恋々。
パキリッ。
踏み出した足の下で枯葉が崩れ、小枝が折れる音がした。
その音に驚いたかのように、鳥たちが一斉に羽ばたいて行く。
私もあんな風に羽ばたいて行けたら良かったのに。
鳥が羽ばたいて行く方角を眺めながら、ふとそんなことを思った。
けれど、すぐに首を振る。
いいや、それは違う。
鳥は空にも大地にもどちらにも属することが出来るのだ。
だから、鳥になりたいと思うのだろう。
自由に、空にも大地にも身を置くことを常とし、どちらにも属していながらどちらをもその思い一つで行くことが出来る。
どちらでもあり、どちらでもないもの。
パキリッ。
また一つ、小枝が折れる音がした。
冷ややかな風がコートの裾を煽るように駆けて行く。
今の私は、いったいどちらに属しているのだろうか。
空か地か。過去か現在か。
どちらでもあり、どちらでもないもの。
もしかしたら私はもう……
カサリ。
行く手を阻むように茂る草木を払いのけ、そうして開けた場所でアルマは足を止めた。
再び風が駆け抜けて行く。
空を大地を心に開いた小さな穴の一つ一つを。
あれからもう二年の歳月が過ぎていた。
いや、過ぎてしまったというべきだろうか。
何度、あの日に後戻り出来ればと願ったかしれない。
けれど、決して失われた時間は戻らない。
死した人間が返らぬのと同じように。
閑散としたこの場所にはいくつもの十字架や石碑が埋められていた。
けれど、アルマは迷うことなく真っ直ぐにそれへと辿り着く。
数ある墓石の中からただそれだけを選び抜いた。
「久しぶりね、アーシャ」
愛おしむように、石碑に刻まれた名前を指でなぞる。
彼女――アーシャの時は、二年前のあの日に止まってしまったままだ。
もう二度と笑いかけてくれることはない。
「アーシャ……」
苦しげに呟いて、右手に持つ花を握り締めた。
彼女と過ごした日々は、アルマにとっては何よりもかけがえのない一時だった。
生来、身体の弱かった彼女の治療代を稼ぐため傭兵になった。
本当は側にいてやるのが一番だという事は分かっていたけれど、それでも諦め切れなかったから。
アーシャの病が、治らないなんて。
「アーシャ」
涙は出ない。もう、枯れてしまったから。
そう。枯れてしまったのよ。
貴女が死んだあの日あの時から。
「アーシャ」
彼女は答えない。答えられない。
もう、この世にはいなくなってしまった人だったから。
「アーシャっ」
繰り返し、繰り返し彼女の名前を紡ぐ。
けれど応えはなく、ただ呼びかけだけが虚しく空を滑るだけ。
耐え切れず、石碑に手を添えたまま崩れるようにして座り込んだ。
「……教えて、教えて、アーシャ……私は……私、は……っ」
どうすればいいの?
何度も何度も彼女に呼びかける。
けれど、答えはいつまで経っても返って来ない。
「アーシャ……わたしはっ」
コートの裾に泥がつくのも構わず、アルマは石碑に縋るようにして嘆く。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
何がいけなくてどこで何を間違えてしまったのだろうか。
いくら問いかけても答えは分からない。見つからない。決められない。
「どう、し、てぇっ……」
枯れていたはずの涙が、一滴だけ頬を伝った。
けれどアルマは気づかない。
自分が泣いているということに気づく余裕さえなかったから。
「どう……す、ればっ……」
声が震え、心が弛む。
けれど、誰一人答えを返してくれる者はいない。
問いかけだけが溢れ出て、彷徨い歩いて行く。
「……わた、しっ……は……」
始まりは憎しみ。
自身でも抱えきれないほどの激しい憎悪。
苦しめばいいと思った。
アーシャが苦しんだのと同じ分だけ、苦しんで苦しんで死ねばいいと思った。
偽りの優しさ、偽りの笑み、偽りの言葉。
風が頬を伝う涙を拭っていく。
けれど、後から後から、とめどなく溢れて止まらない。
風が吹く。鳥が羽ばたく。木々が囀る。
けれど、アルマには何一つ聞こえない。届かない。
いつからだったのだろう。
それが、偽りでなくなってしまっていたのは。
涙がはらはらと零れ落ち、大地に埋め込まれた石碑を濡らす。
風が吹き乾いた砂が通り抜けても決してそれは消えたりはしない。
小さな小さな水溜りを作り、揺れるだけ。
「シンちゃん」
会いたかった。
今は何を置いても会いたかった。
同時にどんなことがあろうと会いたくはなかった。
「シンちゃん」
行き場のない想いだけが零れ落ちる。
「シンちゃん」
やはり、誰も答えてはくれない。
「シン、ちゃん……」
それでもアルマは言葉を紡ぐ。
決して口にすることのない想いを込めて、その名を語る。
「…………どう、すればいいの……」
答えてくれる者のない場所で風だけがアルマを優しく包む。
いっそ、この想いを届けてくれればどんなに良かったことか。
どれだけ頑丈な蓋をして閉じ込めてもとめどなく溢れていく、この想いを。
涙は枯れない。
涙で滲んでいるはずの視界は、それでも尚アルマの目には鮮明に映る。
青い空も無限の大地も緑の森も何もかもが見えなくなってしまっても、それでも決して彼の姿だけは見失わない。
人ではないけれど。
黒と灰銀の縞模様をしたほんのちょっぴり高慢な猫なのだけれど。
それでもふと気づくとその姿が思い浮かぶ。
その、猫の姿を通して見える彼の本当の姿を。
陽が翳り、黒灰の雲が世界を覆う。
次第にぽつりぽつりと雨が降り始めた。
冷たい雨を感じながら、アルマは苦しげに笑んで空を仰いだ。
「まるで……空が泣いているみたいね」
世界は誰もアルマのことなど気にとめはしないだろう。
それでも、この時ばかりは頬を伝う雨を嫌いにはなれなかった。
長い長い間、アルマは一人、その墓地に佇んでいた。
雨が止み、陽が沈み、夜が来てもアルマはその場を動けないでいた。
動いみたところで何をすればいいのか分からなかったから。
と、アーシャの石碑の上に一羽の小鳥が止まった。
「ぴ?」
アルマを見、首を一つ傾げると、またすぐに飛んで行った。
鳥が飛んで行った方角をぼんやりと眺めながら、アルマは徐に立ち上がった。
少しだけ屈んでコートについた泥を払う。
先ほどまでの雨が嘘のように美しい望月が輝いていた。
空と大地の境界があいまいになるこの時刻。
星が瞬く海の中をアルマは一人静かに歩き出した。
どこへ行くのかもどこへ行きたいのかも分からずに。
風が頬を凪いで行く。
涙はもう、乾いていた。
パキリッ。
小枝の折れる音がして、何気なく後ろを振り返った。
そうしてアルマは浅葱色の瞳を大きく見開いた。
そこにあるはずのないもの、いるべきはずのない彼を見て。
「シン、ちゃん……」
風が吹き、世界が揺れた。