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歩くような速さで

作者: あわき尊継

 7時51分、父の見るテレビでニュースが終わり、星座占いが始まる頃に家を出る。

 歩調は緩やかに。少しだけ視線を右へ傾けながら住宅街を抜けていく。電線と屋根ばかり見える空をなんとなしに眺めつつ進むと、不意に空が広がった。住宅街が終わり、二車線の道路と、その向こうに大きな駐車場を構えるコンビニが見えた。右折する。大通りと言えなくもない道路にそって一分も掛からない頃、電車の遮断機にぶつかる。カンカンカンカン、鳴り止まない警告音を聞きながら足を止めた。

 不意に制服の襟元へ手をやり、締めてもいないネクタイを緩めるようにして肩と首を伸ばす。筋肉質と言うには及ばないものの、小中高とスポーツをやってきたからか、男子高校生の基準から言えば人並み以上に厚みのある身体つきだ。身長もそれなりで、腕相撲をすればクラスで三指に入るのがちょっとした自慢だった。

 視線が右へ傾く。左を避けるようにして。

 スマホを取り出し、時間を確認した。8時8分、遮断機が上がるまで1分ほど掛かる。この時間、通勤の為に増加した電車で一時的に開かずの遮断機になるのだ。五分ほど掛ければ迂回も出来るが、いつもこちらへ来てしまう。

 そして、スッと撫でるような風に乗って、石鹸の香りが漂ってきた。

 左頬に鳥肌が立った。右に傾いていた視線を正面に戻すと、彼より半歩先の位置に彼女が立ち止まっていた。結い上げた髪を団子にして纏めている、黒い髪の女の子。男女の違いはあっても、彼と似たデザインの制服を着ている、同じ高校の生徒だ。

 心臓の鼓動が強くなったのを感じる。

 立花リン、それが彼女の名前だった。


 カンカンカン――遮断機の音が止まった。


 半歩先を行く彼女と共に、彼は今日も何も言えず、少し遅れて歩いていく。

 少女は、手元の文庫本を見つめたまま、いつも通り彼の半歩先を行く。


    ※   ※   ※


 「シノ。おーい、シーノー?」

 授業が終わってしばらく、窓の向こうにある運動場を眺めていた藤崎シノは、呼びかける声に意識を戻された。

 かすれ気味の声に顔を向けると、やや癖っ毛の美少年が頬杖ついてこちらを見ていた。

 目が合うと彼は軽く笑い、涼風を思わせる柔らかな口調で言葉を続けた。

「次、移動教室らしい。一緒に行こうぜ」

「あぁ」

 と、シノと呼ばれた身体つきの良い少年が黒板脇に張り出された時間割表に目をやる。

「科学か。実験するんだったか?」

「たしかね。移動先、別棟になるしさ、途中食堂寄ってこうぜ」

「今行っても食い物は置いてないぞ」

「喉乾いたんだって」

「まいいか。ちょっと準備するから待ってくれ」

「あいよー」

 と、『木下ミチル』と名前の書かれた教科書を持ったまま、彼は大きく伸びをした。どこか気怠さが漂うのに、かすれ気味の声は涼風のようで、整った顔立ちもあって女子に良くモテる。先月は3人に告白されたのだそうだ。しかも内2人は友達同士で一緒になって言ってきたのだという。

「ミチル」

 食堂へ迂回する為に階段を降りている途中、シノは片手に教科書とノートと筆箱を纏めて持つミチルを振り返った。一段下に居るのに、その目線はシノのやや下にある。

 遠く、休憩時間にバレーをしているらしい女の子たちのはしゃぐ声が聞こえる。周囲に足音はない。踊り場は少し音が響くので、シノは声を潜めた。

「お前、告白したことはあるのか?」

「ん? あるよ、一回だけ」

 驚いた。

「フラれたけどな」

「お前が? どうして」

 更に驚いて言うと、ミチルは軽く笑って目を細めた。

「俺、国語は成績悪いし」

 理由ともつかない言葉を残して、さっさと階段を降りていくミチルにシノは問いを重ねるべきかと悩んだ。相手は誰で、いつの話で、どうやって告白したのか、とか。けれどどの問いも、フラれたと言ったミチルのなんでもなさそうな声が張り付いて、口から出ていくことはなかった。

