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10 王都ローマリア近郊:シスターの容態

 

 ■コックリの視点



 さっきまでの晴れた青空が、嘘のように曇り空に変わっている。

 灰色のぶ厚い雲が天を覆い、強い風が樹木を激しく揺さぶって……少し湿り気を帯びた冷たい風が開いた窓から入ってくる。ああ、どこからともなく太鼓をたたくような遠雷も聞こえて……空を震わせる振動は、聞く者にそこはかとない不安感を呼び起こさせる。

 ……激しい通り雨が来るかもしれない。



 調度品の少ない質素なシスターの執務室で、帳面を見ていた俺はシスの声で我に返った。



「コ、コックリ! シスターが! シスターが!」



 シスが今にも泣き出しそうな顔で……床に倒れ込みそうなシスターを支えながら叫んだ。ああシスター! シスターは体の力が全部抜けたように、ぐったりとして……!



 俺は持っていた帳面を机に放ると、シスの体ごとシスターを支えて……ビックリした。

 ビックリした……



「ああ、シスター……そんな……」



 俺がビックリした理由……

 それは、シスターの体が骨張っていて……軽かったからだ……



 俺が記憶しているシスターは、もっと柔らかくてほがらかな印象だった。こんなにガリガリで骨ばっていなかった……。ガリガリの体を表すように、体重が軽い……あまりにも軽い。この年代の女性ならもうちょっと体重があってもいいはずだ。



「ああコックリ。どうしよう、シスターが……シスターが……」



 シスがオロオロとして……

 俺は片手でシスターを抱きながら、もう片手でシスの背中をポンポンと叩いた。大丈夫……シスターは大丈夫だ……。彼女がオロオロしてくれたおかげで、俺は逆に落ち着けた。



 俺はシスターを注意深く観察した。

 シスターの肌は乾燥して弾力がなくなっていて、少し青白い。仰向けになると頬がこけて目が落ちくぼんで見える……。俺がシスターに感じていた違和感は、これか……。そしてこのような状態は、あれしかない……



「コ、コックリ……シスターの容態、どうなの?」

「……」

「大丈夫なの? どうして気を失ってしまったの?」

「……」

「教えて……お願い」

「ああ、そうだな……。これは……たぶん……」

「たぶん……?」

「……栄養失調だ……」

「え、栄養失調?」



 昨晩の食事を見て思ったが……

 とても、とても質素な食事だった。質素過ぎる食事だった。俺とシスが急に来訪してしまったからその日だけ特別かと思ったが、そうではないのかもしれない……。俺が暮らしていた時よりも、質素だ。俺が暮らしていた時は、今よりももっと孤児たちがいたのに、その当時よりも質素な食事だった。そしてシスターの食事量は、とてもとても少なかった……



 おそらく、半年かそれ以上……ずっとそうだったのだろう……



「シス。とりあえず上の居室で休ませよう」

「うん」

「それで何か液体状のもので、精のつくものを(こしら)えてくれるか? あまり味の強いモノじゃなく」

「うん、分かったわ!」



 俺は両腕でシスターを抱き抱えると……

 ああ何て軽さだ……華奢なシスよりもさらに軽い……。こんなになるまで耐えていたんだ……



 俺はシスと食堂で別れ、シスターを二階の居室に連れて行くと、ベッドに横たえた。ああ……薄っぺらいベッドだ……こんなベッドで寝ているのか……気が休まらないだろうに……。これもまた例のことが原因なのだろうか。



 俺は眠ったままのシスターに声をかける。



「シスター。聖魔法をかけます」



 効果は期待できないが、聖魔法の癒しの奇跡をかけよう。やらないよりはましだ。



 俺はシスターの上に両手をかざすと霊力を手に集める。

 魔法はこの霊力を変換して使われる。霊力が集まると俺は聖霊に奇跡の力を祈る。すると俺の祈りに呼応して、手が暖かな光で輝き始めた、よし。俺はシスターの頭と腹部に優しく手を置く……と……暖かな黄金色の光がシスターの頭と腹部に伝わり、光で包まれる。しばらくそのままにして……



