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 彼女が丘に来なくなってから、半月が経った。

 僕と彼女は約束をして待ち合わせていたわけではない。けれど、晴れた日にあの丘に行けば、僕は必ず彼女に会えるものだと思っていた。

 一日くらい、彼女に会えない日もあるだろう。初めはそう思っていた。けれど、いつになっても彼女が現れる気配はない。

 そこで、僕は彼女について何も知らないことに気付かされた。どこで暮らしているのか。どうして空を見上げているのか。僕は、彼女について何も知らない。知ろうとしなかった。

 彼女は美しい。それを知っているだけで、満足してしまっていた。

 今日も、彼女は日が暮れても丘にやってくることはなかった。

 小屋に帰ると、僕は祖母に彼女について尋ねてみた。それは屈辱だったが、他に手段はない。祖母は丘のことなら何でも知っている。彼女についても何か知っているはずだ。

「『赤い人間』は丘の向こうの屋敷で飼われているんだよ」

 意外なことに、祖母はすんなりと彼女について教えてくれた。

「屋敷?」

「『黄色い人間』が住み着く大きな屋敷だよ。丘の向こうの『黄色い人間』は奇人でねぇ。穢れた『赤い人間』を国から買いとっているのさ。罪を集めて、どうするつもりなんだろうねぇ。甚振って遊ぶためかもしれない。『赤い人間』は殺しても罪にならないからねぇ」

 祖母は不揃いな黄色い歯を剥き出しにして笑う。

「どういうことだ?」

「お前も知ってるだろう。『赤い人間』は殺される運命にある。あの女狐も、殺されてしまったんだよ」

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

「――黙れ」

 自分でも、驚くほど冷たい声が出た。気がついたときには、祖母の胸倉を掴んで、引き寄せていた。

 祖母は笑うのを止めない。ケタケタという耳障りな音が、僕の頭蓋で反響する。

「わしは丘のことなら、何でも知っている。何でも、だ」

 不気味な魔女を強く突き飛ばす。折れ木のように細い身体は、軽々と飛んでいき、小屋の壁に叩きつけられた。蛙を潰したような短い悲鳴。それでやっと耳障りな笑い声は止まってくれた。

 壁にぶつかった祖母は動く様子がなかったが、僕は特に気にする必要を感じなかった。気絶したのか、死んだのか。そのどちらかだろう。

 小屋を飛び出す。

 丘を走り抜け、いつも彼女が消える向こうへと駆けた。



 どれくらい走り続けただろうか。あまりにも夢中だったせいで、正確な時間が分からない。

 丘の向こうに、これほどまで広いとは、知らなかった。世界が途方もなく広いことを知識として知っていた。けれど、僕が丘の外に出たのは、これが初めてのことだ。

 景色の向こうに見える屋敷は、走っても走っても大きくなってはくれない。

 どうしようもなく、不安になった。僕は色を見ることができない。だから、人間を色で判別することができない。危険な人間は、匂いや仕草で判断するしかない。

「――――はっ」

 少し弱気になっただけだ。僕は今まで、色を見ることなく、生きることができた。それはきっとこれからも変わらない。色を知らなくとも、僕は他の人間よりも真理を見抜くことができる。その自負があった。

 水筒すら持ってこなかったせいで、水を飲むこともできない。いや、今、水を飲む気にはなれない。気を休めてはいけない。

 彼女を通して、僕は初めて人間の温もりを感じた。知ってしまった。もう、後に戻ることはできない。

 どうしても、彼女に会いたかった。

 とうとう、僕は屋敷にたどり着くことができた。途方もなく大きな屋敷だ。おそらく、これが祖母の言っていた『黄色い人間』の屋敷だろう。

 全身が汗だくで、貴族である『黄色い人間』に会うのに相応しい姿とは思えなかった。おそらく、今の僕は『灰色の人間』よりもやつれた顔をしているだろう。

 それでも、構わなかった。武器はなにもない。身一つで何ができるかは分からないが、何もできないということはないだろう。

 屋敷の扉を強く叩く。ドンドンという重みのある音が、屋敷のしっかりとした造りを象徴するようだった。扉を叩いた拳が鈍く痛む。

「どちら様でしょう」

 酷く冷めた声。しばらくして、一人の使用人が扉を開けて姿を見せた。

 僕は思わず息を飲む。使用人の顔に覚えがあったからだ。

 彼女と同じラベンダーの香り。使用人は、以前僕の小屋に来た『灰色の人間』の女だ。

 細い身体つきは今も変わらない。しかし、あのとき見たよりは随分健康そうな顔立ちをしている。

「まず、水をいただけないでしょうか?」

 女は、少々お待ち下さい、と言って、屋敷の中に消える。そして、液体の入ったコップを持って戻ってきた。

「お飲みください」

 僕はコップの中の水と、女をじっと見比べる。女は水を飲まない僕に首を傾げるだけだった。

 どうやら、彼女は僕のことを覚えていないらしい。

 いや、それも仕方ないだろう。僕は、あれから随分と成長した。顔つきも身長も変わってしまったし、声変わりもした。

 それに、彼女が課した宿題の答えは、まだ出ていない。

「ありがとうございます」

 僕はコップを口につけ、中身を飲み干した。かすかに甘い、澄んだ味が喉を通っていく。生き返るようだった。

「それで、用件は何でしょうか?」

「この屋敷にいるらしい、少女に会いにきました」

 僕は彼女について、説明する。色の見えない僕は、彼女の外見について詳細に説明することができない。そのため、匂いや声、喋り方を女に伝えた。

「あなたと同じ、ラベンダーの匂いがする少女です」

 すると、女は静かにうなずいた。

「その『赤い人間』は、おそらくここで飼われています」

「本当ですか?」

 思わず、大きな声を出してしまう。ここに、彼女がいる。それだけで、いても立ってもいられなくなった。

「彼女に会わせて下さい」

 僕は女に詰め寄る。おそらく、今の僕は醜悪な顔をしているのだろう。女は少し表情を引きつらせ、一歩退いた。

「少々お待ち下さい」

 そう告げて、女は扉を閉める。

 再び扉が開かれるまで、それほど時間はかからなかった。

 女に代わって現れたのは、顎鬚を蓄えた横幅のある老人だった。

 老人を見た瞬間、僕は何となく「黄色」という色が分かったような気がした。老人の身につけている装飾品を見ているだけで、目がちかちかと痛む。おそらく、黄色は煩い色なのだろう。

「俺の『赤い人間』を欲しがる変わり者というのは、お前か?」

 老人の口から、牛の乳を腐らせたような臭いが漂ってくる。毎日、高価なチーズを口にしているからだろう。

「会いたい人がいます。会わせて下さい」

 老人は、歪な笑みを顔に浮かべた。

「いいだろう。屋敷に上がれ、変わり者の『青い人間』。お前を歓迎しよう」

 老人の後に続いて屋敷へと踏み込みながら、僕は少しだけ笑ってしまった。

 この老人もまた、色に縛られるだけのつまらない人間なのだろう。

 僕は『青い人間』などではない。

 僕は水だ。

 色なんてない。

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