 そのまま二人して黙り込んだまま、校舎を出て、プレハブみたいな食堂へ向かった。元々二人揃って無口な方で、一緒に歩いていて無言なことはよくある。ただ、今回のように揃って何か言おうとしたまま黙っているのは稀だった。

 結局、積極性という点ではミチルの方が圧倒的に優れていた。

 自動販売機でパックの牛乳を買い、ストローを刺した所で、彼は黙り込んでいたシノへ話を振った。

「我慢できない感じなんだよ、俺にとってはさ」

 遅れてミルクティーを買ったシノは、縦になったまま落ちてこないパックに四苦八苦しながら、外れかかったストローと共に取り出すことに成功する。

 ずず、という音がミチルからした。

「なんかもう、動きたくなる。待ってなんかいらんない。ほとんどのことはのんびり構えてられんのに、その衝動を感じたらさ、なんか、引っ張られるんだ」

 ミチルはそういう性格だった。普段はだらだらしてる癖に、一度何かを始めるととことんまで突っ走る。別にその時だけテンションが高くなったり、周りを巻き込んで、なんていう訳じゃない。彼にとって、衝動は自分だけを押し流す潮みたいなものだ。たまに、その力強さに魅せられてついていこうとする人は居ても、大抵は追い付けずに取り残される。

 魅力的な奴なんだろうとシノは思う。だから女の子にもモテるし、あまり発言しないのに彼の一言は強く印象に残る。

「去年の文化祭なんかそんなだったな」

「あぁ」

 二人が一年の頃、文化祭で劇をやった。嵐が丘という、その筋では有名らしいイギリスの作家が作った作品を台本に起こし、クラスで一番騒がしかった連中が中心になって毎日熱心に練習をしていた。とまあ、言ってしまえば、所詮は付け焼刃の演技で、練習風景を見ていた当初はシノも悪くないんじゃないかと思い込んでいたが、客席から見た出来栄えはひどいものだったのを覚えている。

 だがその劇は体育館でやった出し物の中で銀賞を獲得した。評価されたのは演技ではなく、大道具や小道具の本格ぶりだった。

 盛り上がる役者勢から少し離れて、当時も同じクラスだったミチルを主体に、裏方班は徹底した時代考証を行い、可能な限り現実的な舞台装置を作り上げた。嵐が丘という作品はいくつもの映画が作られ、また舞台にも使われてきた題材だ。だからまずは映像を集め、プロのアイディアをいくつも参考にし、挙句学校近くの工場へ乗り込んで作り方まで学んだ。工場の雑用を手伝うことで廃材を貰い、基礎的な部分は極力自分たちで作ったが、最終的には工場のおじちゃんに手を借りて完成させていた。食器の類は幸運にもアンティーク好きな母を持つ生徒が無断で持ち出し、後日叱られたりもしていた。

 この道具類は上映後教室で展示され、それが評価を底上げしたのだろうことは明らかだ。個人の持ち物はともかくとして、作ったものは持ち帰るには多すぎて、一般の参加者へ無料で配った。

 ようするに、ミチルは道具作りにハマったのだ。ハマって、一人で暴走し、挙句周囲を巻き込んで、一つ確かなものが完成した感動に乗せられてシノまで一緒に暴走した。

「おっちゃん、町中で会うと未だにウチに来いって言ってくるよ」

 おっちゃんとは、工場の経営者だ。ミチルのことを大層気に入り、本来畑違いの技術まで独自に学んでシノたちに教えてくれた。文化祭にも来てくれて、ミチルの作ったランタンを貰って帰っていた。

「モノづくりはもういいのか?」

「どうなんだろうな? 面白いことって、まだまだいっぱいあると思うよ。気が向いたら行くって言ってあるけど、今はいいかな」

 そういえば彼は今、軽音楽部に仮入部してベースギターにハマっていた。今年の文化祭はバンドを組んでやるんだと、先週聞いたばかりなのを思い出す。

「逆に言えば、俺はそういう何か突き動かされるのがないと、これっぽっちも動けないんだな。ついだらだら生き続けちまう」

 飲み干した牛乳のパックを、ミチルは握り潰し、ゴミ箱へ放った。

「お前はどっしりしてるよな。一気にやりきって、すぐ燃え尽きちまう俺とは違って、ずっと同じものばかり見てる。きっと、俺なんかよりずっと強い……確かな気持ちがあるんだよ」

