燎原の火。前編
「今回もまたガセじゃないといいけどなあ?」
「……そうね」
この頃アルマの様子がおかしい。
どこが、と聞かれても答えに困る。
どこか、おかしいのだ。少し、寂しい。
「あの……さ」
「なに」
とても冷たい声音だった。
ただじっと前を見つめたまま、おそるおそる見上げたシンのことなど見向きもしない。
「……や。何でも、ない」
つい俯いてしまった。
俺がアルマを怒らせるようなことを何かしたのかもしれない。
でも俺にはそれが何なのか分からない。
ここは、敢えて聞くべきなのだとは思う。
けれど。
どうしたのか、などと聞く気にはなれなかった。
ただ聞くのがとても怖かった。
もう一度アルマを見上げて、何か言おうと口を開いた。
が、シンの口から言葉が紡がれることはなかった。
***
「ああ。その人ならあそこにいるよ。ほら。今、畑にいる」
「……ありがとう」
とある役人の話では、どうやらこの村に賢者と呼ばれている御老人がいるらしい。
前回みたいに空振りじゃないことを祈るばかりだ。
「すみません」
「……何用ですかな?」
何度目かのアルマの呼び声に、御老人がようやく気づいて振り返った。
人の良さそうな笑顔をした好々爺然としたじいさんだった。
ただその髪も瞳も夜のように真っ黒だった。
おそらく東方の国の人間なのだろう。
「あの……私たち賢者さんを探しているんです。それで村の方にお伺いしたら、あなたがそうだと」
「ふむ。ちょっとお待ち頂けますかな。すぐに済みますから」
そう言って、賢者殿は赤い芋を次々と大きな籠の中へと入れていく。
「……ふぅ。お待たせしましたな。では行きましょうか。とりあえず私の家へ」
「あ、はい」
***
「して、私に何用ですかな?」
「ええ。貴方にお伺いしたいのは、呪いの解き方についてです。何かご存知ではありませんか?」
「ほぅ。呪い、ですか」
そう言って、賢者殿は花の香りのするお茶を一口啜った。
「まず、どんな呪いですか? その種類にもよりましょう」
賢者の言葉にアルマは隣の椅子にお座りしていたシンの首根っこを掴み上げた。
「これです。……人間が猫になる呪い」
「うをい! これとか……言うなよ」
最近アルマが冷たいので、突っ込む言葉も遠慮がちである。
「おや。これは面白い呪いですな」
「いや。俺は全然面白くないし」
ニコニコと微笑む賢者をシンは引きつった笑顔で睨んだ。
この賢者、猫がしゃべる、という奇怪な現象を見てもさして驚いていないようだ。これは、もしかするともしかするのだろうか。
「何故、その様な呪いを?」
賢者の言葉に、シンはギクリ、と身体を強張らせた。
「そ……れは……その……」
「シンちゃん」
う。そんな目で見るなよ……。うぅ。
「わ、分かった。ちゃんと話す。その……ある魔法使いと喧嘩、みたいなことをしてしまって。お、俺はそいつが魔法使いだってその時まで知らなかったんだけど。そ、それでその魔法使いが猫にでも何でもなればいいって言ったんだ。……それで気がついたら……こうなってたんだよなー」
一気にまくしたててから息をつく。
我ながら何とも情けない話だと思う。
口に出してみると余計にそう思えてくる。
「なるほど。では、その魔法使い殿も故意があってそのような呪いをかけたわけではないようですな」
「え……」
一人うんうんと納得して頷いている賢者を見つめた。
「もののはずみで言ってしまった言葉にたまたま魔力が宿った、という気がします」
「あ……あ」
そうか。確かにそうだ。
あれは……あの時は俺にも非があった。
だからあいつを恨んではいない。
けれど、そうか。
あいつも俺のことを嫌いになったわけじゃなかった……のだろうか。
「ところでシン殿。あなたは何故その魔法使い殿に呪いの解き方を聞かなかったのですかな?」
「え……」
「例え喧嘩していたとはいえ、その呪いをかけた本人に尋ねるのが自然ではないですかな? 他のいるかどうかも分からぬ賢者や魔術師を訪ね歩くよりもよほどに確実だと私は思いますが?」
