14 王都ローマリア近郊:シスターの執務室
■コックリの視点
簡素な造りのシスターの執務室。
大きさが不揃いの石造りの壁にはアーチ状の縦に長い窓がはめられ、外からの灯りを取り入れている。長い窓の外には、小粒の雨がシトシトと降り注ぐ。雨に濡れた樹木の葉がテラテラと美しい緑に光り輝いて……ああ、優しい雨だ……傘も雨をはじく外套もいらないくらいの優しい雨。
旅先でもあったな……
これくらいの雨なら濡れていこうって……雨に濡れたシスを見て、後悔したこともあったな……濡れた美しい金髪が艶めくように煌めいて、とてもとても妖艶に見えたから……無性に抱きたくなって後悔した……
俺は室内をグルリと見渡した。
引き出しのない机と日誌を保管する本棚、壊れてしまいそうな応接用のテーブルと椅子……ああ、本当に質素だな……清貧か……俺はちょっと贅沢をしてきてしまったかな? 仕事柄必要とはいえ、栄養価の高いものをたくさん食べ、ヴェネリアやアラルフィでは観光までしてしまっていたし……
でも、シスにたくさんの思い出を作っておいてあげたい……
俺が死んだ後も、淋しくないように……
俺は引き出しのない机の上で文を書いている。ヴェネリアの商人宛ての文だ。呼吸器が悪いマリアの薬を安価で手に入らないか……類似の薬がないか確認するための手紙だ。とりあえず俺ができそうな対策はすべてとっておこう。
その時、扉の向こうにある食堂からにぎやかな声が聞こえた。
少女たちの華やかな高い声だ。きゃっきゃ、きゃっきゃとまあ……雨の日だとこんなににぎやかなんだな。天気がいい日は、全員労働で出払ってるしな……ふふ、たまにはいいよな。
俺はにぎやかな声を聴きながら、文を書き終える。アリアにも手紙を書いて、この修道院の窮状を伝えて協力してもらおう。
よし……これでよし……
あとはヴェネリアの商人から色よい話が聞けるよう祈りながら……
と、あれ? 何だかいい香りが……
その時、執務室のドアがノックされた。
「どうぞ」
「お邪魔しますね……」
そう言って入ってきたのは、黒い修道服に身を包んだシスだった。
おお、帰ってきていたのか……雨の中、外に行っていたんだよな。でも全然濡れてないな。水の精霊や風の精霊を使って、濡れないようにしていたのかな。しかし、本当に線が細くて(胸は除く)、華奢で……美しいな……。おや、手にトレイが……。あと、扉の向こう側で弟妹たちがニヤニヤしてこっちを見ていた。なんだ?
「帰ってたんだね、お帰り」
「うん、ただいま。でも二時間以上前には帰ってたんだ」
「あれ、そうなんだ? 雨だったけど、どうだった?」
「うん、楽しかった。目当てのものも見つけられた」
「目当てのもの?」
何だろう……子供の頃の、俺の痕跡だろうか……ちょっと不安。
シスはトレイを持ってやってくると、机の上に置いた。ああ、紅茶のいい香りだ。おおータルトだ。チーズタルトだな……三角形に切り取られて断面が見えていて、紅茶とともに二人分が乗っている。ん? 紅茶の香りのほかにも食堂から何か匂うが……今晩の夕飯かな。
「紅茶を入れて……皆で食べるようにお菓子を作ったの」
「おおーさすが」
「コックリの分はこれで……」
「おおー、サンキュー」
「い、一緒に良いかなぁ?」
シスは顔を赤くしながら言った。
その後ろでマークとマリアを除く弟妹たちがニヤニヤニヤニヤしていて……ああ、弟妹たちに焚き付けられたか、からかわれたかで変に意識してしまったんだろうなあ。たぶん後者かな。いつものように、当然のように二人分の菓子と紅茶を乗せて運ぼうとしたら茶化されたんだろうな。シスは赤い顔で汗をいっぱい飛ばして……俺の返答を今か今かと待っている。いつも食事も寝る時でさえも二人っきりなのにそんなに意識しないでも……まあ、そんな変わらないシスが大好きなんだが……
「ふふ、もちろん」
俺が目を細めると、子供たちがまたきゃっきゃ、きゃっきゃ騒いでいた。騒ぐほどのことかね?
