怪我を覆わない包帯
「よう、諏訪」
僕を呼ぶのは、武御雷。高天原に住んでいる雷神だ。
僕はこの男が嫌いで仕方がない。同時に、最近は嫌いになり切れないあたりまで来てしまっている。
それが何だか腹立たしい。
今日は、そんな鹿島の話をしよう。
「……鹿島か、何の用だ」
武御雷という雷神のことを、僕は敵意と多少の敬意を込めて鹿島と呼んでいる。鹿島が僕――建御名方を、親愛を込めて諏訪と呼ぶように。
ここ日本には、八百万の神々が人間と共存して生きている。お互いが目で視えて、お互いを支え合っているこの国は、異国の神々からすると非常に珍しく楽園に見えるんだそうだ。
そんな神々にも日常というのはもちろんあり、僕が鹿島にちょっかい出されて他愛ない口喧嘩をするのが主な日常だったりする。僕を祀ってくれている神職は、そんな鹿島を突っ返すわけでもなく、微笑ましそうに眺めているだけだ。仮にも祀っている神を打ち負かしたいわば仇みたいな神に対してそんな容赦はいらないというのに。……と思いつつ、鹿島を追い出さないでいてくれることに感謝している自分がいるのも確かなわけで。
「はっは、いつも通りつれねーな。用がなきゃ来ちゃいけないのかい?」
「いけなくはない。その時は菓子のひとつもなければだめだ」
「おぉっと、なかなか言うようになったな」
「そうだな。誰かさんのおかげだな」
「その誰かさんに礼を言わねえとな。……ほれ、今日は洋菓子」
そう言って鹿島は小脇に抱えていた風呂敷をほどく。その中にはなじみの店で買ったらしい洋菓子が置かれていた。黄色い四角のそれは、遠くから見ていてもふわふわだとわかる。甘い物には目がない僕を釣るには充分。
いつも通り、僕は鹿島を社に迎えようとしてふと気がついたことが一つある。
鹿島の体のあちこちに巻かれた包帯だ。
特に目を引くのは細い首に巻かれた包帯。そこ以外に額(ここは雷形の髪留めでとめてある)、右手首と左足首で全部だった。
僕が鹿島と顔を合わせる時は、必ずその四か所に包帯が巻いてある。白くて清潔なそれからは、血がにじむあとなんてない。だけど体の部位にそんなものが巻き付いてるとなると、僕でなくとも心配してしまうだろう。
「なあ、鹿島……」
「あん?」
「その……包帯、いつも見るけど、治りの遅い怪我なのか……?」
おそるおそる聞いてみると、鹿島はあっけにとられた顔をしていた。
本来、八百万の神というのは怪我をしてもすぐに治る。特に天つ神――高天原と呼ばれるいわゆる天の神はそれが著しく早い。いわゆる地上(こちらは中つ国と呼ばれる)に住まう僕ら国つ神々は、天つ神と比べると治りは少し遅いが、人間と比べるとやはり早い。
だから、そんな天つ神を長く負傷させるほどの傷や呪詛……あるいは技術が存在すると思うと、とたんに怖くなった。もしその手段が僕に向けられてしまったらと思うのと、何より鹿島ほどの強者がやられてしまうなんて、と思う心配が怖くさせるのだ。
鹿島は武神だ。腕っぷしに自信のあった僕をあっさりとひねり上げるほどに、あるいはこの国を攻めようとした神々の大軍を単身で全滅させるほどに、その強さは兵器と言っても過言ではない。
その鹿島が負傷だなんて、不安にならざるを得ない。
――が、そんな僕の不安をよそに、鹿島はにーっと笑って答えてくれた。
「ああ、これか。怪我? してねーよ? ほら」
鹿島がするすると首の包帯をとく。額の包帯も外した。どちらにも怪我という怪我は見当たらない。
いや実は目に見えない呪詛がかかってるのかもしれない! という妙な疑りが僕を行動させた。鹿島の首と額にぺたぺた触ってみる。呪詛かと疑った心配は払しょくされた。呪詛の気は見当たらない。
「はっはっは、くすぐってー」
「……ぁ、す、すまなかった! 軽率だったな……」
「いやいや、いいって。いつも頭撫でさせてもらってるからな」
「それで貸し借りなしということか?」
「たまには諏訪にサービス、ってことで」
「いやこれサービスじゃないだろ……」
その後僕らは菓子をつまんで、他愛もないことを喋り午後を過ごした。
日が暮れる前に、鹿島は帰って行った。
そして数日後、僕のもとには珍しく鹿島ではない別の神が訪れた。鹿島が兄と慕うヒノカグツチ殿だ。僕もまた、彼を信頼している。
「やあ諏訪殿。こちらへは久しぶりだね」
「お久しぶりです、カグツチ殿。ここまでご足労頂き、ありがとうございます」
「いいのさいいのさ。うちの愚弟が世話になったね。はい、これお土産」
そういって出してもらったのは羊羹だった。冷やして食べよう。
さて、カグツチ殿は国つ神と天つ神とはまた違う神に属する。それは死者の国である黄泉に暮らす、完全に死んだ神だ。
すでに一度死んでいるからこれ以上は死にようがないという、何だか奇妙な生態をしている。
基本的に、黄泉で暮らす神々は黄泉を出ることはあまりない。用事がなければ高天原にも中つ国にも赴かない。死とは穢れであり、穢れである存在を外に撒き散らすのを避けるためだと父が言っていた。
だけどカグツチ殿は必要以上に外へ出る。穢れが巻かれる心配はなかった。神々の中でも相当古参の彼は、自分から生まれる穢れをしっかり制御して、最大限抑えることに成功している。
「それにしても諏訪殿にはいつも頭が下がるねえ。お父上によろしく」
「いえ、こちらこそ色々とよくしてくださって……。父には僕から伝えておきますね」
僕とカグツチ殿は鹿島を通して多少親交がある。お菓子とか人間達の様子とか海外の神々の話とか、そういうことを話題にお茶を飲むのもしばしばだ。
今日も特に理由なく。カグツチ殿が『ひとりみは寂しいから爺さんの長話に付き合っておくれよ、お菓子持ってくからさ』というお誘いを受け取ったのだ。鹿島と戦って負けて、信濃の地から出られない僕への、さり気ない優しさであると僕は知ってる。
(……ん?)