 箱の中へは綺麗に入ったのに、溢れかけていたゴミに弾かれてミチルの投げたパックは外へ落ちた。結局、歩いて捨てに行ったシノがそれを拾って、箱の中へ捨てなおした。

「サンキュ」

 遠く、校舎の隙間から見える空に、ヒコーキ雲が飛んでいた。


    ※   ※   ※


 お前の方が凄いんだよ、みたいなことをミチルに言われてから1分と経たないうちに、シノは改めてそんなことはない事実を見せつけられていた。

 三人だそうな。

 学食裏には狭いスペースがあって、席からあぶれた人がたまにそこのベンチで食事を取ることがある。そこで、ミチルが三人の後輩の女の子に囲まれて告白を受けていた。もしこれ三人ともOKしたらどうするんだろう、と人並みに男子高校生なシノは思う。酒池肉林、ハーレム、実際にやってみる胆力はないが、妄想しないでもない桃色の日々に多少以上の興味はある。

 三人ともそれなりに可愛かったと思う。シノの名前まで知られていたことには驚いたが、恋に恋しているのかミチルに恋しているのかは分からないけれど、興奮と羞恥に頬を染めていた表情はとても良かった。

 せめて一人くらいこちらに来てくれれば、なんて考えなくもない。付き合うことは、多分ないだろうけど。

 食堂の壁に背を預けてぼんやり校舎間にある屋根付きの連絡通路を眺めていると、一際目立つ集団が現れた。

 金髪にピアスまで付けて、肌の焼けた人間ばかりなせいか、意識しないと誰が誰だか分からない。

「よお、シノっちじゃん」

 その中の一人が気安そうに声をかけてきた。

 鼻ピアスの男だ。誰だろうかと考えても、咄嗟に思いつかなかった。

「ハハ、相変わらずぼけーっとしてんなァお前は。つか、ッハハ、デカくなったか? ハハハ」

 何が面白いのか、やたらと笑い声を挟む鼻ピアスを見て、あぁ、と思いついた。一年の時の文化祭で劇の主役をやった男だ。当時は黒髪で軽い雰囲気はあっても真面目そうだったから、随分と印象が変わっている。名前は思い出せないが。

 鼻ピアス君はくい、と顎で食堂裏を示し、

「あっちン居るのミッチーじゃねーの? 何アレ、ッハ、コクられてんの? ハハ」

「どうだろう。話したいことがあるって言ってたけど」

「つか三人じゃん! やべえ、何アレあいつ、今日は4Pでハッスルしちゃうアレじゃねーの!?」

 似たような妄想をしていただけにここでの批難は避けるが、無意味に声が大きかった。

「なんだよミッチーのデカチンにアンアン言わされたくてコクりに来てんだろ!? なあ俺も混ぜてって言えば混ぜてくれるよなあ!? ミッチー友達じゃん!? つーかさァ――」

「静かにしろ」

 一歩、踏み出して距離を詰める。

 鼻ピアス君の身長も低くはないが、長身のシノと間近で向かい合うとどうしたって差が顕著になる。見下ろすと、気圧されたように首を引く鼻ピアスに、シノはもう一度重ねた。

「邪魔するな」

「ッハ!」

 シノの胸元を殴るような押すような、曖昧な手の出し方をして彼は距離を取った。

「別にンなつもりねーって! チョーシ乗ってんじゃねえぞテメエ! おい!」

 呼びかけに応じて、一緒に居た数人がぞろぞろ近寄ってきた。比較的真面目な人間の多いこの学校には珍しく、あからさまなまでに不真面目アピールをした連中だ。味方を背負って、鼻ピアスが何か強い言葉を吐き始める。

「あぁ」

 こんな状況なのに、シノはふと去年の文化祭でのことを思い出していた。

 劇は一応の成功を迎えた。けれど、実際に成功を支えたのは裏方の、ミチルたちだ。投票アンケートには美術関連のすばらしさを称える言葉ばかりで、劇の内容は、どちらかというとけなされていた。台本を読んだときには結構良いな、と思ったのに、最後はこんなものかと思わないでもなかった。

