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短編

水彩度

作者: 希望無人
掲載日:2026/06/03

 深いまどろみの、更にその奥で眠っていた。たった一瞬の安寧に身を任せ、いつか来る恐怖から目をそらす。

 須臾の夢で蝶は舞う。破滅を定められた水泡の様に、滅するその時まで刹那を願う。

 ただがむしゃらに、歩いて、歩いて、存在の証明もできないから、意味もなく価値を疑う。

 嗚呼哀れな迷い子よ、何故貴方の生はこうもままならないのでしょう。己に問う。返す応答は沈黙のみ。

いつしか日は沈み、蝶は行き場を失った。自我は腐食し、空さえその惨めで滑稽な木偶人形を嘲笑った。

 どうか夢よ終わらないでくれ。しかし、そんな願いさえも、虚しく散りゆく。朝日は上り、夢は静かに消えていった。


 チリリと煩く鳴り続けている目覚まし時計を乱暴に黙らせる。どこか朝の雰囲気を内包した冷気と薄暗い闇で満たされた部屋の中、しばしの逡巡の後、僕は決心すると体を起こした。

 寝ぼけ眼で宙を見つめていると、頭に血が通っていく感覚がした。背中のあたりで、重い疲労感がずっしりとその存在感を主張してくる。

 昨日の疲れがまだ取り切れていないのだ。きっと、今日の分の責務を終えたら、上乗せされた疲労は昨日よりも大きくなるのだろう。それが明日も、明後日も、はたまたその先もずっと続いていくのだと考えると、気力がゴッソリと抜けていく気がした。

 やがて意識が体内で確かな形を作ると、案の定脳内が再び睡眠欲に揺さぶられた。ぱっちりと開いていた目が、半開きになったのをいいことに、睡魔が追い打ちをかけるように二度寝を促してくる。それでもなお視線を彷徨わせ続け、まぶたの裏側にピリピリとした痛みが流れ込んで来た頃、やはり貧弱な決心は砕け散り、体は再度横たわり地に伏した。

 自分は恥ずかしい人間だ。そう自他共に認める程には、他人には見せられないような人生を歩んできた。今もこうして、些細な苦しみに、ただうめき声を上げるだけだ。目を閉じ、思考を巡らす。

 しかし考えても見てほしい。普通、人間という奴は、利益や快楽、つまりは自分に都合のいいものに執着する生き物だ。さしずめ、その障害となるのが、この世界における理不尽だったり、他人の都合だったりするわけだ。

 容は、追い求める利益や快楽と、その間に生じた障壁、その乖離に存在する物こそ、苦しみという感情で、それを乗り越えるのが努力という行為であり、人はそれをああ凄いねと褒める。だが、僕は人に褒められるために生きているわけじゃないし、無理に体を起こしたところでその先に待ち受けているのは学校やら教師や親からの説教やらのみ。そこには何の面白みもないし、どこまでもメリットというやつを感じられない。

 いくらこれが生きていく上で必要な義務だと言っても、自分は思うのだ。

 例えば、こんな睡魔にうなされずに満足行くまでぐっすり眠れる日が、無限に広がる世界線のどこかに存在したとして、それを望むのは果たしていけないことなのかと。

 だけれども、そんな自分なりに真面目に考えた理屈も、戯言という一言で片付けられて、それでも、あたかも最初から苦しみを受け入れることを良しとされる現状に辟易として。

 何が言いたいかと言えば、今自分は、どうしようもなくこうして苦しみから逃げているのを正当化したいのだが、どうにも結局はいつもの如く布団から引っ張り出されて面倒な課題に向き合わされる見通しが立っていることに吐き気を催す程の不快感を感じているのだ。

「まぁ良い。構うことはない」

 そう、自分に言い聞かせるようにつぶやいて、僕は無理やり体を覚醒させた。今度は同じ轍を踏まないように、勢いをつけて慣性を利用し、そのまま起き上がった流れで布団から脱出した。

 このツケは昼頃になったら回ってくるだろうか。授業中に居眠りして先生の額に青筋を浮かべるようなことが無いと良いのだが……。かといって、このまま寝ていたら白いのにガミガミ言われるから、選択の余地も無いのだ。


 その後、特になんの面白みも無い朝を過ごして、僕は責務へと向き合った。白いのと黒いのがなにかを言っていた気がするが、きっとしばらくしたら忘れる。だから耳に入れる気にもならなかった。

 それで怒られるなら、それも耐えるしか無い。仕方のないことだから、精神が摩耗するのも、受け入れるしか無い。そうして今日も、僕は悪循環を催促するのだ。

 学校は、勉強をすると同時に、人との関わり方を学ぶ場所であるという旨の言葉を聞いたことがある。僕には関係の無いことだ。勉強も嫌いだし、人と関わるのも嫌いだ。だけどやらなきゃいけないから、親が憤死しない程度には頑張ってるつもりだ。成長についてはここ三年間一度も達成感を感じたことがないということから察することができる。 

 玄関を通り過ぎたら、人混みに巻き込まれた。白いやつと黒いやつが入り乱れる中、定位置につくために僕は足を進めた。

 いつも通りに廊下を進み、いつも通りに部屋に入る。席につくと、ひどく倦怠感が体の中で渦を巻いているような感覚に陥ったが、それを無理やり黙らせ、僕は大きくため息をついた。

 人形の様だ。辺りに視線を巡らせ、心の中でつぶやく。どの生命も、この生命も、白も、黒も、きっと、一度関わってしまえば、自分の色はあるべき姿を失ってしまうのだろう。今でさえ、この環境と、世界の理不尽に挟まれて、色に亀裂が入っているのだ。これ以上は、許容範囲外だった。