カグツチ殿をざっと眺めて妙な既視感が芽生えた。
錆びた赤の髪にそれを薄くした赤色の死んだ目、擦り切れた衣服に肩へ羽織った半纏、青白い肌……。いつも見慣れたカグツチ殿だ。
だけど一つ。強烈な違和感があった。それにはすぐ気づいた。包帯だ。
「包帯……」
「ん? あぁ、これ」
カグツチ殿は納得いったというように、首に巻かれた包帯を撫でた。額、首右手左足首……。
そうだ。鹿島も同じ部分に包帯を巻いていたんだ。これだった。
「実はね、私が生まれて間もないころ、逆上した親父殿に斬られちまってね。その頃の神ってさ、今ほど治癒能力が強くなかったから、治る前に死んじまって、傷痕も残っちまったのさ。気持ちのいいもんじゃないから見せないよ」
物騒なことを、カグツチ殿はしれっと述べてみせた。
「……ええ、確かに。いえ、そちらではなく……鹿島も包帯してたなって、思い出したんです。でもあいつ、怪我してなかった」
「包帯……鹿島、ああ! そっかそっか。では今日は、鹿島の話をさせてもらおうか」
カグツチ殿は、お茶を一口飲む。そして付け加えた。『この話をしたこと、鹿島には内緒にしておいておくれ』。
「あいつが怪我してないにも関わらず包帯してるのが気になるんだろ? なに、不思議なことじゃない。自然なことさ。
私が死んで、あいつは生まれた。まああいつに限らず私の弟妹ってのは、私によくなついてくれてね、とりわけ鹿島が私を慕ってくれていた。
んでさ、死んで黄泉の国へ私は行ったわけだけど。傷は治っても痕が残るんだ。鏡で自分みるとうわひでえってなるくらいでさ。
人前に見せびらかすもんじゃないから包帯とか布とか巻いてやり過ごしてたけど、やっぱり目立つんだよ。それでどうしても注目浴びちゃうわけだな。爺さんは恥ずかしがり屋だから困っちゃうんです。
そんな時にね、鹿島がひとつ思いついてしまったのだな。
自分も兄と同じように、人目にさらされてやろうと。
だからあいつは、いつも包帯巻いてんだよ」
ころころと笑いながら、カグツチ殿は鹿島のことを話してくれた。
何も怪我していない、してもすぐに治る、いやむしろ怪我することがない鹿島が体のあちこちに包帯なんて、と思っていた謎がここで解けた。
「まーガキの頃のあいつはバカだったからさー、今でも結構バカだけど。でもあいつのバカには救われたなあ。
あ、この話、くれぐれも他言無用でよろしく頼むよ。口の堅い諏訪殿だからこその内緒話だ」
ね? とカグツチ殿は押す。
お茶をすすって、僕は一通り考えた。
あの包帯、とても真っ白で清潔で、新品そのものだった。
その包帯を纏うことで、兄を少しでも守ろうとした、弟の心があったのだと。
「頼むよ? 内緒で頼むよ? ばらされたら私死ぬから殺されるから」
やけに詰め寄って念を押すカグツチ殿だ。すでに死んでるのに死ぬやら殺されるやらとはいかに。
「わかってますよ。誰にも言いません。僕、口がかたいですから」
口が堅いというのももちろんある、が。
何より、誰にも教えていない、鹿島の秘密の一つを、僕だけが教えてもらったという優越感に、何となく浸っていたいからな。