 当時の彼は、冗談の上手い、けれど真面目な人だった筈だ。積極的に演出を考えだし、ああしようこうしようと皆に意見を言っていた。シノが見ている限りでも一生懸命にやっていたと思う。ただ、高校の文化祭なんて、温度差があって当然で、真面目な彼はそれが許せなった。

 自分の演出や意見を守れない人がいると、徐々に言葉が苛烈になって、横暴に振る舞うようになった。そして一人の女子生徒が彼にキツイ言葉を投げつけて……。

「おいお前ら、もう授業始まるぞ」

 野太い声がした。

 見ると、ジャージ姿の大柄な男が、こちらをにらみつける様にして立っている。見覚えのない顔だったが、おそらくは体育教師だろう。

「教室に戻れ」

 有無を言わせぬ強い声に、鼻ピアス一同は顔を見合わせ、悪態をついて去っていった。鼻をならす体育教師は、強面をしかめさせ、じっとそちらを見ている。ならうようにしてシノもそちらを見る。

 結局名前を思い出せなかった旧同窓生の背中は、昔より随分と丸まっていた。

「やー、お待たせお待たせー」

 涼風を纏いながら戻ってきたミチルに、思わずため息が出る。その背後を黄色い歓声をあげて走り去っていく女の子たちをみて、体育教師の目にも心なしか疲労感が増えた。

「なんて答えたんだ」

「次の日曜に三人とデートすることになった」

「「うわぁ……」」

 声が重なった。名前も知らない先生だけど、もしかするとノリはいいのかもしれない。

「だって仕方ないじゃん? 後ろで騒がれて一人泣きそうになってたんだもん」

「お前刺されないように気を付けろよ?」

「女の子との付き合いはドライだから平気だよ」

「男にだよ」

 えー、と抗議の声をあげるミチルから目を離して、シノは連絡通路の先、二年の教室がある校舎入口を見る。

 意識の端で先生が咳払いをした。一度では足りなかったらしく、二度三度と続けて。

「まー、なんだ。健全な付き合いをしろ」

「はーい」

「それと、知らせてくれた女生徒に感謝しとけ。同じ二年の子だったな。名前は分からんかったが」

 体育教師が来たとき、お団子頭の後ろ姿を、シノは見た気がした。


    ※   ※   ※


 一年の時、立花リンと木下ミチルは同じクラスだった。

 つまりミチルと同じクラスだった藤崎シノも同じクラスだったということになる。

 文化祭の時、ミチルは道具作りにハマった。物を作ることの楽しさが一番だったとは思うが、最初のきっかけは台本の出来が想像以上に良かったからだ。配られた放課後、二人して家で読んでみて、珍しく盛り上がったのを覚えている。

 台本を書いたのは立花リンだ。

 釣り目がちで、細身のメガネを掛けた彼女は、見た目の通り少々強気な性格をしていた。あまり前へ出るタイプではなかったものの、発言には自信が見え、読書を好んでいたからかとても博識で、振る舞いは堂々としていた。

 そんな彼女だからか、周囲に当たり始めた主役に対し、強い言葉を浴びせかけるなんてことをしたのだろう。いや、明確な内容は伏せるが、高校生の身であれだけ言われれば誰でもプライドがズタズタになる。当然、激しい言い合いになって、一時クラスは騒然となった。

 役を降りるとまで言い始めた現鼻ピアス君を、担任をはじめ他の皆でなんとかなだめ、本番にこぎ着けることが出来た。出来は、以前に述べた通りだ。

 ただ、シノが知ったのは開演してからだったが、台本はかなりの部分が訂正されていた。元から鼻ピアス君の強い要望でかなりの部分は変わっていて、彼をなだめる為に改変したシーンやセリフも相当な量に及んでいたという。初期の出来栄えを知る人間からすれば、どうしてと言いたくなるものだった。

 劇のあった放課後、忘れ物を取りに教室へ戻ったシノは、扉を開けた所で立花リンと対面した。彼女も扉の前に立っていたのだろう。キッ、と目を吊り上げてきたリンを見て、不意にシノの手が動いた。本当はそうでもなかったのに、夕日を背にした彼女が、泣いているように見えたのだ。