 手に集めた霊力がなくなるのを感じてから手を引くと、俺の手の光はなくなっていて、代わりにシスターの頭と腹部がそのまま光っていた。またしばらく待つ……と、黄金色の光は徐々にシスターの体に吸収されていき……俺が見守る中、黄金色の光はフルフルとその体の中へと消えて行った。



「シスター……」



 声をかけるが、反応はない……



 青白い顔はそのままだ……当然か……

 そう……聖霊の奇跡、聖魔法を使ったとして栄養失調の体に栄養が補給されるか……といえば、もちろん補給されない。存在しないものを補給するようなことはできない。それは栄養だけではなく、肉体の欠損の場合も同様だ。たとえば腕をモンスターに喰われ完全に失くしてしまった場合、聖魔法をかけても腕は生えてこない。あくまでも傷口がふさがるだけだ。



 聖魔法は、何でもありの万能なものではない。



「シスター……」



 再び声をかける……が、反応はない。

 聖魔法の効果はなかったが……幾分か表情が和らいでいるようにも見える。栄養失調で少なからず体や内臓にダメージを受けたはずだから……おそらくそのダメージは回復したのではないか……



 最悪の状態は脱したのではないか……



 これでシスが何か栄養のつくものを作って持ってきてくれれば……

 その時、ドアがノックされて、シスが入ってきた。



「コックリ、野菜スープを少し薄めてきたわ。野菜の栄養素がとけだしてるから、スムーズに栄養補給出来るんじゃないかな? あとで流動食を作ってみるね」

「スマン、ありがとう」



 俺がシスターを起こすと、シスがシスターの口元にスプーンを運ぶ。でもシスターは固く口を閉ざしたままで……。口をこじ開けようかと思った時、シスがシスターの耳元で囁いた。



「シスター、スープです……飲んでくださいね……」



 そう声をかけてシスターの唇にスプーンを当てる。かぐわしいスープの香りをシスターは吸い込んだ。するとシスターの唇が少し動いて……スープを少しだけ口に含んだ……。シスターは、目を閉じたまま口をモゴモゴと動かしている……



「お口にあいますか……? まだありますよ……?」



 再びシスがスプーンを当てると、シスターはさっきよりもスープを口に含み、そして喉がなった。ああ飲み込んでくれた……しばらくしてからもう一度スプーンを当てると、さっきよりも飲み込んでくれた。もしかしたら、聖魔法を使わずに食事を食べさせたら、内臓にダメージを受けたかもしれない。やはり使っておいてよかった。



 ゆっくり、ゆっくりと、時間をかけてスープを飲ませる。

 一杯のスープを、少しずつ、少しずつ……一時間ほどかけて、少しずつ、少しずつ……



 ゆっくりと、シスターはスープを飲み干した。

 ああ良かった……本当に……良かった……

 いつの間にか、窓には雨粒が流れ落ちていて、バラバラと屋根に雨粒が落ちる激しい音が響いていた。ああ放牧の手伝いに行った子供たちは大丈夫だろうか……風邪をひかないといいんだが……



 シスターがスープを全て飲み干したあと、俺とシスはベッドの隣で話し合った。



「コックリ……シスターは何で栄養失調なんかに……?」

「ああ……」



 俺は言葉を詰まらせた。

 理由は……分かっている。あの帳面を見れば……一目瞭然だ。兆候は一年ほど前からのようだ……。くそ、俺がもっと頻繁に来ていれば……



 俺が説明しようとした時、シスターが目を覚ました。



「……ここは?」

「シスター!」

「ああ……システィーナさん……どうしたんです?」

「どうしたんです、ではありません! 倒れていたんですよ!?」

「倒れ……」シスターは、ああしまったという表情になった後、俺と目が合った。「コークリット」

「シスター。倒れられた理由も、今の現状を生み出した要因も、すべて分かっていますよ」

「……そうですか」

「薬……ですね」

「……」答えないシスターに変わって、シスが問い返した。

「薬?」

「ああ。薬だ。マリアの薬だ。マリアの薬を買うことで、どんどん資金が流出していた」

「あっ」

「……」



 そう、生まれつき呼吸器を患っているマリアは、定期的に薬を必要としている。

 また、たまに発作も起こすようで、その発作を治すためにさらに別の薬を与えているようだが……それらの薬がとても高価なものなので、修道院の運営資金が底をついてしまっている。切り詰められるものは切り詰めているようで、食事や衣服の方へとしわ寄せがいっているようだ。



