消えてしまった。
だから、母親が少女の唯一の家族だ。
少女の母親も『灰色の人間』だった。
母親はあなたと同じように、夢を見る人だった。
悪い夢だ。
母親は国の法律で禁止されている薬を飲んで、夢を見る。
薬が効いているときだけ見ることのできる、空虚な夢。
母親は、少女が身体を売って稼いだお金で薬を買った。
物心がついたときから、そうだった。
だから、少女はそれを悪いことだとは思っていなかった。
当然のことだと思っていた。
母親が夢を見るのも、当たり前だと思っていた。
不思議には思わなかった。
だから、少女は母親に何か恨みがあったわけではなかった。
少女にとって、母親はそういうものだった。
それ以上のものではなかった。
少女が母親を殺したのは、あなたに言った通り。
母親を殺さなければ、少女が死んだから。
たったそれだけの、それが全てだ。
あるとき、母親は少女を殺そうとした。
どうして母親が少女を殺そうとしたのかは、分からない。
夢を見すぎておかしくなったのか。
それとも、元々おかしかったのか。
母親は、寝ていた少女の首を強く絞めた。
殺される。
咄嗟に、少女はベッドの横に置いてあった果物を切るくらいの小さなナイフで、母親の首を突き刺した。
何度も、何度も。
母親が動かなくなっても、少女は突き刺すことを止めなかった。
また、母親が動き出すことが怖かった。
母親でしかないこの狂人が、それ以上やそれ以下になることが、少女は怖かった。
だから、殺した。
何度も殺した。
少女は母親だったものの血を全身に浴びた。
そして、『赤い人間』になった。