沈む太陽、昇る月。
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――愛とはあらゆる感情を超越して存在し育む、奇跡の力なのです。
それを否定することは誰にもできません。
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「ねぇ、今度はいつ帰って来られるの?」
しゃり、とよく熟れた李に噛り付きながらアーシャが尋ねた。
「さあ? あまり長くはかからないと思うけれど……どうかしら?」
私がそう答えると、そう、とだけ呟いて再び李に噛り付く。
「どうかしたの?」
「別に」
傭兵稼業を始めてからもう随分と経つ。
本当は傭兵などという戦争に関わらなければならない職などしたくなかったし、どちらかというと毛嫌いしていた方だ。けれど、両親を戦禍で亡くしアーシャと二人で生きていかなければならくなってからは、そうも言ってはいられなかったのだ。
両親は二人とも学者をしていたが、あまり優秀な方ではなく遺産と呼べるものもほとんど残ってはいなかった。
学者、というより研究者といった方がいいかもしれない。
失われた古の力の研究、というものらしいが、いくら話を聞いてもよく理解できなかった。きっと私にはその才が受け継がれなかったのだと思う。
反対に、アーシャは二人の話を熱心に聴いていた。
だからもし、病気がちでなければ、二人の研究を手伝っていたかもしれない。
いや、もしかしたらアーシャの為に二人は無理を押して研究に励んでいたのかもしれない。今はもう、誰も知り得ない話になってしまったが。
ただ、私は、二人の背中を見つめながら、ずっと胸の中に凝る思いを抱えていた。
もっと、実りのある仕事について欲しい。
なんて、熱心に仕事に勤しむ両親にそんな心無い言葉は言えなかったけれど。
だから、若いうちから働いて働いて、気が付けば、二人だけになっていた。
途方にくれたといってもいい。
私に何が出来るだろうか。
両親の葬儀中、涙にくれる妹を慰めながら、ふと考えついた。
自身の骨ばった手を眺め、きつく、握りしめる。
病を抱えた妹を養っていくには、どうしてもお金が必要で、だから、戦の多いこの国でお金を稼ぐには傭兵という職種が一番、丁度良かったのだ。
しかしふとした時、本当にこれで良かったのだろうかと考える。
「そんなに心配しなくてもちゃんとおみやげ買って帰るわよ」
「だ、誰が食べ物の話をしたのよ!!」
「私、おみやげって言っただけで食べ物とは言っていないけど?」
「あ……」
「ふふっ。じゃあ何かおいしもの買って帰るから待っててね」
「……うん。待ってる」
本当にこれでいいのだろうか。
こうやって私が稼ぎに行っている間、アーシャはいつも一人で過ごしているのだ。
生死の心配をするならば、傭兵である私の方がされる側だとは思うのだが、私にはいつ死ぬとも分からない病を抱えているアーシャの方こそ心配なのだ。
それに、ずっと一人でいることの寂しさは自分も痛いほどに分かっているというのに。
「じゃあ、行ってくるわね」
私の大切な大切なたった一人の肉親。守ってあげたいと思う。
これでいいのだと、これしかないと自分に言い聞かせながら扉に手をかけると、隙間から朱色の光が強く差し込んだ。
沈み行く太陽を眺めながら、生き続けることの寂しさを思う。
アーシャを幸せにしてあげたい、そう思っているのに私は今何をしているのだろうか。人の幸せとはどういうものを指しているのだろうか、と。
「……行ってらっしゃい」
必死に笑顔で見送りをしてくれるアーシャにこちらも笑みを返して家を出た。
まさか、これがアーシャとの最後の会話になるとは思いも寄らないことだった。
***
首筋に細い糸のような血の跡が走った。
一滴だけ墓石に添えていた花に落ち、その色を深紅に染める。
「アルマ」
見上げる先で、アルマが頬を濡らしていた。
死んでもいいと思っていた。
アルマになら、殺されても構わないと。
けれど、俺はまたも間違いを犯そうとしていたのだろうか。
「……っでよ」
「アルマ?」
「何で殺せないのよ!?」
もう終わりにしたいのに。
「……すまん」
「自惚れないで。別に私は」
「じゃなくて、お前に嫌なことさせようとした。だからごめん」
そう言って微笑むとアルマに泣きながら睨まれてしまった。
「お前さ、嫌いだろう? 戦争とか人殺しとか。まあ、好きな奴はいないけどさ。なんっつってもアルマは優しいからなぁ。よほどに差し迫った状況じゃなきゃ絶対にその剣、使ったりしないしさ」
「何が言いたいの」
随分と嫌われたものだよなぁと、こちらを睨みつけているアルマを見つめながらしみじみと考える。まあ、当然のことではあるのだが、切ないものだ。
未だ剣は喉元に突きつけられたまま、ピクリとも動かない。
「うん。だからさ、俺は、お前のそういうところ好きだなぁって」
ここで、怒った顔も綺麗だとか言ったらバッサリいかれるだろう。
なんせ、女だてらに傭兵なんてしてる凄腕の剣士様だしな。
「ば、馬鹿じゃないの!?」
「うん。馬鹿だぞ」
憤慨しているアルマに、シンはけろりとした様子で答えた。
「馬鹿じゃないの!!」