 まるで、水彩画の世界における、彩度の概念の様だ。他の色と交われば、彩度が低くなるというのは良く言ったもので、本来あるはずの姿から乖離すれば、その色が持つ個性は失われる。たとえそれが美しい色を作り出したとして、それが度を過ぎれば、ましてや、相容れるはずのない色どうしが混ざりあえば、そこから生じる痛みは、その人格さえ歪みかねないほどに人という脆弱な存在には耐え難い物だ。

 気持ちが悪い。本当に、めまいすらしてくる程に。

 僕は拒否しなければならないんだ。色も、何もかも、自我を失わない様に、この先も、ずっとすべてを拒んで行くのだ。

 次の時間も、僕は下を向いて、ただ時が過ぎるのを待っていた。次の時間も、更にその次の時間も、流れ行くその一瞬一瞬をただ耐えていた。当たり前に過ぎていくはずの時の経過は、何十倍にも感じるほど長く、無駄な時間が、ただ無駄に過ぎていった。

 最後の責務が終わったら、軋轢に耐えきれなくなって、僕は逃げるようにその場を去った。早く、自分の中に溜まった苦しみを吐露したかった。

 

 空白の上に、線を引く。

 丁寧に、丹念に。内に秘めた物を、自由に表現する様に。筆は止まらない。ただ、目の前のことに夢中になって、我を忘れて手を動かす。あぁ、きっと、今自分は考えられる限りの自由を噛み締めている。これが、たった一つの、自分を表現出来る手段なのだ。点は線に、線は形に。そうして抽象は確かな造形を形作っていく。

 しかし、日々つもりに積もった疲労が、どこか体の中で主張を初めてきた頃、はたと冷静になり、僕は改めて俯瞰して全体を眺めてみた。するとどうだろう、なんと今まで書いてきた物がひどく滑稽に見えるではないか。

 納得が行かない。そう感じた僕は、ためらわず消しゴムを取り出して、線を消した。

 そして全てはまた白紙に戻る。努力が無に帰した、この状態を端的に表すなら、そう言って相違無いだろう。しかし自分とて最初からすべてが上手くいくなどとは思っていない。僕は一瞬の逡巡も無く筆を取り直し、紙に絵を描き始めた。

 しばらく自分の世界にこもった後、また脳の片隅に疲労がちらつき出した頃、今一度重めのため息を吐き、絵を見下ろす。先程の物に比べたら、いくらかマシに見えなくも無い。しかし、理想には程遠い。もう一度、僕は努力の痕を消し去った。

 そんな過程を、もう二、三回繰り返したころ、消しゴムで消しきれなかった黒ずみが、紙一面を満たした。もう、何を書いても無駄だろう。僕は紙をくしゃくしゃにまるめてゴミ箱に投げ捨てた。そして新しい紙を取り出し、再び机に向き合う。

 しかし、その時僕は、はたと動きを止めた。疲労が積り過ぎたせいか、一つ、思考がある考えにたどり着いたのだ。例えば、今僕は当たり前の様に紙を丸めて捨てた。それは紙中に黒ずみが溜まったからだ。でも、もし、こんな風に当たり前の様にやり直せない何かがあったとしたら。ただひたすらに努力して、でもその全てが空回って、全てが黒ずんだ何かに満たされたその先で何も動けなくなって、それでもやり直せず、向き合わなければならない。きっと、それはどうにもおぞましいものでは無いのだろうか。

 そうだ。僕が表したいものは、これだった。ゴミ箱から、黒ずみに染まりきった絵を取り出し、広げる。

 なりたいものがあった。生きたい生があった。このままずっとこうして絵を描いて、自分を表していたかった。その行き着く先が、こんな一つの汚らしい黒ずみに過ぎないなんて、なんと虚しいのだろう。目から溢れる透明な水が、黒い紙の上に落ちて、水彩の様に溶けていく様が、今は忌々しかった。

 なんだか、全てが無意味に思えてきた。僕は体を投げ出すようにベッドに飛び込み、目を閉じた。


 その夜、僕は夢を見た。最初、その少年が誰なのか分からなかった。だけど、それが昔の自分の姿だと気づいた時、何か愕然とした様な感情が、胸の中で膨れ上がって破裂しそうになった。その少年は、笑っていたのだ。それも、心の底から、楽しそうに。

 そうか、僕は、過去の自分の期待を、裏切ってしまったのか。誰も彼も、人形の様だと思っていた。でも、本当の人形は僕だった。心を閉ざし、他の色を拒む。もう、僕は変わってしまった。過去には戻れないし、人生は「やり直せない」

 いや、やり直せない、なんて決めつけるのも、きっと間違いかもしれない。起きるんだ、そして、行動を起こすんだ。水彩の様に、せめて、潔く間違いを歩み続けた償いをしなければならないと思った。このまま永遠に夢の中で生き続けられたらどれほど楽だろう。それでも、僕は僕のやりたいようにやる。

 そうして、刹那の夢は滅し、再び僕は責務を果たすために目を覚ました。


 外は、未だ暗闇に包まれていた。冷たい空気の間を縫い歩くように、その場所へと足を進める。 

 しばらくして、塀に囲まれた塔に着くと、僕はためらわずに塀をのり越えた。その先にあるフェンスの先に行くと、劣化して崩れ落ちている壁の間から塔の内側へと入った。

 階段を登っていく。以前に、こんなことを考えたことはあった。だから、一度ここには来たことがあるし、歩みが億劫になることは無かった。

 塔の頂上、屋上に着くと、そこから朝日が出てくるのを見渡せた。

 嗚呼、なんてきれいな情景なのだろう。

 水彩の空は、朝日に照らされ、清々しい景色を映し出していた。

 もう、ためらいは無かった。足を踏み出し、風を体に受ける。

 一瞬の浮遊感。最期に見た空は、しかし、どこかで笑っている様だった。

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