揺籃の森。後編
森を少し抜けたところに、町の全景を見渡すことの出来るその丘はあった。
腰の高さほどある岩にもたれ掛かり、鼻歌を口ずさみながらアーシャはぼんやりと町を眺めていた。
この丘はいい。静かになれる。
町にいる時に聞こえる騒めき声や笑い声は好きだ。
けれど、こうしてただゆっくりと流れる時間に身を委ね、人ではなく鳥や虫たちの歌声に耳を傾けるのも結構好きだったりする。
身体にじんわりと広がる疲労感と気怠さを煩わしいとは感じつつも、これも自分がまだ生きている証なのだと思えば鬱陶しさも少しは薄れるというもの。
じっくりと向き合っていくしかないものなのだから、今さらうだうだ悩んでいても仕方がない。逆に残りが少ないと分かっているからこそ、他の人より一日一日を楽しんで過ごせるのではないかと思うことにしている。
というより、暗く沈みこむのが好きじゃないのよね。
そういうのって自分も周りも切なくて苦しくなるだけだから。
「アーシャ!!」
静寂を打ち破るように聞こえてきた声に、アーシャは鼻歌を口ずさむのを止めた。
もう見つかっちゃたのねぇ、と内心がっかりしつつも早く見つけてもらえたことを嬉しく思い、ついつい忍び笑いを漏らした。
が、シンにはそれが苦しげに呻いたように聞こえたらしい。
「大丈夫か!? ああもうだからあれほど大人しくしてろって言ったのに」
そんなこと言われた覚えはないけどな、とは思ったものの口には出さなかった。
「……ちょっとね。風に、当たりたかったの」
シンはいつも自分のことよりアーシャのことを優先してくれる。
それは嬉しいことなのだけれど、ちょっと、切ないかなぁなんて思うのは我が儘なことだろうか。
と、シンがため息をつきながら隣に腰掛けた。
その動きに合わせて砂がじゃりじゃりと音を立てる。
岩にもたれ掛かった二人の間を薄い風がゆっくりと流れていった。
「……心配、するだろうが」
ぼそりとシンが小さな声で呟いた。
「うん。ごめんなさい。……ありがとう」
優しいな、シンは。
「身体、少しは楽になったか?」
シンがアーシャの頭を抱え、自らの肩へと引き寄せた。
「……うん。大分落ち着いたみたい」
それは嘘。だけど素直に苦しいって甘えるのは嫌なのよね。
我ながら負けず嫌いというか意地っ張りというか。
「こんなに熱いのにか」
幾分怒気の混じったシンの言葉に、ギクリと身体を強張らせた。
「……」
やっぱり、誤魔化すのは無理だったか。
さすがシン。
はあ、と深いため息を零してシンはアーシャの頬を両手で包んだ。
「いいか。お前はもともと身体が丈夫じゃない。なのに、すぐそのことを忘れてふらふらする癖は直せ。突然、姿を消されるこっちとしては気が気じゃない」
「……別に、そんなふらふら出歩いてないと思うけど」
唇を尖らせてアーシャがそう言うと、シンはまたこいつは何を訳の分からないことを言っているのかとでもいうように、すっと目を細めて睨みつけた。
「出歩いてるだろ。俺がいつもどれだけ心配してると思ってるんだ!?」
「……」
シンにいつも迷惑かけたり心配させたりしているのは分かっている。
だから何を言われても当然のことだ。
だけどほんのちょっぴり悔しく悲しくて、ぎゅっと膝を自らの方へと抱き寄せた。
「もし俺の見ていない時に万が一のことがあったらどうするんだ」
シンの言葉はいつも私を本当に思ってくれているからこそ出てくるもの。
それは本当によく分かってる。
だけど、だけど……何かが嫌だ。
身体が弱い。
だからそんなに外を出歩けるわけじゃない。
俺の目の届く範囲にいろ。
もっと身体を労わってあまりはしゃぐな。
そんなことは自分が一番よく分かってる。
だけど、そうなのだけれど。でも私は……
ああ駄目。駄目よ。私は今、とても醜い。こんなこと違うのに。
そうじゃないの。嬉しいことなのよ。そんなふうに思うことじゃない。
何故なの。
どうしてこんなに苦しいのかしら。
「アーシャ。聞いているのか」
「聞いてるわ」
涙を堪え、声を震わせないよう気遣ったためか、思わずきつい口調になってしまった。しまったと思ってみても、後の祭りというものだ。
「……迷惑か?」
「え?」
「俺がお前の事を心配するのは迷惑かって聞いたんだ」
そんなわけないでしょう、って即答出来なかった自分は馬鹿だと思う。
どうしてこうも悲観的になっているのだろう。
ああだから熱なんて嫌いなのよ。
「……分かった。もういい」
「……何よ、もういいって」
「もうお前にあれこれ言うのは止めるってことだよ。迷惑なんだろう?」
「そ、そんなこと言ってないでしょう!?」
「ああ。言ってはいないな。けど、そう思ってるんだろう!?」
「なんっ…………ぐっ……ぅ……」
興奮しすぎたせいだろう。
アーシャは急に胸を抑え、蹲った。
「ア、アーシャ!? 大丈夫か!?」
シンの声がひどく遠い。
ああ嫌だ。自分のこの身体が心の底から厭わしい。
「アーシャ!? 大丈……」
「触らないで」
直ぐに治まるから大丈夫よ、という言葉の変わりに随分ときつい言葉が飛び出した。自分で自分の言った言葉に驚いた。
「……すまん」
