番外編2/縒り糸。
時間軸は、アーシャ死亡後、二人が出会う前です。
□■縒り糸~朱~■□■
――シンなんて、猫にでも何でもなればいいのよ
アーシャがそう言って逃げるように駆け出した時、本当は、そんなに走るなとか無理するなとか言おうとしていたのだ。
けれど、不思議と言葉として出ては来なかった。
言う資格がないと思ったから。
アーシャは病弱だった。
だから、もっと自分の身体を労わって欲しかった。
もっと自分を大事にして欲しかった。
アーシャのことを誰よりも何よりも愛していたから。
だから、大事に大事に守ろうと思った。思っていた。
でもそれは本当の愛情ではなかったのだと思う。
何故ならば、大事にすることと大事に思うことは全く別のことだからだ。
俺は分かっていなかったんだ。
相手を何よりも大切に思うならば、ただ一途に想い守り続けるだけでは駄目だということを。
きっと俺は、どこかでアーシャの病が治ることはないだろうと決めつけていたのだろう。
そうであればいいと。そうすればずっと側にいられるから。
醜い。本当に醜い。
なんて自己中心的で傲慢で浅ましい人間なのだろう。
自分の愚かさに気がついた時、ひどく後悔し苛立ち、同時にとても悲しかったのを覚えている。
そうして愕然とした。自身のその姿に気づいて。
――シンなんて、猫にでも何でもなればいいのよ
これは報いなのだと、そう思った。
随分と縮んだ自身の身体を眺めているうち、いつの間にか哂い出していた。
ああ愛していたよ、アーシャ。
だけど俺たちは、いくら互いに想い合っていても決して成就することはなかったんだろうな。
愛していたよ、否、愛しているよ、今も昔も変わらずずっと。
■□縒り糸~碧~■□□
――お姉ちゃん
誰もいないはずの室内で、彼女の声が聞こえた。
慌てて玄関の戸を開けてみるが、誰もいない。
数歩、外に出て辺りを見回してみるが、人の気配がない。
2階だろうかと階段を駆け上がって、彼女の寝室、自分の寝室と覗いてみるが、やはり誰もいない。
おかしい。確かに彼女の声は聞こえたはずだと自身に言い聞かせ、さらに、台所を見に行くが、戸棚やテーブルの下を覗いてみても、アーシャの姿はどこになかった。
無駄に広いテーブルの足を握り締めて、崩れるように蹲る。
「……アーシャ……」
震える声に合わせて頬から次々と雫がこぼれ落ちる。
いつも居ることが当たり前だったはずのアーシャがいないこともこの家に誰もいないこともひどく悲しかった。でも、それよりもなお、独りなのだということが無性に怖かった。
全身が震えて嗚咽が漏れそうになるのを慌てて堪える。すると余計に嗚咽は漏れ、止まることを知らない。
「……一人にしないで」
ずっと、ずっとアーシャに言いたかった言葉。
置いてなど行かないで。側に居て。
それでも、どんなに願っていても、両親もアーシャもいない。
自分の周りには誰一人としていないのだ。
守りたかった。何よりも。
どんなに後悔してもし足りない。
心にぽっかりと開いてしまった穴が、何かを求めて疼く。
ぎりりぎりりと締め付ける棘に、思考を奪われ、苦しいくらいに泣き叫びたくなる。どうしていない、どうして居てくれない?
悔しくて怖くて、歯を食い縛ってテーブルの足を叩き殴った。
ゴトリ。
拍子に、テーブルの上に置いてあった李の実が落ち、ゴロゴロと乾いた音を立てて長い弧を描きながら転がった。
ぼんやりとその鈍い軌跡を目で追うと、李は戸棚に当たってコロリと止まった。
しばらくその実を眺めていたが、ふと近所の誰かが言っていたことを思い出した。
近頃、アーシャが村はずれの山奥に頻繁に通っていた、と。
この李の実もその山奥からとってきたものらしかったが、気晴らしに出かけているのだろうと、その時は特に深く考えもしなかった。
けれど、あの山の中には確か、人嫌いの偏屈な薬師が住んでいたはず。
世の中には変わった老人がいるものだと、昔は勝手に老人だと決め付けて思っていたものなのだが。
もし、もし彼女がその薬師に会いに、出入りしていたのだとしたら?
その薬師がどんな人物でどうしてアーシャと知り合ったかなどは関係ない。
ただ、鈍くなった頭で考えを巡らせながら、ふと、何か異質なものが自身の内にじんわりと広がっていくのを感じた。ふいに芽生えたその感情を何と呼ぶのかは分からない。
けれど、居ても経ってもいられなくなった。
「……行かなきゃ」
探しに。その、薬師を。
自分の体がいつの間にこんなに重く感じるようになったのか。
アルマは、のろのろと静かに立ち上がって玄関へと向かった。
その薬師に何を言うつもりなのか、何を求めているのかも分からぬままに。
本年はお世話になりました。
良いお年を。