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妖精の女王。




 その日は朝からおかしかった。異常だったと言ってもいい。

 まず、アルマに非常食として食べられそうになる悪夢で目が覚めた。

 それから顔を洗おうと思って窓から外に飛び降りると、いつもならありえないのに、見事に着地に失敗して水瓶の中に鼻から落ちた。

 それだけじゃない。

 朝食にホットチョコを頼んだはずなのに何故かホットミルクが出てきた。

 俺は大のミルク嫌いなのに。

 仕方がないのでそれはアルマに譲って、何も食べずに一人で散歩に出かけた。

 が、町の子どもたちに目をつけられてしまい、散歩からフルマラソンに目的を変える羽目になった。

 今日は本当におかしい。

 だからこそ何となく嫌な胸騒ぎがしていた、とは後になって思ったことではあるのだが。






***



 ふと気がつくと、見知らぬ場所にいた。

 確か子どもたちをようやく振り切って、草むらで休憩をしようとしたのだ。

 それでふと、菫色の綺麗な花が一輪だけ咲いているのを見つけた。

 アルマにあげたら喜ぶかもしれないと思い、その花を手折るために近寄ろうとした。そこまでははっきりと覚えているのだが。


「……どこだよ、ここ」


 どこを見ても色とりどりの花に囲まれた、美しい花畑。

 雲ひとつない晴天で、小鳥たちが楽しげにさえずり、空には大きな虹がかかっていた。

 おそらくこれは別次元だ。

 じゃなきゃ、直前まで見ていたはずの照葉樹林と田園風景の説明がつかない。

 どうやってここへ来たのかもどうすればここを出られるのかも分からず、シンは途方に暮れていた。


「可愛らしい姿よのぅ」

「可愛いとか言うな! ……ん?」


 唐突に聞こえてきた随分と可愛らしい声に、とりあえず抗議をしてから首を傾げる。辺りを見回してみるが、全くもって人の気配を感じない。はて。


「そうか。忘れておったわ。お前たち人間に妾の姿は見えぬのじゃな」


 そんな言葉が聞こえたかと思うと、シンの目の前に咲いていた菫色の花が、眩く光った。目を開けていられず、慌てて目を瞑る。


「……ふぅ。この姿になるのは久方ぶりよの。(ぬし)、これでどうじゃ?」


 まだあどけなさの残る少女の声が聞こえてきた。

 しかし何となく、そこ妙に威厳のようなものを感じるのは気のせいか。

 光が残像のようにちらつく中、恐る恐る目を開けた。

 黄金の髪と菫色の瞳。

 とてもこの世の者とは思えないほどに美しい少女が、シンの目の前に立っていた。いや、少女というにはどこか大人びている、というよりそれは、老成しているといってもいいくらいの印象を受ける。

 事態がよく理解できずに口をポカンと開けて呆然とするシンを少女は、実に楽しげに見下ろしていた。


「くく。お主、随分と興味深い呪いをかけられておるのぅ」

「え?」


 そう言えば、この少女。

 先ほどもシンに対して、人間、と言っていた。

 何故人間だと分かったのだろうか。


「人間にしろ何にしろ、男という生き物が実に身勝手に生きておる証じゃな」

「ま、待て。それはどういう意味だ!」

「どういう意味も何も……女子(おなご)を泣かせるのは決まっていつも男じゃ。違うか?」


 目の前の少女の言葉に、一瞬、怒りながら泣いていたある(ひと)の顔が思い浮かんだ。




――もう、お別れね。




 涙を拭う事もせずに、彼女がそう言ったのは、いつのことだっただろう。

 いつも笑顔を絶やさなかった(ひと)の初めての涙。

 俺はあの時、彼女に何て言ったんだっけ。




 シンは首を振って意識を現実に引き戻した。

 こんなに怪しい女の子の言葉に惑わされては駄目だ。

 この少女が何のことについて言っているのかはよく分からない。

 しかし今、それとこれと何の関係がある?

 というかそもそもこの少女は誰でここは何処なのだろう?


「敢えて先に忠告しておくが、人に名を尋ねる時は、まず自分から名乗るものじゃぞ」

「なっ」


 まさかこの少女、今、俺の心を読んだのか?


「わざわざ心を読まずともお主の顔色を見ればすぐに分かること」

「……」


 気のせいかもしれないが、なんか俺、結構いじめられてないか?


