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「葬式……」
玲子さんの口から出たその単語をそのままつぶやく。
あのときの記憶を探ってみたが、学校からの帰宅途中に声を掛けられたことや帰宅後の両親の取り乱し様などの場面がつぎはぎのシーンとして思い起こされただけだった。ひたすら不安で怖かったという強い印象があって、玲子さんと過ごした半日は思い返さないようにしていたからあの日何をしたのか忘れ去ってしまったのかもしれない。
あなたのお父さん良い所のボンボンだったのよと、悪戯っぽい笑顔を浮かべ玲子さんは言った。
「だからね、強請りに行ったの、お金」
平然と笑みをたたえたまま彼女は続けた。
「結構もらえたわよ、政治家一家だったからスキャンダル嫌ったみたい。ふふ、下らないじいさんとばあさんだった」
えっと、これって笑顔で言うことなのだろうか。あなたこそ相当の下衆じゃありませんかと思わず言いそうになったが、思いとどまった。愛想笑いも引きつる。
「……一言、言ってくれれば良かったのにね」
彼女は笑みを浮かべたまま眉だけ寄せた。
「最後に会いに来てくれてありがとうって、あなただけにでも言ってくれれば良かったのにね」
そう言うと目を伏せて、玲子さんは鮮やかな料理をゆっくり口に含んだ。
ある選挙事務所で二人は出会ったのだという。
応援演説に来た議員の秘書とアルバイトしていた女子大生が惹かれあい、周囲に秘密で交際を続けているうちに玲子さんが妊娠した。親の言いなりである彼に幻滅して別れた時には堕胎が出来ない位お腹の子は大きくなっていたそうだ。それが、私ってわけだ。
「妊娠したかもって疑いが出た時と同じ位に、親が事故で死んじゃったのよね」
さらりと何でもないことのように言うから、相槌を打って聞き流すところだった。
「両親って言っても血は繋がってないんだけど。育ての両親は、お人よしで善良な夫婦だった。施設から引き取って、大学まで行かせてくれて。なんだか生まれ変わりみたいな気がしてあなたを生もうって決めた」
玲子さんの茶が強い瞳に、深い陰りが落ちたように感じられた。
「安置室でまだ大きくなってないお腹触りながら泣いたわ、恭司と二人並んで。……あたしと恭司は、二人とも里子として新藤の家に引き取られた兄妹だったんだよね。恭司は赤ちゃんのときから、私は小学生になってからだけど。血の繋がらない親に育てられた立場はあなたと同じ」
天気の話をするかのように、玲子さんは普通な様子で淡々と続けた。
「こういうのは親から聞くべきだしあの二人もそのつもりで黙っていたんじゃないかと思うけど、いずれ知ることだろうとも思うしね。
子どもを生んでからしばらくは恭司と二人で暮らしていたんだけど、生む前から私、ずっと怖くて仕方なかった。普通の家庭も知らない自分が大学中退して、父親もいない子どもを育てるってことが。だから、逃げたの。あなたのこと忘れたこと無いって言ったら嘘になる、でも毎晩寝る前には、小さな赤ちゃんが枕元にいた時のことを思い出してた。
あなたと再会して得たお金を資金にして、勉強して就職して、今の事務所立ち上げたんだ。あなたの存在に救われた」
不安定な夜の仕事から足を洗えたのだと彼女は言った。
「今更どんな言葉で謝罪しても受け入れられるだなんて思っていないけど、感謝だけは伝えたくて、それでいつかあなたに会いたいと思っていたの」
二人の空間は静かだった。それは居心地が良い静けさで、つい先ほどまでひたすら帰りたいと思っていた私は、その心変わりがなんなのか自分でもよく分からなかった。
ただ静かに、二人で向き合って並べられた料理に手をつけていった。時々机越しに目が合って、玲子さんから向けられた笑顔に硬い表情で答える、くらいしかやり取りは無かったけれど、悪い雰囲気じゃ無かった。家族でも友人でも無いし、親戚という感覚でも無い。他人ともまた違う不思議な感じをどのように表現すれば良いだろう。
ご飯を食べ終え、口元をナプキンでそっと拭いながら玲子さんが口を開いた。
「いいお父さんとお母さんなんでしょうね、恭司とその奥さんは」
浅く微笑みを浮かべたまま、玲子さんは言った。
「あなたのお母さんにはお葬式にあなた連れて行って家に帰した時、怒られたのよ。殴られたし。ビンタなんてかわいいものじゃなく、グーでおもいっきり。人の大事な子どもに何するんだって。
あの時も、もしかしたら今でも、あなたが羨ましかった。ずっと自分の中にさびしかった子どもの自分が残っている気がするんだ」
ごめんね、と小さく呟いて玲子さんは口をつぐんだ。
また近いうちに会いたいという玲子さんの言葉を受験だと言ってかわして、帰路についたのは夜の九時近くだった。夏といっても既に暗い。ホテルから駅まではすぐだったけれど、最寄り駅までは電車を二回乗り継いだ。
「隆哉?」
帰宅した私の目に真っ先に入って来たのはソファにうつぶせに横たわる弟の姿だった。
外は完全に暗いのに、カーテンも引かれていないし電気もついていない。余程疲れていたのだろう、部活からの帰宅後、夕方くらいから寝続けている様だ。
この間とは逆の構図。両親が帰ってくるまで一時間位だろう、親の帰宅前に帰って来れたことに安心した。
長い一日だった、クタクタに疲れた、早く寝たい。
食卓の上にはカップラーメン、汁だけ残っているところに割り箸が突き刺さったままだ。
「全く……」
仕方ないなぁ。ため息をわざとらしくつきながら、台所だけ電気を点けて容器を流しに下げ、カーテンを引くためにソファーの方へ向かう。ちらりと見た隆哉の背中は、規則正しく動いていた。完全に寝入っているようだ。
カーテンを閉めるために窓際に立つと、レースのカーテン越しにガラス窓に映った私の姿が見えた。
「……知ってたの?」
独り言を呟く。
隆哉が私の事を好きだって言ったのは、知っていたからなのだろうか。
私が父の子どもで無いと。
私達は血が繋がらないと。
息を吐く。吸う。なんだか、それだけのことが億劫だ。
ゆっくり隆哉の頭の横、ソファーとローテーブルの隙間にしゃがみこむ。
「たかや……」
弟の名前を呼んで、私は静かに眠る弟の後頭部に額を預けた。
超更新滞っておりすみません。ほんとうにすいませんー。