10
彼女が丘に来なくなってから、半月が経った。
僕と彼女は約束をして待ち合わせていたわけではない。けれど、晴れた日にあの丘に行けば、僕は必ず彼女に会えるものだと思っていた。
一日くらい、彼女に会えない日もあるだろう。初めはそう思っていた。けれど、いつになっても彼女が現れる気配はない。
そこで、僕は彼女について何も知らないことに気付かされた。どこで暮らしているのか。どうして空を見上げているのか。僕は、彼女について何も知らない。知ろうとしなかった。
彼女は美しい。それを知っているだけで、満足してしまっていた。
今日も、彼女は日が暮れても丘にやってくることはなかった。
小屋に帰ると、僕は祖母に彼女について尋ねてみた。それは屈辱だったが、他に手段はない。祖母は丘のことなら何でも知っている。彼女についても何か知っているはずだ。
「『赤い人間』は丘の向こうの屋敷で飼われているんだよ」
意外なことに、祖母はすんなりと彼女について教えてくれた。
「屋敷?」
「『黄色い人間』が住み着く大きな屋敷だよ。丘の向こうの『黄色い人間』は奇人でねぇ。穢れた『赤い人間』を国から買いとっているのさ。罪を集めて、どうするつもりなんだろうねぇ。甚振って遊ぶためかもしれない。『赤い人間』は殺しても罪にならないからねぇ」
祖母は不揃いな黄色い歯を剥き出しにして笑う。
「どういうことだ?」
「お前も知ってるだろう。『赤い人間』は殺される運命にある。あの女狐も、殺されてしまったんだよ」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「――黙れ」
自分でも、驚くほど冷たい声が出た。気がついたときには、祖母の胸倉を掴んで、引き寄せていた。
祖母は笑うのを止めない。ケタケタという耳障りな音が、僕の頭蓋で反響する。
「わしは丘のことなら、何でも知っている。何でも、だ」
不気味な魔女を強く突き飛ばす。折れ木のように細い身体は、軽々と飛んでいき、小屋の壁に叩きつけられた。蛙を潰したような短い悲鳴。それでやっと耳障りな笑い声は止まってくれた。
壁にぶつかった祖母は動く様子がなかったが、僕は特に気にする必要を感じなかった。気絶したのか、死んだのか。そのどちらかだろう。
小屋を飛び出す。
丘を走り抜け、いつも彼女が消える向こうへと駆けた。
どれくらい走り続けただろうか。あまりにも夢中だったせいで、正確な時間が分からない。
丘の向こうに、これほどまで広いとは、知らなかった。世界が途方もなく広いことを知識として知っていた。けれど、僕が丘の外に出たのは、これが初めてのことだ。
景色の向こうに見える屋敷は、走っても走っても大きくなってはくれない。
どうしようもなく、不安になった。僕は色を見ることができない。だから、人間を色で判別することができない。危険な人間は、匂いや仕草で判断するしかない。
「――――はっ」
少し弱気になっただけだ。僕は今まで、色を見ることなく、生きることができた。それはきっとこれからも変わらない。色を知らなくとも、僕は他の人間よりも真理を見抜くことができる。その自負があった。
水筒すら持ってこなかったせいで、水を飲むこともできない。いや、今、水を飲む気にはなれない。気を休めてはいけない。
彼女を通して、僕は初めて人間の温もりを感じた。知ってしまった。もう、後に戻ることはできない。
どうしても、彼女に会いたかった。
とうとう、僕は屋敷にたどり着くことができた。途方もなく大きな屋敷だ。おそらく、これが祖母の言っていた『黄色い人間』の屋敷だろう。
全身が汗だくで、貴族である『黄色い人間』に会うのに相応しい姿とは思えなかった。おそらく、今の僕は『灰色の人間』よりもやつれた顔をしているだろう。
それでも、構わなかった。武器はなにもない。身一つで何ができるかは分からないが、何もできないということはないだろう。
屋敷の扉を強く叩く。ドンドンという重みのある音が、屋敷のしっかりとした造りを象徴するようだった。扉を叩いた拳が鈍く痛む。
「どちら様でしょう」
酷く冷めた声。しばらくして、一人の使用人が扉を開けて姿を見せた。
僕は思わず息を飲む。使用人の顔に覚えがあったからだ。
彼女と同じラベンダーの香り。使用人は、以前僕の小屋に来た『灰色の人間』の女だ。
細い身体つきは今も変わらない。しかし、あのとき見たよりは随分健康そうな顔立ちをしている。
「まず、水をいただけないでしょうか?」
女は、少々お待ち下さい、と言って、屋敷の中に消える。そして、液体の入ったコップを持って戻ってきた。
「お飲みください」
僕はコップの中の水と、女をじっと見比べる。女は水を飲まない僕に首を傾げるだけだった。
どうやら、彼女は僕のことを覚えていないらしい。
いや、それも仕方ないだろう。僕は、あれから随分と成長した。顔つきも身長も変わってしまったし、声変わりもした。
それに、彼女が課した宿題の答えは、まだ出ていない。
「ありがとうございます」
僕はコップを口につけ、中身を飲み干した。かすかに甘い、澄んだ味が喉を通っていく。生き返るようだった。
「それで、用件は何でしょうか?」
「この屋敷にいるらしい、少女に会いにきました」
僕は彼女について、説明する。色の見えない僕は、彼女の外見について詳細に説明することができない。そのため、匂いや声、喋り方を女に伝えた。
「あなたと同じ、ラベンダーの匂いがする少女です」
すると、女は静かにうなずいた。
「その『赤い人間』は、おそらくここで飼われています」
「本当ですか?」
思わず、大きな声を出してしまう。ここに、彼女がいる。それだけで、いても立ってもいられなくなった。
「彼女に会わせて下さい」
僕は女に詰め寄る。おそらく、今の僕は醜悪な顔をしているのだろう。女は少し表情を引きつらせ、一歩退いた。
「少々お待ち下さい」
そう告げて、女は扉を閉める。
再び扉が開かれるまで、それほど時間はかからなかった。
女に代わって現れたのは、顎鬚を蓄えた横幅のある老人だった。
老人を見た瞬間、僕は何となく「黄色」という色が分かったような気がした。老人の身につけている装飾品を見ているだけで、目がちかちかと痛む。おそらく、黄色は煩い色なのだろう。
「俺の『赤い人間』を欲しがる変わり者というのは、お前か?」
老人の口から、牛の乳を腐らせたような臭いが漂ってくる。毎日、高価なチーズを口にしているからだろう。
「会いたい人がいます。会わせて下さい」
老人は、歪な笑みを顔に浮かべた。
「いいだろう。屋敷に上がれ、変わり者の『青い人間』。お前を歓迎しよう」
老人の後に続いて屋敷へと踏み込みながら、僕は少しだけ笑ってしまった。
この老人もまた、色に縛られるだけのつまらない人間なのだろう。
僕は『青い人間』などではない。
僕は水だ。
色なんてない。
 