シスは扉を閉めると、シスはホーッとため息をついた。「大丈夫?」と聞くと「大丈夫」って。彼女は俺の席の前に座った。うぅーむ、座った姿も綺麗だな。
「あ……手紙を書いていたの?」
「ああヴェネリアにね」
「ヴェネリア? ああ、アリアさん宛て?」
「ん? ああ、アリアとヴェネリアの商人宛て……んー、いい香り……うん、美味い!」
「うふふ」
俺が紅茶を飲むと、シスも紅茶に口をつける。
カップに視線を落としたシスを見て……何て長いまつ毛だろう。長くてクルンとしていて……切れ長の目をより一層大きく見せている。頬もツヤツヤしてゆで卵のようにツルッとして……ピンク色のフルフルとした唇が本当に可愛らしい。光る海で何度も何度も口づけした感覚が思い出されて……何だかモヤモヤしてきた。いやいや、今は忘れて……忘れて……ああ、いい香りだ。何でもないこんなひと時が、本当に幸せだ。
「ねえコックリ……。マリアちゃんの呼吸器疾患って……気管支の病気よね?」
「ああ、そうみたいだ」
「マリアちゃんに聞いたんだけど、具体的な症状は呼吸が苦しくなって、息ができなくなることよね」
「ああ、どうやら埃とか病原菌とか寒さとか……呼吸器が敏感に反応するようだね。この喉から肺にかけてある気管支が炎症を起こして狭くなるみたいだ」
「うんうん……それで呼吸がしづらくなると……」
風邪をひいただけでも死にかけたことが何度もあるようだ。何度も呼吸困難に陥って……。呼吸ができなくなるだなんて……とても、とても苦しいだろう……
マークの言葉が思い出された……
聖霊は不公平だ……
「生まれ持った……器……」 ふとシスがそうつぶやいたので、俺は思い出した。
「あ、そうだシス。三つほど問題と悩みがあったけど、たぶん二つは解決だと思う」
「え、そうなの!? 三つの問題ってなんだっけ? そのうちの二つって?」
「ああ問題を三つにまとめたのは話してなかったな。三つの問題は、①修道院の運営、②マークの態度の理由、③今の俺は聖学院に行って良かったか、だね……」
「なるほど……」
「そのうちの問題解決した二つってのは②と③で……まずは②のマークの件だけどな……」
「あ……それ……実は聞こえてたんだ……」
「聞こえてた?」
「うん……。あのときにはもう食堂にいて……ゴメンね、二人の話……聞こえてて……ゴメンね」
「そっか、別にかまわんよ。ああ、だからさっき『 器 』って言ったのか……うん話が早くて良いや。そう、マークの件だけど……たぶんマークの取り越し苦労だと思うんだ。マリアがシスと会った時、恋人だって話したけどショックを受けてたわけでもなし……」
「うん……うん……」
「まあ、マリアが良くても当のマークが気にしたままだとなんだから……後で四人で話そう?」
「うん、ありがと……」
シスが笑顔になったのを見て、俺はタルトに口をつけた。
ううーむ、美味いな。アラルフィの町で買ったチーズを使っているのかな? ふふ、この美味しさなら子供たちも大喜びのことだろう。俺は紅茶を飲むと、再び話し始めた。
「さらに③の今の俺はこれで良かったか、だけどな……」
と俺は気が付いた。
シスがカップを持ったまま、何か考えていることに……。切れ長の瞳が、どこか虚空を見つめていて……。その虚空を見つめる翡翠色の瞳の、なんと美しいことか……。きめ細かい白い肌……ピンク色のフルフルとした可愛らしい唇……儚げな美しさ……
改めて見ると……本当に……妖精……なんだよな……
何を見つめているのかな……?
何を考えているんだろうな……?