「うん。馬鹿だってば」
少しも悪びれずに飄々としているその態度に、ますますアルマは苛立ちを募らせる。
「馬鹿じゃないの!!」
「だからそうなんだって」
頬を伝う涙がとめどなく溢れている。
拭ってあげたいのに、出来ない自身がひどくもどかしい。
己の小さな肉球のある手を見つめ、零れ落ちそうになる感情を押し殺して微笑む。
「何、へらへら笑ってんのよ!?」
星が飛ぶ。
どうやら再び殴られたようだった。
「わ、私は貴方を殺そうとしてるのよ!? 」
吹っ飛ばされた衝撃で頭をくらくらさせつつも、しっかりとアルマを見つめて頷く。
「うん。知ってるよ」
こんなに心が不安定なアルマははじめてだ。
それだけ、アルマにとってのアーシャの存在が大きなものだという証。
「俺さ、今日はアーシャに報告に来たんだよ」
そう口にすれば、アルマの眉尻がピクリと上がる。
「報告?」
眉間の皺が深まったことで、機嫌が再下降しているのがよく分かった。
「うん。でもまあその前に……」
いつの間にかアルマの涙は止まっていた。
そのことに満足しつつ、のそりのそりとアーシャの墓標の前に歩を進め、それからペコリと頭を下げた。
たくさん言わなければいけないことがある。
ずっと、傷ついたからなんてことを理由にして逃げていた。
だけど、もう、逃げたりしない。
「辛い思いをさせて、すまなかった。それから俺を好きになってくれてありがとう」
もっと他にもたくさん言おうと思っていたことがあったはずなのに、その全てが吹っ飛んで消えてしまっていた。
ここまで来るのにも随分と時間がかかったものだ。
アーシャの姿が思い浮かび、くしゃりと顔が歪む。
決して泣かないように、実の姉だというアルマの隣で、絶対に泣かないように。
それだけを意識して、顔を上げる。
どんな思いで俺に呪いの魔法をかけたのだろうか。
どうして謝る機会も与えてくれずに逝ってしまったのだろうか。
震える心を叱咤して、一度深呼吸をする。
どうして気づいてあげられなかったんだろう。
本当は寂しかったんじゃないかって。
もっと、頼ってほしかった。
そうすれば、もっと側に、最後の瞬間までずっと側にいられたのに。
青から一部だけ緋色に染まってしまった花を眺めた。
ずっと、アーシャの死に直面するのが嫌で嫌で、ここに来るのを避けていた。
苦しくて苦しくて。
抱えきれないほどの色々な感情が渦巻き、涙も枯れ果て、あとは、絶望だけが
残っていた。
だから、でも、本当はずっと言いたかった。
感謝していたことを。
かけがえのない日々を与えてくれたこと。
「あの時、お前の気持ちに気づいてやれなくてごめん。でも、俺もずっとお前の幸せだけを願ってたよ。だから、お前が俺では幸せになれないというのならそれでもいいと思ったんだ。けど、どっちにしろ俺はお前を苦しめることしか出来なかったみたいだ。……ごめん」
もしかしたらあの時すでに、アーシャは自分の死期を予感していたのかもしれない。だからこそ、あんな風に自分から俺を引き離そうとしていたのではないだろうか。つくづく俺は、なんて愚かでなんて幸せ者なんだろう。
「……違うわ」
「うん?」
振り向けば、剣を鞘に収めたアルマが胸元をきつく握り締めて俯いていた。
「違うわ。シンちゃんは悪くないのよ。本当は……本当に悪いのは……」
震える声に涙が混じる。
きっと、誰しもが心に闇を抱えて生きている。
人には言えない、理解してはもらえない、深い闇の檻。
「なあ、アルマ。不思議だと思わないか?」
「え?」
顔を上げたアルマに二コリと微笑んで、夜空を見上げた。
それにつられるようにしてアルマも上を見る。
「空ってさ、太陽が沈んでもすぐに月が上って来るんだ。雨が降ってもいつかは晴れ、夜空が曇っていてもそのうちに星々が輝き始める。空っていうのは、いつもそうやって成り立ってる」
俺は、俺が、アーシャを殺したんだ。
笑顔の下に、ずっと孤独というの名の闇を抱えていた少女。
俺は、病だけじゃなく、アーシャの心に巣食った病魔も治してやれなかった。
だから、俺にアルマを慰める資格はない。
最愛の妹の敵として、殺されても仕方のないことだと思う。
許されないことだから。
けれど。
だが、俺はもう二度と、間違った選択をしてはいけない。
道を踏み外すわけにはいかない。
願わくばもう、檻に囚われ続けないで欲しいから。
どうかせめて、アルマだけでも。
ただの驕りや自己満足かもしれないけれど。
それでも、どうか前を向いて生きて欲しい。
「きっと、それは、とても尊いことなんじゃないかと思うんだ」
明けない夜はない。
頑張れ、頑張れって、そう言ってくれている気がしてくる。
せめて、アルマだけでも幸せになって欲しい。
なんて、決して俺の口から言えはしないけれど。
「俺も……俺達も見習わなきゃいけない気がするんだ」
たとえどんなに傷ついて悲しんでも、後悔に囚われてはいけない。
過去があったからこそ今がある。
そう思えることの方がずっとずっと大切なのだ。
だから、どうか、泣かないで欲しい
「シンちゃん……私の話を聞いてくれる?」
重い沈黙を破り、取り出したハンカチでシンの首筋を宛がいながらそう告げたアルマに、シンはコクリと頷いた。