六
よく見ると、子供が着ている服は、濡れそぼっていて、重たげに身体に張り付いている。川縁に立って、真っ直ぐに前を向いているので、その表情は読み取れないが、背中から伝わるのは、悲しみだった。
「……要、どうするんだよ」
隣に立つ要から返事が無くて、俺はちらりと横を見る。要は、泣いていた。
「要?」
要が、一歩前へと足を出す。その先に居たはずの子供の姿が無くて、俺は慌てて要の身体を抱き締めるように捕まえた。
その瞬間、俺はある事実に気がついた。
「……僕、おかあさんをがっかりさせたんだ」
要の口から、要の声とは違う声が聞こえた。変声期前の、幼い子供の声だ。
前持って聞いていなかったら、俺は驚いて要の身体を離していただろう。
口寄せ、と言うらしい。陰陽師の家系に生まれたはずの要が修得した能力は、イタコと呼ばれる霊能者のものだった。
「あんたみたいな子供、 いらないって。どこかに行ってしまえって」
「……これをどうにかしろってか、要」
子供に聞こえないように、小さな声で悪態をつく。子供の霊を憑依ーー乗り移るという意味らしいーーさせるから、説得しろと託されたのだが、俺にそんな事が出来るとは思えない。
「お兄ちゃん、離して。僕、どこか遠くに行きたいんだ」
「だったら、一人で行けよ」
子供とは思えない力で抗われて、俺は奥歯を強く噛む。実際、要の腕力を使われているんだろう。
「行きたいのに……ずっと、ここに居るんだ。だから、ずっと、行こうとしてるんだ」
子供の言いたい事が、なんとなくだが理解できた。
川に身を投げたのに、この場所に縫い止められたように、何度も同じ事を繰り返しているのだろう。それを目撃した人が、助けに飛び込んでも、川の中に子供の姿はないはずだ。そしてそのまま、彼らは冬の冷たい川で溺れてしまう。
「……迷惑なんだよっ!」
要には悪いが、川から引き離すように投げ飛ばして、馬乗りになる。こうでもしないと、一緒に引き込まれてしまいそうだ。
「やっぱり、僕……いらない子なんだ」
「なんでそうなるんだよ!」
説得は、優しくしてあげるんだよ。
要にそう言われたのを、今になって思い出したが、手遅れだろう。俺は、他人に優しくできる程、出来た人間じゃない。
「……わかんねーよ、どうすればいいんだよ」
俺が激昂すると、要に憑依した子供が、びくりと肩を揺らした。
「とりあえず、何があったか話せよ。話を聞くくらいしか、俺にはできねぇよ」
子供が、しくしくと泣き出した。
*
その日、彼は生まれたばかりの弟の世話を任されていた。母親がスーパーに買い物に行く、短い時間だけだが、彼は大人になったような気がして、とても誇らしかったのだという。
ベビーベッドで眠る弟を見ているだけ。それだけでよかったのだが、彼は自分がもっと出来るという事を母親に示したかった。
そんな時、弟が火の付いたように泣き出した。お腹が空いたのか、おしめが濡れたのか、とにかく、彼は好機だと思った。ここで、弟を泣き止ませれば、母親から褒められると思ったのだ。
それが、間違いだった。
彼は弟を抱き上げて、あやそうと思った。
そして、そのまま弟を落としてしまった。
折悪く帰ってきた母親が、その瞬間を目撃していた。彼は叱られると思ったが、母親は彼を一瞥しただけで、弟を抱えて部屋を出て行ってしまった。母親は、大事に至らないように、病院へと向かったのだが、彼にはそれがわからなかった。
帰ってきた母親から、彼は声を掛けられる事がなかった。ただ、その目が語っていた。
見捨てられたのだ。
彼はそう思った。
叱られる方がよかった。なじられる方がよかった。何もなかったかのように振舞われるのが、辛かった。
*
「馬鹿だな……」
俺は思わず、そう呟いていた。
「そう言えばよかったんだ。叱ってくれないのかって、聞けばよかったんだ」
これは、俺に対する言葉だ。
仕方が無い。そんな顔をしないでくれ。
そう言えばよかった。
緩めた手から、子供がするりと抜け出した。そのまま、要の身体のまま、川に駆けて行くのを捕まえ損ねて、俺は悲鳴に似た声を挙げる。
「要……!」
「もう、言えないんだ……」
要が、川の中を進んで行く。
追いかけて水の中に入ると、刺すように冷たい水に、足が竦んだ。だが、そんな事を気にしている暇はない。
「要、要……!」
このまま、要まで死んでしまったら。
そう思って手を伸ばす。もう少しで届く。そのもう少しが足らない。その時、暖かい空気が、俺を追い越していった気がした。
*
気がつくと、俺は地面に仰向けに寝ていた。少し微睡みかけて、はっと身体を起こす。
「あ、起きた?」
要が、隣に座っていた。
「起きた? じゃねーし……」
急激に、力が抜けていく。それから、ようやく寒さに気がついた。
「……さみぃ」
「翔がちゃんと捕まえてくれてなかったからだよ」
「お前なぁ」
睨みつけた先で、遠くを見つめている要の視線が気になって、俺は川の中へと目をやった。
そこには、あの絵の女の人がいた。
彼女は、子供を抱きしめて、微笑んでいる。
「……かあ、さん?」
絵ではわからなかったが、よく見ればそれは、死んだ時よりも若い、俺の母さんだった。
「心配だったんだね」
「……え?」
「翔の事、心配してたんだ」
要が、眩しそうに目を細める。
その言葉の意味がわかって、俺は泣いた。
母さんが死んでから、初めて泣いた。
そんな俺を見て、若い母さんは心配そうに顔を歪めた。それから、なんでもないのだと言うように首を振る。
ゆっくりと、母さんと子供の姿が霞んでいく。逝ったのだ、そう思った。
「あいつ、俺と同じだったんだ。俺……母さんに、愛想尽かされてると思ってたんだ」
「そんな事、ないのにね。馬鹿だな、翔は」
そう言って微笑んだ要を、俺は思わず抱きしめる。
「ちょっと、どうしたの?」
「よかった。要が、連れていかれなくて」
「助けてくれたからね」
誰が、と首を傾げると、要が空を見上げる。その意味を理解して、俺はまた泣いた。
やっと、気がついた。
「ありがとう、母さん」
ずっと、俺を守ってくれて。
どんなに無茶苦茶な事をしても、信じてくれて、守ってくれていた。だから、何も言わなかったんだろう。
「ところで、いつまでこうしてるつもり?」
俺の腕の中で、要が恥ずかしそうに身をよじった。離す気は無い。
「……もうちょっとだけ、いいだろ、要ちゃん?」
「あ、それも今さら気づいたんだ」
確かに、今さらだ。
要が、女の子だなんて。
俺は出会ってから今までの所業を思って、恥ずかしさに身悶えた。