彼女は、本当に俺のもの……なんだよな……
言葉もなく見つめていると、シスは俺の視線に気が付いて……ビクッとした。
「あっ! ゴ、ゴメン! 何か話してた!?」
「いや……」
「ゴメン、考え事してたの!」
「うんうん、分かるよー」
「お、怒ってる?」
「いや全然……ただ……」
「ただ!?」
「ただ、見惚れてしまってな……」
「ええ!?」
シスは頬を赤く染めた。
「……何考えてたの?」
「う、うん。コックリとマーク君との話のことでね」 シスはカップを持ちながら上目遣いに俺を見た。うーむ、可愛い。「……それでね……」
「ん? どうした?」
「うん……その後のね……話ね……」
「その後の話?」
「うん……『 器 』の話……」
シスはチラチラと上目遣いで俺を見ていて、何とも可愛い。チラチラする度に長いまつ毛が動いて……うーむ、胸がキュウゥッとする。俺は極力平常心を装おって、カップに口をつけた。
「ああ、器の話ね……」
「うん……いい話だなって……」
「ふふ、そうだな……」
「それでね……」
「うん」
「あのね……」
「うん」
「わた……」
その時、二階からけたたましい足音が響き、「コークリット兄さん!」と俺を探す叫び声が響いた!
「マークだっ!」
「ま、まさか……」
俺とシスはカップをその場に置くと、駆け出した!
隣の食堂に飛び出ると、弟妹たちがドアのすぐのところにいてぶつかりそうになって……オイオイ、聞き耳立ててたのか!? まあいいや、妹たちも心配そうに階上を見上げている。と血相を変えたマークが階段の上から駆け降りてきた。
「マーク! ここだ! どうしたっ!?」
「兄さん!」 マークは階段の中程で泣きそうな顔で叫んだ。「マリアが!」
「発作かっ!?」
「うう~! うん!」
俺とシスは階段を駆け上がると、マリアの部屋から動物が鳴くような甲高い喘鳴が聞こえてきた。
「ヒュウゥーッ! ヒュウゥーッ! ヒュウゥーッ!」
「マリア!」
「マリアちゃん!」
マリアはベッドの上で起き上がり喘鳴を上げていた。何てひどい呼吸音だ! 何かが詰まったような、狭い管に空気を送るような、なんというひどい音だ! マリアは苦しくて苦しくて、ガクガク震えている! 俺たちの姿を、血走った目で見つめた!
ああ! 唇も爪床も紫に変色している! チアノーゼか!
「兄さんっ! こんなひどい発作、初めてだようっ!」
「何!? いつものよりひどいのか!?」 いったいなぜだ!? 「マーク! 薬は!?」
「うう~、そこにあるけど、ひどくて飲めないんだっ!」
ベッドの横に小さな机があり、そこに丸薬が置かれている。いつもは悪くなる前に飲むようだが……マズイマズイッ! 震えがひどくなった! マリアはシスに助けを求めるように震える手を伸ばす! シスはその手をがっしりと握りしめた。
「聖魔法をかける!」
「お願い! コックリ!」「うう~兄さんっ! お願い~っ!」
マークは泣きだした! 任せろ!
もちろん聖魔法をかけてもチアノーゼは治らない。血中の酸素が聖魔法によって補われるわけではない。
だが、炎症などで気道を閉塞させている状態を元の状態に戻すことは可能なはずだ。いつも通り呼吸ができれば、何とかなるはずだ。
俺は急いで手に霊力を集めると苦しむマリアの胸にあて聖霊の奇跡の力を祈る。すると俺の祈りに呼応して手が暖かな光で輝き始め、マリアの上半身が黄金色の光に包まれた。
「「わあぁっ」」
いつの間にか扉の所にいた子供たちが一斉に驚きの声を上げる。
黄金色の光がマリアの胸にどんどん吸い込まれていく。相当悪いようだ。でも黄金色の光が吸い込まれていくごとに、マリアの呼吸が穏やかになっていく。
「ヒュゥーッ! ヒュゥーッ! ヒュゥーッ ヒュゥーッ ヒュゥ、ヒュゥ……ハァ……ハァ……」
黄金色の光の中で、マリアの呼吸は安定していった。
マリアがシスの手を握りしめる手も、徐々に落ち着いて行って……体の震えも、紫色だった唇も手の指先もだいぶ良くなって……
俺は握り拳を作った。
「よしっ! よしっ!」
「わあ!」「やった!」「良かった!」
皆が喜んだ。ああ、やはりマリアには聖魔法が使える誰かが必要なんだろうか……
だが、聖魔法を多用するわけにはいかない。聖魔法を使えば使うほど、マリアの体は弱くなっていく。自己治癒力が働く前に外部からの圧倒的な奇跡の力で治されるため、聖魔法を使えば使うほど自己治癒力は衰え体が弱くなっていくのだ。自己治癒力が落ちれば免疫力も弱くなり……ちょっとした風邪にもすぐにかかるだろう。今よりももっともっと、発作が起きやすくなり、症状が悪くなっていくはずだ。
やはり薬だ……
薬で自己治癒力や免疫力を高めていかなくては……
あるいは今の俺のように、どうしようもなくなったとき対応できる司祭がいる修道院に……
病療修道院に……
「どう……したのです?」
寝ていたはずのシスターが騒ぎに気が付いてやってきた。ああ、幾分か顔色もいいな……まだ体はつらそうな感じだが……
と思った瞬間……!