 俺は……己の迂闊さを呪った。

 俺は思い込んでいた。まだ資金は潤沢にあると……

 まだ資金は潤沢にあると思って……『ある理由』から、運営資金は潤沢にあると思って……



 いや、後悔も反省も後だ……

 今は建設的な対策が必要だ。



 原因がマリアの薬代ならば、最も効果がある対策がある。



 それはマリアを『 病療修道院 』へ入れることだ。

 病療修道院ならば、常に修道僧たちが看護に当たる上、様々な薬が研究され用意されているからマリアにとっては二重に安心できる環境だ。



 マリアにとっても、この修道院にとっても、ベストな解決方法だ。



「シスター……マリアを病療修道院へ入れて……」

「それはできません」



 シスターは俺が最後まで話す前に、きっぱりと拒絶した。



「……なぜです? マリアもここよりは療養できるはずです。病療修道院ならば、様々な薬があります。症状に合わせて適切な処置が可能です。さらに何人もの修道僧が、昼夜を問わず看護にあたっています」

「そうですね」

「高価な薬を買うために、この修道院の運営費を使っているんですから、それが一番ではないでしょうか」

「そうですね」



 シスターは、病療修道院のことはすでに理解している。そしてマリアにとってもこの修道院にとっても、最もメリットがあることは理解していて……理解していて、あえて実行していない。

 どうしてだろうか。



「……なぜ、病療修道院へ入所させないのです?」

「……マリアとマークが離ればなれになってしまう……」



 俺は言葉を失った。

 そう、病療修道院に入所するということは、家族と離れ離れになることを意味する。病療修道院は健常な者は入所できないのは当然のことだ。健常なマークはマリアとともに生活はできない。マークが修道僧になれば一緒に暮らすことは可能だが、病療修道院は女性修道院なので、マークは病療修道院の修道僧にはなれない。



 病療修道院に入ることは、別れを意味する……



「……いつかは皆、離れていきます」



 孤児修道院は、遅くとも十二歳までには別の修道院へ行くか、働き手として農家や商家へと巣立っていく。マークは十歳、マリアは八歳……遅かれ早かれ、別離することになる。俺も、アリアもそうだった……俺とアリアは十歳で孤児院を出た。別離は……必定だ……



「そうですね……いつかは離ればなれになります」

「……はい」

「ですが、まだ幼い……両親を亡くした上、兄妹をさらに引き離すことはできません」

「しかし……このままでは修道院が運営できま」

「お金のために、子供を悲しませたくないの……」

「!」



 俺はハッとした……



 お金のために……子供を悲しませたくない……



 まさか……まさか……

 もしかして……



 シスターは俺の表情から……俺が何を思ったのか理解したようで、下を向いた。



「シスター、まさか……」 俺は乾いた唇をなめた 「俺のことを……気にされているんですか……」

「……」

「え? コックリ……?」



 シスターは沈黙した。

 その沈黙こそが、答えだ。修道僧は戒律により嘘をついてはならない。俺の質問を嘘で切り抜けることができないから、沈黙するしかない。雨の音だけが、その場に流れる。



 俺はうなだれた。そうか……そうだったのか……

 だから……何としても、マリアとマークを……



「……俺が……シスターに……(くさび)を打ち込んでしまったんですね……」

「……」



 シスターはまた沈黙したままだった。俺は立ち上がった。



「……失礼します」

「コ、コックリ……」



 俺はシスとシスターを残したまま、その場を後にした。




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