静かな夜に捧ぐ歌。
出会いは突然に訪れた。
***
「……アルマ? れ? いないのか」
深夜過ぎ、と言ってもどちらかというと明け方に近い。
ふいに目が覚めて、隣にアルマがいないことに気がついた。
こんな夜更けに、しかも何も言わずに出て行く、というのはちょっと珍しいことではあったが、まあ、あまり自分が詮索していいことでもないだろう。
首を一振りして、余計な考えを打ち消した。
「ふ、う~んっ」
寝台の上で大きく伸びをして、月を眺めるために窓辺に近寄った。
今日の月はやけに赤い。
と、この宿屋の向かいの家に、まだ明かりが灯っていることに気がついた。
そういえば、あの家の次男坊が学者になるための勉強をしているとか何とか、昼に食堂で誰かが話していたのを聞いた。
おそらくそれだろう。
こんな時間までご苦労なことだ。
しばらくそれをじっと眺めていると、その家の庭に李の木があるのを見つけた。とうに開花時期も実のなる時期も過ぎており、今はただ次の開花に向けて準備をしているようだ。
とうに夜も更け、皆が深い眠りについた中、静かに虫の音だけが木霊す。
「李、か」
懐かしいそれに、シンはそう遠くない昔のことを思い出していた。
***
まだ、シンが猫の呪いにかかる前のこと。
その日、シンは薬草を探しに行くため、森の奥へと向かった。
そろそろ作り置きもなくなる頃だし、早めに採取しておいても悪くはあるまい。それに今の時期なら丁度、李の実が成っているはずなのだ。
李の実には肝機能を高める働きがある。また、乾燥させれば貧血剤としても有用だ。少し多めに採って、食用にしてもいい。
何にしろ、この期を見逃すのは実に惜しかった。
さて。しばらく進むと、予想通り、李の木を見つけた。今年は結構たくさんの実がなっている。この分なら自分の食料としても確保できそうだ。
シンはさっそく、一番近くにあった木に手を伸ばした。
「コラ! そこの李泥棒!」
「おわっ」
突然、頭上から李の実がものすごいスピードで降ってきた。
慌てて受け取るために手を伸ばすが、間に合わずに敢え無く地面に激突し、無残にも潰れてしまった。
ああなんてもったいない。
なんとか潰れずにいた片側をしげしげと眺めると、おもむろにそれを籠の中に入れた。食用としては無理でも薬用としてなら、まだ大丈夫だろう。
「食べるつもりなの、それ?」
頭上から聞こえてきた少女の声に、ついと上を向く。
見上げた先には、それほど高くはない李の木の枝に、くすんだ金の髪に浅葱色の瞳をした少女が、足をぶらつかせながら腰掛けていた。
いや、少女というには少し大人びているだろうか。
あまり美人などという表現の似合う子ではなかったが、瞳の輝きから意志の強さと朗らかな性格が窺える。
「いや。食べるんじゃなくて薬の調合に使うのさ」
「ふうん」
いきなり李を投げられたことには何も言わず、ただ李の使い道を説明してやったのだが、少女はたいして興味もなさそうに呟いた。
と、その少女が何の前触れもなしに突然、ふわりと飛び降りた。
「は。あぶっ」
着地も何も考えずに飛び降りた少女をシンは慌てて受け止めた。
しかし支えきることが出来ずに、そのまま倒れこむ。
後頭部を強かに打ちつけて、少々涙ぐみながら、馬乗りのような体勢になってこちらを見下ろしている少女を睨み付けた。
「馬鹿野郎! 怪我でもしたらどうするんだ!?」
本気で心配して言っているのだが、少女は何故か楽しそうに微笑んだ。
「優しいのね、あなた」
少女の本当に楽しそうな笑顔の奥に、一瞬とても悲しげな翳が垣間見えた気がして、何だか急に怒る気力が萎えてしまった。
「……こんなところで、あんたみたいな女の子が何してたんだよ?」
ここは森の中だ。
まだそう深くはないにしても獣がいるし、とても危険だ。
女の子が一人でうろつけるような場所じゃないのに。
「散歩よ。ここ、気に入っているの。静かだから」
馬乗りの体勢になったまま少女は、辺りを眺め廻してそう言った。
「あなた、名前は?」
「……シン」
「そう。シンね。私はアーシャよ」
そう言って、少女は実に嬉しそうに花のような笑顔を零した。
これが、アーシャとの初めての出会いだった。
そしてこの日以来度々、アーシャと名乗るこの少女と会うようになっていった。
今はもう、随分と昔の話になってしまったような気がするが。
***
随分と懐かしいことを思い出したものだ。
実のない李の木を眺めながら、シンは細く小さくため息を吐いた。
「あら。もう起きてたのね」
振り向くと、アルマが戸の前に立っていた。
「あ、ああ。……どこに、行ってたんだ?」
口にしてしまってから、しまった、と顔をしかめた。
聞くべきではないと思っていたのに、ついつい口に出してしまった。
アルマとは互いの行動にいちいち何かを言うほどの仲ではないはずだ。なのに、どうして聞いてしまったのだろうか。
「別に。どこだって構わないでしょう」
珍しく、怒気を孕んだアルマの言い方に、少々驚いた。
が、確かにアルマがいちいちその行動の全てを話す義務はない。
そんな権利もないし、それほどの間柄でもないだろう。
そのことを多少寂しく思いつつも、そんなに気にする程のことでもないのだと思い直し、再び李の木へと視線を動かした。
細々と灯っていた明かりが消える。
どうやら次男坊がようやく眠りにつくようだ。
シンは、今度は深く太くため息を吐いて、窓に額を押し当てた。
夜気を含んだ窓は案外、ひんやりとしていて気持ちが良い。
そういえば、アルマとの今のこの関係は、いったい何と表現するべきなのだろうか。旅の仲間? 仕事の依頼人とボディガード? それともご主人とペット、か?
何だかそのどれもつまらない気がして、しかし何故そう思うのかも分からず窓辺にもたれかかった。
窓の外では、実のない李の木がただただ、風に揺れて靡いていた。