「……俺の名はシン。あんたは?」


 仕方なく、という態度で名乗ったシンに、少女は一言、はっ、と吐き捨てるように言い放った。


「それが淑女への名乗り方だと言うつもりではあるまいな!?」


 先ほどまでの妙なご機嫌ぶりはどこへやら。

 一気に不機嫌モードになった少女に、シンはがっくりと肩を落とした。


 なんて面倒くさい女なんだ。


「何じゃと?」

「俺……あ。いや、私はシンという者です。失礼ですが、もしよろしければ、私に貴女の御名を教え下さいませんか?」


 心の声を読んだのかもしれない少女が、ますます不機嫌になる気配を感じ、シンは慌てて言葉を改めた。


「……まずまずじゃが……まあ、良かろう」


 いちいち煩い女だな。


「う。お願いします」


 少女の眉がピクリと吊り上ったのを見て、もう余計なことは考えるまい、とそう心に誓ったシンであった。


「妾はカトレアじゃ」

「……………………え? そ、それだけ!?」


 あまりにも短い自己紹介に、思わず異議を唱える。


「何じゃ?」

「い、いえ。何でも……」


 ……っじゃなくて。


「ええと、貴女はどなた様でここはいったい何処なのでしょうか? よろしければ愚かな私に教えて下さいませ」

「よろしくなければ教えなくても良いのかの?」

「……」

「くく。冗談じゃ。憂い奴よ」


 訂正。少女改め殿、だな。


「ここは我らが妖精の国。妾はこの国の女王じゃ。して、そなたはここに迷い込んだ。そんなところじゃな」


 す、すみませんが、そんなところじゃな、では済まされない話だと思うのは俺だけでしょうか!? これが世に言う異世界迷い込みなのか!?

 という言葉の代わりに、別の言葉を紡いだ。


「も、戻れますかね、俺?」


 この際、ここが何処なのかとか妖精の国って何なのか、とかそんなことはどうでもいいのだ。重要なのはこの一点だけなのだから。


「…………」

「うわ。な、何っスか、その妙な間は!?」

「お主次第じゃろうな」

「は?」

「ここに迷い込む者は、たいてい自らの世界に飽いた者たちじゃ」


 カトレアと名乗る妖精の女王は、少しだけ寂しげに微笑んで言った。

ええと。ということはつまり、俺が元の世界で生きるのが嫌になったからここに来た、とそういうことだろうか。


「……」


 何となくすっきり納得できず、首を傾げる。

 俺はそんなに猫として生きることに嫌気が差しているのだろうか。

 いや、確かにずっと猫のままは嫌だとは思うが。

 

 俺は猫になる前は薬師をしていた。

 人里離れた場所に居を構えてはいたが、それなりに充実していたと思う。

 まだまだ研究の途中だった薬草が山ほどあったし、それらを仕上げずにいるなんて我慢ならない。

 それに、猫とか人間とかを差し置いても俺は別に生きる事に嫌気が差したりはしていないと思うのだ。

 それは、自分が人である時には考えもしなかったこと。

 いや。むしろ、人間として暮らしていた時は、どちらかと言うと人間が嫌いだったかもしれない。騙し合い、争い、奪い合う者たちが。

 だからこそ、わざと人里離れた場所でずっと暮らしていたのだ。

 猫になってからは、人間のそういった醜さがもっと目に付くようになった。

 この姿を気味悪がらないで、初めて友達になってくれた人に、見世物小屋に売り飛ばされたこともあった。そして、その見世物小屋では、食べるものも何も与えられず、寒空の下、ずっと檻に囚われて、人々の哂い者になっていたこともあった。 

 食べ物をもらおうとして、血を吐くまで殴られたこともあったけ。

 この世には悲しいくらいに残酷な人間がたくさんいる。

 けれど、そうでない人間がいることも知っている。

 これは、猫になってから気づいたこと。

 否、猫にならならければ気がつかなかったことかもしれない。

 俺は今猫だから。

 人の目線でモノを見ていないから。

 だからこそ余計に思うのかもしれない。

 結構、人間というものが好きなんだな、って。

 自分に呪いをかけた者を恨み、世を憎み、人を蔑み、そんな自らを嫌悪したとこもあった。けれど、それでも今はこう言える。

 だから、やっぱり元の世界が嫌になったというのは嘘だ。

 俺はちゃんと答えを出すまで逃げるつもりはさらさらない。


「くく。人とは、実に面白い生き物よの」


 女王の言葉に、シンは固い意志を秘めた瞳を湛えて見上げた。


「俺を元の世界に返して下さい」


 そう。

 あちらの世界にはアルマいる。

 だから、俺は帰らなくちゃいけないんだ。


「……良い顔になったな」


 そう言って女王が微笑んだ瞬間、辺りの景色がぐにゃりと歪んで一変した。





***



 気がつくと、元の場所で倒れていた。

 一面の花畑も虹ももうない。ふと前足に目をやると、花が一輪、置かれていた。

 ただ、あの菫色の花ではなく、白くて小さい花だった。


「あ。いたいた。シンちゃ~ん」


 聞きなれた声にシンはのそりと身体を起こした。


「もう、こんなところで寝ちゃ駄目じゃない。心配したんだからね」


 唇を尖らせて言うアルマに、シンは照れくさ気に微笑んで、そっと花を差し出した。


「なあに? くれるの?」


 首を傾げながらも花を受け取ってもらえたことに安堵する。


「……昔のことを思い出してた」

「え?」

「ずっと昔に、好きで好きでたまらなかった(ひと)のことを」

「……」


 アルマの手の中で、その白い花がくるくると廻る。

 シンは、さっと冷たくなったアルマの表情に全く気がついていなかった。


「……戻りたいな。人間に」


 ぼそりと呟いたシンの言葉に、いつもなら笑顔で戻れるわよ、と言ってくれるはずのアルマの返答はなかった。

 けれど、独白めいた自らの呟きと過去の思い出に浸るシンは、そんなことさえ気がつかずに、木々の隙間から伺い見える青い空へと思いを馳せた。



 戻って謝りに行こう。いつか。今はもういないあの子に。



 アルマの手の中で白い花が音もなく、ただくるくるくるくると廻っていた。







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