泣きそうな顔をして手を引っ込めたシンを気遣う余裕はなかったけれど、ただとても苦しくて辛くて息が詰まりそうだった。
何度か深呼吸を繰り返して、ゼエゼエと濁った息を吐き出す喉をどうにか鎮めた。
さやさやと頬を凪ぐ冷たい風がやけに心地良い。
「シン」
もう一度、息を整えてからシンの名を呼んだ。
シンが不安げな不思議そうな顔をしてアーシャを見つめた。
「もう……お別れね」
息苦しさの治まった胸元をアーシャは強く強く握り締めた。
「……え?」
アーシャが何と言ったのか分からず、いや理解することが出来ず、シンが掠れた声で聞き返した。
「私たち。もう別れましょう」
「な、何でだ!?」
訳が分からず理由を問うシンに、アーシャは少し逡巡して応えた。
「もううんざりなの」
もう迷惑かけたくないもの。
「そ、そんなに迷惑してたのか? あ。い、いや。直すから。どこが嫌なのか言ってくれたら直すから。だから……」
「それに」
シンの言葉を遮るように、冷たい声音でアーシャが言う。
「もうすぐ死ぬもの。私」
そう。どうせ死ぬもの。私は。
だから。だからね。
これ以上、シンを私のところに留めておくわけにはいかないの。
「馬鹿か。そんなこと」
「関係ない、とでも言うつもり?」
シンが必死でアーシャのことを庇おうとすればするほど、すっと心が冷えていくのが分かった。
「笑わせないで。貴方にも出来なかったじゃない」
「?」
「私の病気、治せなかったじゃない」
「!」
「腕がいいって聞いてたから、貴方ならこの病気治してくれると思ったのに。案外、たしたことないのね、薬師って」
そう言った口が自分の口ではないような気がして、アーシャは恐怖に震えそうになる身体を叱咤した。
「ア、アーシャ……」
シンが悲しげに顔を歪ませた。
ああごめんなさい、シン。
愛してるわ。何よりも。誰よりも。
ごめんなさい。愛しているの。
「もういいわ。どうせ役に立たないのなら」
「アーシャ?」
「物分りの悪い人ね。要らない、って言ってるのよ。貴方なんて。もう必要ないわ」
神様。もう、私には時間がありません。
だから、どうかシンを幸せにしてあげて下さい。
どうか。
二人の間を裂くように生温い風が吹き抜けて行く。
「……そうか」
長い長い沈黙の後、驚くほど硬く凍てついた声で言ったシンをアーシャは、ぐっと見つめ返した。
「そうか。お前はそんな風に俺のことを思っていたんだな」
シンの顔が何か吹っ切れたように、どんどんと白く歪んでいくのが分かった。
「確かに、俺はお前の病を治せなかった。それは本当にすまないと思っている」
いいえ。
そのことに関して、シンが自分を責める必要などどこにもないわ。
これは仕様のなかったことだから。
貴方のせいじゃない。
「アーシャ」
駄目よ。ここで目を逸らしては駄目。
「俺のことが嫌いになったのか?」
何の色も映さぬ瞳からは、どういう思いでそれを口にしたのか推し量ることは出来なかった。
ごくりと唾を飲み込み瞳を閉じて、一度だけ小さく深呼吸をした。
そして、再びゆっくりと目を開ける。
「そうよ」
たったこれだけの言葉を言うのに、アーシャは残り少ない命の灯火全てを注ぎ込まなければいけないほどの体力と精神力を要した。
身体中、重い疲労感と倦怠感に苛まれる。
「………………そうか」
静かにそれだけ言うと、シンは幽鬼にでもなったようにするりと立ち上がり、音もなくアーシャの側から離れていった。
……苦しい。
胸元をきつく抑えて痛みに喘いだアーシャは、しかしこれが忌々しい病からくる痛みではないということは分かっていた。
「…………っな……に、よ……」
行かないで。どうかそれでも好きだと言って抱きしめて。
早く行って。このまま振り返らずに過ぎ去って。
ひどい耳鳴りがする。
シンの足音が聞こえない。
呼吸が乱れ、心が狂う。
「……………………なんてっ……シンっなんてっ……」
「? アーシャ??」
荒い呼吸をし始めたアーシャを不審に思い、シンが驚いて駆け寄ってきた。
「どうした!? 苦しいのか!? アーシャ!?」
どうしてそんなに優しいの。
あれだけひどいこと言ったのに。
「おい、アーシャ!? す、すぐに戻ろう。戻って気付け薬を……」
「シンなんて……」
「え?」
「シンなんて猫にでも何でもなればいいのよっ!!」
全身でそう叫ぶと同時に、アーシャは全力で丘を駆け下りた。
シンの声は聞こえてこない。
聞きたい。聞きたくない。
身体が重い。胸が苦しい。
猫になりたい。鳥になりたい。雲になりたい。木になりたい。砂になりたい。
何でもいい。
私という存在でなければ、何でも。
「……っるわ」
私という存在をこの世から消してしまいたかった。
どうして生まれてきたのだろう。
どうしてシンに出会ってしまったのだろう。
ああシンはどんな顔をしていただろうか。
怒っていただろうか。それとも泣いていただろうか。
思い出せない。
浮かぶのはただ、優しい笑顔と大きな手の温もりだけ。
「嗚呼……」
吐息に濁った息が混じる。
視界が白く曇っていた。
「…………愛してるわ、シン」
遠のいて行く意識の中、アーシャはシンの笑みを思い出して自らもつられるように安堵するように笑んで、崩折れた。