 ぽん、と大きな手が彼女の頭に乗った。

「お前は頑張ったよ」

「っ――!」

 小さな物音に目をやると、足元に台本が落ちていた。

 それは、役者勢が見せびらかしていたものとは全く違い、ボロボロになるほどに皺がつき、山のような付箋が張られた台本だった。落ちた拍子に飛び出した、各ページに挟めてあった訂正案らしきものの書かれた紙。

 好き勝手にシーンやセリフまで改変されたあの劇を見た後となっては、それが傷だらけの台本に見えた。

「ごめ、ね……」

「……」

「美術、あんなに頑張って……くれた、のに……全然ダメ、で」

 ごめんなさい、と俯く彼女が嗚咽する姿に、シノの中で何かが沸騰していくのを感じた。

「ううん」

 半歩前に出た。

 自然と彼女の頭がシノの胸元に触れ、気づけば、彼はリンを抱きしめていた。

「いい台本だった……うん、俺やミチルがあれだけやる気になったのも、立花さんの台本が面白かったからなんだ。だから、ありがとう」

 生まれて初めて聞いた、同い年の女の子の泣き声を抱きしめて、シノは彼女の頭を撫で続けた。

 その時思ったのだ。

 あぁ、この子が好きだ。

 藤崎シノは恋をした。


    ※   ※   ※


 そう、文化祭の日から、シノは恋をした。

 けれど初めて好きになった人へどう接すればいいのか分からず、彼女とは何ら会話を出来ずに過ごした。近くの席になれば、休憩時間になっても、お昼休みになっても席に居た。我ながら行動がストーカーじみていると悩んだりもしたが、不思議と彼女も席についたまま、黙々と本を読んでいた。

 何度か、放課後にまでそうすることもあった。

 よほど面白い本なのか、ホームルームが終わるや本を取り出して読み始めるのを見ると、家に帰ってやればいいのに、無意味に宿題を取り出してやってみたりもした。逆にシノが居眠りをしたり、ミチルと長話をして遅くなったときなんかにふと見れば、彼女が教室の中で本を読んでいるのだ。

 お互いに会話はしなかった。

 そもそも話したのはあの文化祭での出来事が初めてで、最後だった。

 ただ、何か話さないと、なんていう焦りがなくて、一緒に居るという居心地の良さがたまらなく好きだった。

 通学路が近いことに気付いたのは三学期になってからだ。

 以来、シノは決まって51分に家を出て、あの遮断機で彼女を待つ。

 何も喋らず、互いに見向きもしないのに、なぜか何かを共有出来ているような気がする。

 危ない奴だ、とは思うものの、好きな気持ちは抑えられなかった。別に話せなくてもいい。話すのも苦手だ。だから、一緒に居る時間が欲しい。

 だから今日も、シノは星座占いを見ずに家を出る。


    ※   ※   ※


 7時53分、母と一緒に星座占いを見終えてから家を出る。

 ゴミ捨てを頼まれた時は、少しだけ速足になる。鞄の中に入れてある文庫本を取り出すも、まだ手に持ったまま広げない。

 曲がり角、大きな駐車場を持つコンビニの所で、立ち止まって深呼吸をした。

 少しだけ顔を出して様子を伺う。

 居た。遠目でもその姿を見ればすぐ分かる。

 心臓が強く脈打つのを感じる。熱くなる頬を速足のせいにして、一度強く目を閉じ、表情を引き締める。遮断機の音が無ければ鼓動の音が漏れ聞こえないか気になって仕方なかったに違いない。

 ここは通勤時間だけ一時的に開かずの遮断機になる。彼はいつもここに引っかかっていて、待ちきれないのか、大きな体を電車の来る方向へ向けている。本を開き、隣に並ぶ。少しして、一歩前へ出る。

 彼がこちらを見ているような気がした。

 振り向いて確かめる勇気はない。

 声を掛けてみたいのに、別に構わないかな、なんてことも思ってしまう。

 一緒に居るだけで幸せだった。彼と歩く学校までの道がとても鮮やかに見える。もうクラスも別で、以前のように読書を言い訳に近くで過ごすことが出来なくなっていた。

 話せなくてもいい、少しでも長く一緒に居たい。


 カンカンカンカン、この音がずっと鳴り止まなければいいのに。





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