「それは……その……」
すっかり小さくなってきゅうと鼻を鳴らすシンを賢者は温かな笑顔で見つめる。
「別に責めているわけではありませんよ。何故聞かなかったのかと、ただそう思っただけですから」
「は、はあ」
「まあとりあえずは私もその呪いの解き方について考えてみましょう。と言っても私は魔術は専門ではないのであまりお役には立てないかもしれませんが」
ニッコリと微笑む賢者の言葉に、思わず泣いてしまいそうだった。
ようやく。ようやくこれでこの呪いが解けるかもしれない。
「ではまず、その呪いについていろいろと調べてみましょう」
「はい!」
嬉しくなって大きな声で返事をする。
と、隣のアルマが急に席を立った。
「アルマ?」
どうかしたのか、と言いかけて、それを遮るようにアルマが言った。
「別に私は必要ないでしょう? 話が終わるまで酒場にいるわ」
「あ……ああ、うん」
アルマは、そのまま一度も振り返ることもなく出て行ってしまった。
「喧嘩でも?」
「あ、いや……」
どうしてあんなに睨まれたのだろう。
一緒に、喜んでくれるものと思っていたのに。
それは俺の傲慢さがそう思わせていただけなのだろうか。
「追いかけたほうが良いのでは?」
「え……?」
再び、アルマの出て行った戸口に視線を向ける。
しばらく逡巡した後、シンは小さく首を振った。
「いえ。今生の別れ、というわけでもありませんし。後でどうしたのか聞きます。それより今は呪いの解き方を」
アルマが一緒にいないことはちょっと寂しい。
けれど、これは俺の問題なのだ。もともとアルマは護衛してもらうつもりで雇ったのだし、あまり深いところまで関わらせるのは悪いような気もする。
「……そうですか。分かりました。では、まずその呪いをかけられた時の状況から整理していきましょう……」
これで、この窮屈で悲しい呪いともさよならできるかもしれない。
あれから2年。長い、長い道のりだった。
***
「何をお悩みですかな、美しい方」
アルマが酒場のカウンターでグラスを煽っていると、妙な男が近づいてきた。
濃紺のイヴニングコートに薔薇の飾りのついたシルクハット、白い手袋をはめた手には黒いステッキを持っている。
およそこんな村には似合わず、とても目立つ男だった。
「ごめんなさいね。今、相手をしてあげられる気分じゃないの」
「おお! ますますミステリアスな女だ。私でよければご相談に乗りますよ。いえ、是非そうさせて下さ」
「気分じゃないと言っているでしょう」
凄みの効いた低い声音に、男は一瞬、押し黙った。
「……怒った顔も魅力的ですね」
気がつくと、アルマは背中の剣に手をかけていた。
「ははは。怖い方だ。さしずめ恋人が昔の彼女を忘れていないようで気が立っている、というところですかな?」
男は帽子を取り、大仰な動作で貴族風におじぎをした。
顔立ちから言うと似合っているような気もするが、その道化じみた男の動きゆえ、どこか違和感を感じてしまう。
「……恋人じゃないわ」
アルマは諦めたように大きなため息をついた。
「では、それに近しい方。思い人、ということですか」
「ねぇ。貴方。誰だか知らないけれど、もう私に構わないで。貴方もさっき言ったでしょう? 私、気が立ってるの」
視線だけこちらに向けて睨みつけるアルマに、男は大仰に肩を竦めてみせた。
「分かりました。美しい女性に嫌われたくはありません。お暇致しましょう。……ですが最後にひとつだけ」
まだ何か言うつもりなのかとアルマは男を睨み付けた。
「愛とはあらゆる感情を超越して存在し育む、奇跡の力なのです。それを否定することは誰にもできません。そのことをどうぞ心の中にお留め置き下さい」
それだけ言うと、男は酒場を出て行った。
残されたアルマは、訝しげに戸口を見つめる。
「……馬鹿じゃないの?」
再びグラスに視線を移し、残り少なくったきつめのブランデーを一気に煽った。
と、戸口が大きな物音と共に開けられた。
酒場中が静まり返り、皆何事かと、一斉にそちらを向く。
「……全員急いで逃げろっ!!」