「ヒュウゥーッ! ヒュウゥーッ! ヒュウゥーッ!」
再びマリアが喘鳴を上げ始めた!
「何!?」
埃か!?
でもそれなら、聖魔法がきれた瞬間ぶりかえすはずだ。結構なタイムラグがある。とすると別の理由か!? マリアを見ると、悲痛な表情でシスターを見つめて……! 悲しそうな目……!
まさか……!
「マークッ! お前、マリアに何か言ったか!?」
「うぅ~! うわあぁぁんっ!」
マークは泣きじゃくりながらマリアのベッドに突っ伏した。
そうだ、おそらくマークはシスターのことをマリアに話した……マリアの薬代のことでシスターが倒れたことを……そのショックでマリアは……! じゃあこの発作は精神的なショックか!? 心因性のもの!? だとすると、どうする!? 心因性とすると、聖魔法で心理的な不安を取り除いても、すぐに思い出してまたぶり返すぞ……!
「ヒュウゥーッ! ヒュウゥーッ! ヒュウゥーッ!」
「落ち着け! マリア、落ち着け!」
「マリアちゃん! 落ち着いて!?」
「うわああああぁぁんっ!」
どうする!? 再び聖魔法を使うべきか!? でも心因性ならすぐにぶり返すぞ!? 何とか薬を飲ますか!? 飲めるか!? いったん聖魔法で回復してから飲ますか!?
「マーク! とりあえずシスターのところに行ってろ!」
「やだああぁぁぁぁっ!」
マークは自分のせいでマリアが苦しんでしまったことに混乱している! 泣き叫んで取り乱して……その悲痛な様子にマリアはもっと発作がひどくなった! その時、子供たちが!
「わああぁん!」「シスター、怖いよおっ!」「うわあああんマリアが死んじゃうぅ!」「びえええええっ!」「ああ、落ち着いて……」
ああ! 弟妹たちも動揺してシスターにすがり付いて一斉に泣き始めた! 動揺が動揺を呼び、不安が不安を呼んで、マリアの容態もさらに悪く、子供たちの動揺もさらにひどくなってきた!
「ゼヒュウゥッッ! ゼヒュウウッッ! ゼヒュウゥウッッ!」
「うわああああああん!」「あああああ~ん!」「わああぁ!」「びえええええっ」
マズイッ! マズイ、マズイ、マズイッッ!
くそ、まずはマリアを助けなければ……! でも皆がこんな状態じゃすぐに呼吸困難に逆戻りだ! くそ、マリアを静かな環境に置かせてくれ! くそ! くそぉ!
「皆! とりあえず落ち着け! 静かにしてくれ!」
「うわああああああん!」「あああああ~ん!」「わああぁ!」「びえええええっ」
「マリアが! さらに不安になる! 静かにしてくれ!」
「ごわいよおおおおっっ!」「ぎゃああああんっっ!」「びいいええええっっ!」
「静かにしてくれっ!!」
「びやああああああんっっ!!」「んぎゃああああぁぁんっっ!!」
と、その時!
驚くべきことが起こった!!
予想外に長くなりましたが、次回で最終回予定です